蔵前橋から 2013-09-20
*空振りに終ったフリードマンの訪中
フリードマンの訪中は空振りに終わった。
いくら大学教授が党幹部に祝福を与える様子が共産党機関紙に掲載されても、民衆を味方につけることはできなかった。
その後、国民の抗議運動はますますエスカレートし、過激になっていった。
なかでも象徴的だったのは、天安門広場での学生たちによるデモだった。
世界中のメディアはほぼ例外なく、この歴史的な抗議運動を、欧米型の民主的な自由を求める理想主義的な学生たちと共産主義国家を守ろうとする守旧派独裁政権との問の衝突だと捉えた。
汪暉(ワン・フイ)『中国の新秩序』(2003年)の見方
ところが近年、天安門事件に関するこうした主流の考え方とは異なる見方が出されている。
フリードマン理論がカギを握るとするこの見方の代表的な論客が、一九八九年の抗議運動の指揮者であり、現在は「新左派」と呼ばれる中国の有力な知識人の一人である汪暉(ワン・フイ)だ。
二〇〇三年にアメリカで出版された著書『中国の新秩序』で、汪は当時抗議運動に参加したのは単にエリート学生だけでなく、工場労働者や零細企業の経営者、教員など中国社会の幅広い階層にわたる人々だったと説明する。
鄧小平の「革命的な」経済改革によって貸金は下がり物価は上昇し、「解雇と失業の危機」が起きたことに対する民衆の不満が、抗議運動の発端になったというのである。
「これらの変化が一九八九年の社会運動の触媒となった」と江は書く。
経済改革の中味ではなく、反民主的(フリードマン的)な改革プロセスへの抗議
民衆の抗議運動は、経済改革それ自体に向けられたわけではなく、改革がフリードマン的な特徴を持っていたこと(急激かつ冷酷無比で、そのプロセスがきわめて反民主的であること)に向けられていた。
汪によれば、選挙や言論の自由に対する人々の要求は、こうした経済的な異議申し立てと密接に結びついていた。
政府が民衆の同意をいっさい取りつけることなく革命的な規模の改革を断行したことが、民主化要求の起爆剤となった。
「改革プロセスと社会的利益の再編成が公正に行なわれているかどうかを監視する民主的手段を求める、幅広い要求」が存在したと、彼は書いている。
二つの選択肢
こうした民衆の要求が、共産党幹部を決定的な選択へと追い込んだ。
その選択とは、通常指摘されているような民主主義と共産主義、あるいは「改革派」と「守旧派」の間の選択ではなく、もっと複雑な計算の絡む選択だった。
すなわち、党はブルドーザーさながらに抗議のデモ隊をなぎ倒し、まっしぐらに自由市場原理を追求するべきか、あるいはデモ隊の民主化要求に屈して権力の独占を返上し、経済プロジェクトの大幅な後退のリスクを負うか、という二つの選択肢である。
党内の市場改革派のなかには民主化路線に懸けてみようという、趙紫陽総書記を中心にした一派もいて、彼らはいまだ経済的改革と政治的改革が両立可能だと信じていた。
だが多数派は、そのリスクは負うべきでないという考えだった。
そして、政府は経済「改革」計画を守るために抗議運動を弾圧する道を選んだ。
戒厳令
1989年5月20日、中華人民共和国政府は戒厳令を布告。
6月3日深夜から4日未明にかけて、人民解放軍の戦車が天安門広場で座り込みを続ける学生や市民に突っ込み、無差別発砲。学生たちが避難したバスにも解放軍兵上が突入して棍棒で彼らを殴打した。広場にはさらに多くの部隊が投入され、バリケードは崩され、デモの指揮者は逮捕された。中国全土でほぼ同時に、同様の弾圧が行なわれた。
「逮捕された者の大半、そして処刑された者は事実上すべて労働者だった」
一連の弾圧による死傷者の数について、信頼できる数字は存在しない。共産党は数百人単位としているが、目撃者の報告では死者は2千~7千人、負傷者は3万人にも達するとされる。
事件後、全土で体制に批判的な者を探し出す魔女狩りが行なわれ、およそ4万人が逮捕された。
投獄された者は数千人、処刑された者も少なくなかった(数百人の可能性がある)。
ラテンアメリカと同様、工場労働者に対する弾圧がもっとも過酷だった。
規制が撤廃された資本主義にとって、彼らがもっとも直接的な脅威となる。
「逮捕された者の大半、そして処刑された者は事実上すべて労働者だった。国民を恐怖に陥れるという明らかな目的のもと、逮捕者を組織的に虐待し拷問にかけることが周知の政策となった」と、モーリス・マイスナーは書く。
欧米のメディアではおおむね、事件は共産主義政権の残忍さを示すまたひとつの例として取り上げられた。
『ウォールストリート・ジャーナル』紙は「中国の過酷な措置、一〇年越しの改革を後退させる恐れ」との見出しを打ち、改革のもっとも熱心な擁護者であり、さらに新たな領域へと踏み込む決意を固めた鄧小平を、まるで改革の敵であるかのように扱った。
「われわれはけっして間違っていなかったのです」
流血の武力鎮圧から5日後、鄧小平は国民に向けて演説し、自分が守ろうとしているのは共産主義ではなく資本主義であることを一点の曇りもなく明らかにした。
民主化要求デモに参加した人々は「大量の社会のクズ」だと片づけ、党が全力をあげて経済的ショック療法を実施する決意であることを強調した。
鄧小平は言う。
「ひとことで言うなら、今回のことは試験であり、われわれはそれに合格したのです」
「不幸な事件ではあったが、これによってわれわれは改革および開放政策をより着実に、より良く、より速いスピードで推進できるだろう。(中略)われわれはけっして間違っていなかったのです。(経済改革の)四つの基本原則には何も問題はない。足りないものがあるとすれば、それはこれらの原則が十分に実施されていないことです」
* 鄧小平には何人かの著名な擁護者がいた。
ヘンリー・キッシンジャーは新聞の論説で中国共産党には他の選択肢はなかったと主張している。
「世界中どこを探しても、首都の中心にある広場が八週間にもわたって何万人ものデモ隊で占拠されることに耐えられる政府など存在しない。(中略)したがって抑圧は不可避であった。」
経済改革はやめないが政治的改革は事実上中止する
中国研究者でジャーナリストのオーヴィル・シェルは鄧小平の選択を次のように要約している。
「一九八九年の天安門事件以後、彼が言ったのは、経済改革はやめないが政治的改革は事実上中止する、ということだった」
鄧小平とその共産党幹部にとって、自由市場の持つ可能性は今や無限大だった。
ピノチェトがテロによって革命的な変化を起こすための道筋をつけたように、天安門事件は急進的な改革を国民の反発を招くことなく実施する道を開いた。
改革によって農民や労働者の生活が苦しくなるとしても、彼らはそれを甘んじて受け入れるか、さもなければ軍や秘密警察の怒りを買うしかなかった。
こうして国民を恐怖の状態に置きつつ、鄧小平はかつて行なったことのない徹底的な改革を断行した。
過激な政策の復活
天安門事件の前、鄧小平はいくつかの過激な政策を緩和することを余儀なくされた。
だが事件から3ヶ月後、彼はそれらの政策を復活させたほか、価格統制の撤廃をはじめとするフリードマンの助言のいくつかも実行する。
江暉にとって、「一九八〇年代後半に実施することができなかった市場改革が、たまたま一九八九年以降の情勢のなかで遂行された」
「一九八九年の政府による暴力が、改革によって引き起こされた社会的混乱を阻止する役割を果たし、新しい価格決定方式がようやく具体化した」からだ。
言い換えれば、天安門事件のショックがショック療法の実施を可能にした。
鄧小平の警告
事件直後から3年間に中国は外国資本に市場を開放し、国内各地に経済特区を設置した。
鄧小平はこれらの新しい政策を発表するにあたって、国民にこう警告した。
「必要であれば、いかなる混乱でもその兆候があり次第、あらゆる可能な手段を使ってそれを排除する。戒厳令、あるいはそれより過酷な措置が導入される可能性もある」
*ニューヨーク大学の文化人類学者デイヴィツド・ハ-ヴェイが指摘するように、「中央政府が全力をあげて外国貿易と外国からの直接投資に対する開放を推進するようになった」のは、事件後の1992年初め、鄧小平が南部の都市を視察した有名な「南巡」後のことである。
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