ヤマホトトギス 江戸城(皇居)東御苑 2013-09-18
*玉の井の起こりについて:
濹東の私娼の町、玉の井は、大正時代に入ってから開けた新開地である。公娼の町、吉原とは伝統の違う、はるかに〝格下″の場末である。
「濹東綺譚」の文章に従うと、大正7、8年頃、浅草観音堂裏手に広い道路が作られた際、そのあたりに数多くあった「楊弓場銘酒屋のたぐひ」が、ことごとく取り払いを命じられ、玉の井の大正道路沿いに店を移したのが始まりとある。
道路改正にともなって「楊弓場銘酒屋」(つまり私娼街)が、隅田川を越えた濹東に、立ち退きを命じられた。この裏には、私娼街などといういかがわしい悪場所が、東京の盛り場にあってほならないという権力の意志があったと考えられる。
大正道路というのは、「濹東綺譚」や「寺じまの記」にも出てくるが、大正天皇即位を記念して作られた道路で、白鬚橋から東方の寺島村へと通じていた。東武鉄道を越えてからは、いろは通りと呼ばれた。(「大正道路」も「いろは通り」も通りだけでなく呼称も現在もなお残っている)。
この通りの両側に、浅草から移ってきた銘酒屋が、大正なかばころから、店を並べるようになり、さらに、関東大震災によって焼失した十二階下の銘酒屋が移ってきたことで、「この土地の繁栄はますます盛んになり遂に今日の如き半ば永久的な状況を呈するに至った」(「濹東綺譚」)
昭和5年4月9日
荷風は差出人の名前のない手紙を受け取った。それには玉の井の様子が次のように詳しく書かれてあった。荷風が玉の井のことを知ったのはおそらくこれが最初である。
「前略その後は如何に御暮し遊され候や私事只今寺島町に住居いたして居ります名高い玉の井の近所にて東京府下中で一番物の安いところです魚屋などは拾五銭も出しますと四五人のたべるのに澤山でまるで大むかしの浅草がかうであらうと恩はれるやうで空地の草の上に商人や猿廻せり売屋など出て居ります売笑窟には家が七百軒女が一千六百人位居ります浅草駅から玉の井までは四銭で来ますその盛なことゝ申しますと日曜日などは電車がつくたんびに四五十人の人がみんな玉の井へ入り込ます云々」
昭和5年の時点ですでに玉の井は「名高い」場所で、日曜日には活況を呈している様子が語られている。
今和次郎編『新版 大東京案内』には「私娼街」として亀戸と玉の井の二ヵ所が挙げられている。
「亀戸も玉の井も、暗黒街の名に恥ぢず、まるでトンネルをくゞるやうな暗いぢめぢめした通りから成り立ってゐる。廣くて九尺、多くは六尺幅の道、甚だしいのはやっと人が歩ける三四尺幅の道の両側に、その暗い家がずらりと並んでゐるのだ。その露次、小路の多いこと、一度迷いこんだら、明るい沙婆へは出られさうもない感じ、まさに八幡の薮知らずである」
同書によれば亀戸、玉の井とも1日に来る客は7、8千人。そのうち実際に遊ぶ客は6千人ほどという。
料金は1円50銭から2円まで。泊り込みは3円から5円位というやり荷風の観察とはぼ変らない。
玉の井の女たちの前身は、カフェー、料理屋、そば屋、めし屋などの女中、農家の娘、女工、など下積みの女たちである。
『墨田区史』(墨田区役所、昭和54年)も、荷風より前に玉の井を法風俗史的に研究した喜多壮一郎著『近代犯罪科学全集』を紹介しながら、大正期に玉の井がすでに私娼の町としてにぎわっていた、としている。
大正末年から昭和初年にかけて、公娼にかわって私娼が台頭してきて”私娼の時代”と呼ぶべき風俗史の一時代があらわれた。
「大正末年から昭和初年にかけて日に日に台頭してきた私娼は、芸妓と娼妓の短所をつかんで、経済的、簡単主義を旗印としてその進出ぶりはすばらしかった」。
玉の井は、この”私娼の時代”のひとつの代表としてにぎわった。
とはいえ、玉の井が、吉原などに比べると新開地、場末であることは変りない。
野口富士男の言葉を借りれば、「なんといっても玉の井は、荷風がそれまで書いてきた新橋はもちろん、神楽坂、富t見町、白山、麻布の花柳界はおろか、吉原や洲崎ともまったく質のことなる最低の遊び場所だった」
昭和4、5年頃、学生として玉の井に遊んだ大林清の回想記『玉の井挽歌』(青蛙房、昭和58年)。
玉の井を「歓楽街というにしてはあまりにもうら悲しい哀愁の漂う陋巷」、
「荷風がラビラント(迷路)と神秘的な言葉で表現した横丁は、実はそこへ一歩踏み入った途端、興ざめする異様な臭気に充ちていた。それは娼家の便所から絶え間なく流れ出て、いわゆるラビラントのドブ坂の下をくぐり抜けていく洗滌薬と屎尿の臭気だった」
昭和4、5年頃、「新劇ボーイ」として玉の井に遊んだ前田豊の回想記『玉の井という街があった』(立風書房、昭和61年)。
玉の井を「汚なくて、臭くて、みすぼらしい、およそ美というもののないこの場所」
「ドブと便所と消毒液の匂い、一年中蚊が路地の至るところでわんわんと唸りを生じ、冬は冬で寒風が多角度に吹きすさび、ろくに方向を見定めることもできない」と、書いている。
昭和7年には、東京犯罪史上に知られるバラバラ事件が起っている。
大林清も前田豊もこの事件に一章割いている。
この事件(玉の井のドプにバラバラの死体が発見された。のちに浮浪者のものと判明。犯人も逮捕)は、玉の井の名前を一躍全国に知らしめるきっかけになったようだ。
荷風も「日乗」昭和7年10月21日
「晩間雨の霽るゝを待ちて銀座オリンピクに飯す。神代君来りて夕刊記事玉ノ井惨殺犯人逮捕の事を伝ふ」と記している。
こんな「汚なくて、臭くて、みすぼらしい、およそ美というもののないこの場所」が、その侘しさゆえに多くの男たちを惹きつけた。
大林清の言葉を借りれば「陋巷の魅力」であり、また、前田豊の言葉を借りれば「貧しさの魅力」である。
「この、うらぶれた貧しい場所へ、毎日毎夜、何千何万という人間が、雨の日も風の日も、悪臭をおかしてやってきたのも、言うなれば、玉の井という街の持つ貧しさそのものに、大きな魅力を感じたからに他ならなかったからであろう。ここには吉原などの公娼街ではぜったいに得られぬ青春の詩があった。形式張らぬ安直さが、資力のない若者や遊客に何よりもよろこばれた」
「老いを自覚した荷風にとっては、この貴しいがゆえに気取ることもいらない私娼の町がようやく探しあてた落塊の隠れ里に見えたこと、そして、”末期の目”で見たときに、うらぶれた陋巷こそが美しい町に見えたことは、想像に難くない。」(川本)
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「三十 濹東の隠れ里 - 玉の井」 (註)
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野口冨土男は小文「『濹東綺譚』覚え書」(『文学とその周辺』筑摩書房、1982年)のなかで、「濹東綺譚」の成功によって第二の荷風の時代が来たと当時を次のように回想している。
「高見順の時代というものがあったとは、中島健蔵の言である。永井荷風の時代というものも、二度あった。
その第一は、明治四十二、三年である。宇野浩二は三笠書房版『読本現代円本文学』の月報に書いた『古川に水絶えず』の中で、自分は夏目漱石、島崎藤村、田山花袋、谷崎潤一郎、長田幹彦、芥川龍之介の文壇進出当時もみてきた。が、荷風が『曇天』、『監獄署の裏』、『祝盃』、『歓楽』、『すみだ川』、『新帰朝者日記』、『冷笑』その他を発表して、翌四十三年《慶応義塾文学部教授となり、「三田文学」を主幹となって創刊した頃のやうな、花々しい感動を、私は見た事も経験した事もない。》と述べている。
その第二は昭和十二年で、『濹東綺譚』は日華戦争突入寸前のいわゆる非常時に、「魔窟」と呼ばれた、日本の首都である東京の恥部ともいうべき私娼街の玉の井をえがいたという、時代背景と素材の特異件とのコントラストの妙によるところもすくなくなかったとはいえ、文壇のワクを越えてひろく知識層一般の注目をあつめた。ことに、私の知っている範囲にかぎっても、後進作家にあたえた反応には小さからぬものがあって、それは文壇予備軍の末端部にまで及んだ。
武田麟太郎や高見順は、熱っぽく作品について語った。川崎長太郎は、その作品に《濹東漫歩》中の荷風のグリンブスをとらえた。・・・太宰治や檀一雄が玉の井に出没したのも、荷風作品と無関係ではなかったろう。武田、高見ともしたしかった徳田一穂や倉橋弥一は荷風文学を再認識して、『日和下駄』中の『淫祠』冒頭の一節である《裏町を行かう、横道を歩まう。》を合言葉というよりは呪文のようにとなえながら、私ともども玉の井、浅草、上野、本郷などの町々をさまよい歩いた。また、私をもふくめて徳田一穂の周辺にいた青年達が、一人の例外もなく《星に眼を注げ》と《横丁から目を離すな》という両思想の兼有者であるラーベの『雀横丁年代記』をきそって読んだのも、『濹東綺譚』から幾屈折かを経て《裏町を行かう》という呪文に取り憑かれた果ての行為にほかならなかった。『濹東綺譚』は当時の私達にとって零落趣味の媚薬であり、厭戦思想へのいざないの書であった」
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"…野口富士男は、「『濹東綺譚』覚え書」のなかで、昭和7年1月22日と25日に玉の井へ出かけている荷風がその後昭和11年3月21日まで、なぜ4年余のあいだ玉の井に行かなかったかと疑問を呈出している。
私なりに推測すると、昭和6年から7年にかけて体調がすぐれなかったことがひとつの理由として考えられる。
竹盛天雄作製の年譜(岩波書店『荷風全集』第29巻)によると、
昭和6年3月「脚気の症状があり注射を始めた」、
昭和7年2月「病臥」、
同年11月「青山脳病院にゆき斎藤茂吉の診察を受けた」、
昭和9年5月、6月、「大石医院にて脚気注射を続けた」、この時期、荷風の体調はよくない。
昭和11年2月24日には、老衰の感強く、遺書まで作っている。
もうひとつの理由は、この時期、荷風は「黒澤きみ」「渡邊美代子」らの私娼に興味を覚えていた。
彼女たちとの交際(取材)に忙しかった。
玉の井へ足繁く通うようになるまで4年余の空白があるのはそのためではないか。
このことは逆に、次の玉の井行きの理由にもなる。つまり、死を予感した荷風が最後に未知の陋巷を求め、「黒澤きみ」「渡邊美代子」にかわる私娼を探そうとしたのである。
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