2013年10月28日月曜日

寛徳3年/永承元年(1046) 「文武の二道は朝家(国家=天皇)の支えである」(源頼信が石清水八幡宮に捧げた願文)

北の丸公園 2013-10-28
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寛徳3年/永承元年(1046)
この年
・武士は「国家の支え」
平忠常の乱を平定した源頼信は、この年、石清水八幡宮に捧げた願文のなかで「文武の二道は朝家(ちようか、国家=天皇)の支えである」と語る。
武道(武芸)は、文道(学芸)と並ぶ国家=天皇を支える不可欠の技芸と捉え、その武芸をもって国家=天皇に仕え勲功を尽くしてきたのが我ら源氏である、との観念。

文武二道が国家を支える技芸であるというのは古代中国以来の文武観であり、奈良時代初期の養老5年(721)正月、「文人と武士は国家が重んじるものである。宮人の中でとくに学問・技芸に優れている者を選んで褒賞を与え、後進たちを励ましたい」という元正(げんしよう)天皇の詔が出され、明法(みようほう、律令法学)・明経(めいきよう、儒学)・文章(もんじよう、漢文学・史学)・算術・陰陽(おんみうおう)・医術などとともに「武芸」に優れた官人が褒賞された(『続日本紀』)。

これは「武士」の語の初見史料とされ、奈良時代の武芸官人も武士と呼ぶ意見もある。
しかしここで「文人」に対して「武士」というのは、律令的武芸に優れた武芸官人を指しており、中世武士につながるものではない。

『続本朝往生伝』(大江匡房著。12世紀初頭)には、摂関政治全盛期の一条朝(986~1010)の「時の人」として、管弦・文士・和歌・画工・異能(相撲人:すまいびと)・近衛・陰陽・医方・明法・明経などの諸技芸で名をあげた人々を列挙したあと、「武士には(源)満仲・満正・(平)維衡・致頼・(源)頼光、みなこれ天下の一物(いちもつ)なり」と結んでいる。

摂関期、蔵人・殿上人が天皇の側近くで仕えたが、蔵人・殿上人でなくても、「儒学・文人・能射(武芸)・善碁・管弦・歌舞」などの専門的技芸をもつ官人はいつでも天皇の御前で技芸を披露できるように、蔵人所の名簿に登録されていた(『西宮記』)。
この名簿はまた、政変時などに内裏への武士召集に使われた。
『続本朝往生伝』で「天下の一物」とされた人々は、一条天皇がその技芸を「朝家の支え」としてことのほか愛でた人々だった。

これらの専門的諸技芸は、律令国家では大学寮や専門的官司(刑部ぎようぶ省・陰陽寮・民部省・衛府)で公的に教育を受け、官司の現場で修練を積むことによって熟達していくもので、「武芸」の場合は、衛府の弓場(ゆば)・馬場で訓練が行われた。

一条朝では、既にそのような公的教育・訓練システムは崩れ、陰陽道の賀茂・安倍両氏、明法道の中原・坂上両氏、医道の丹波氏、算道の小槻(おづき)・三善両氏というように、特定の家が家業として継承していくようになりつつあった。
これら特殊技芸で身を立てるためには、その家に生まれるか、養子になるか、弟子入りするかしかなかった。
このような国家を支える特殊技芸の伝授・継承のあり方の変化が、武芸を家業化させた条件の一つであった。

武士たちが家業とした武芸は、9世紀末から10世紀前半の長期にわたる反乱鎮圧過程で起こった「戦術革命」によって生み出された新たな武芸であり、その新戦術を、源氏・平氏・秀郷流藤原氏など天慶勲功者子孫が家業として継承した。

「平家物語』の中で、源三位頼政は「昔より朝家に武士をおかるる事は、逆反(ぎやくほん)の物をしりぞけ、違勅(いちよく)の物をほろぼさんが為なり」と語っている。

白河・鳥羽院政期に摂関を務めた藤原忠実は、「源為義はずっと検非違使にしておくべきではない。「天下の固め」であるからときには受領に任じるべきである」(『中外抄(ちゆうがいしよう)」)と述べている。

また源義朝は保元の乱にあたって、「生涯でこのような機会にめぐりあえたことは幸運だ。私(わたくし)の合戦では朝廷をおそれて思うように振る舞えないが、今、宣旨をこうむって朝敵を平らげ、恩賞に与(あずか)る事は家の面目である。武名を後世に残し、恩賞を子孫に伝えるために思す存分戦うぞ」(『保元物語」)と叫んだという。

武士たちは自らを国家の軍事力と認識し、勲功を立てることを最大の栄誉としていた。

・源頼信は、この頃は河内守であったとされる。2年後に歿。
本来は所領を有する人物をその国の受領に任ずることは回避されていた。
しかし、兄頼光が晩年所領のある攝津守に任命されたように、特別に任じられたものと考えられる。
彼としては、河内の所領を強化することで、河内源氏の在京活動の基盤を拡充しようとしたのであろう。
『尊卑分脈』によると、頼信は腹心の藤原則経(のりつね)を、道長の室で頼通の母である源倫子の所領坂門牧(さかとのまき)の荘官藤原公則の養子に送り込んでいる。
坂門牧は石川郡に近い大県(おおがた)郡にあった。
頼信は河内の所領周辺に腹心を居住させ、重代相伝の主従関係を形成しようとした。
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・アプーリア、新カテパノーとしてエウスタティオス・パラティノス、着任。
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・サレルノ候グアイマリウス5世、ライヌルフス2世を正式にアヴェルサ伯に叙任。
メルフィのノルマン人首領ドロゴ、サレルノ候娘と結婚、義父とライヌルフス2世(アヴェルサのノルマン人首領)との対立を憂慮、和解に努める。
サレルノ候グアイマリウス5世の勢力の絶頂期:
マルシア伯・サングロ伯の宗主。トスカナ辺境伯ボニファキウスと同盟締結。皇帝ハインリヒ3世(位1039~1056)と良好な関係。)
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・この頃、ロベルトゥス・グイスカルドゥス(ロベール・ギスカール、31、1015~1085、アプーリア公位1057~1085)、異母兄ドロゴを頼り南イタリア到着。
あてにしていたドロゴの援助が得られず、カープア候パンドゥルフス4世に仕える。
その後、ドロゴの下で働き、カラーブリアの征服を開始(最初クラティ川流域のスクリブラを拠点に、次いで、サン・マルコ・アルジェンターノに拠点を築く)。
1050年頃(35)、ブオナルベルゴ領主ギラルドゥス(ジェラール)叔母オーブレ(アルデラーデ)と結婚。
ロベール・ギスカールとオーブレ長男が、ボエモンド(結婚後、急速に勢力を拡大、ノルマン人首領の1人となる)。
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・ハンガリー王ペーター(位1038~1041、1045~1046)、アルパーデ家アンドレアス(位1046~1061、アンドラーシュ)により再度王権を簒奪される。
アンドラーシュ1世、即位。
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・トスカナ伯マティルダ、誕生(1046~1115)。父トスカナ伯ボニファツィオ、母ベアトリーチェ(ロレーヌ公家出身)。
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・サラゴーサ王国(後ウマイヤ朝の後継諸国家の一つ)バヌー・フード朝アフマド・アル・ムクタディル王、即位(位1046~1082)。
1039年バヌー・フード朝スライマーン・イブン・フード、サラゴーサ奪取。
ムクタディル、トルトーサ(スラヴ人支配のイスラム国家)、レリダ(1078年、スペイン・アラブ人が支配)、デニア(1076年、スラヴ人支配のイスラム国)の併合に成功。
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・ランフランク(41)、ベック修道院長就任(1005?~1089)。
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・ハインリヒ3世(29)、第1回イタリア遠征(1046~1047)。(1017~1056、位1039~1056)。
遠征中にローマ教皇権の混乱収拾と改革を実施。初期中世ドイツ王権の力の頂点を記すもの。
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1月18日
・藤原実資没。
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4月14日
・「永承」に改元。
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5月
・鉄腕ギョームの弟ドロゴ、アプーリアの征服活動を積極的に実施。
5月、ドロゴ、ターラント近郊で東ローマのカテパノー、エウスタティオスの軍隊に勝利。
1046年ドロゴ弟フンフレドゥス、バーリとの和平条約締結。
ドロゴ、バーリ周辺の町(トラーニ、アンドリア、ビシェッリエ、バルレッタ、コラート)を征服。
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・ハインリヒ3世、ゴットフリート(髭)の拘禁を解き再度オーバー ロートリンゲン大公に任命。
ハインリヒ3世、ニーダーロートリンゲン大公にリュッツェルブルク家フリードリヒ(バイエルン大公弟、大公位1046~1065)を任命。
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7月10日
・ 女御章子内親王を中宮とする。
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10月
・パヴィーア教会会議、シモニア(聖職売買)批判を行い、教会改革運動を強力に推進し始める。
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12月20日
・ストゥリ公会議(ローマ北方)。
教皇シルヴェステル3世、教皇グレゴリウス6世罷免、ドイツに追放、ケルンに拘禁(グレゴリウス6世随員にヒルデブラント(26)が含まれる)。
数日後、ローマ教会会議、ベネディクトゥス9世を公式に罷免。
並立3教皇罷免(ベネディクトゥス9世(位1032~1044、1045、1047~1048)、シルヴェステル3世(位1045)、グレゴリウス6世(位1045~1046))。

24日、ハインリヒ3世、教皇クレメンス2世任命(バンベルク司教ズュートガ(スイトガー)、位1046~1047、ザクセン人)。
ハインリヒ3世の意中のハンブルグ・ブレーメン大司教アーダルベルト、北方布教を理由に王の教皇就任要請を拒否、バンベルク司教スイトガーを推薦。

25日、ハインリヒ3世、クレメンス2世により皇帝戴冠。
ハインリヒ3世、引き続きローマの守護者(パトリキウス)の称号を取得
(教皇選挙に重要な第1票を投ずる権利を有す。教皇人選に対する皇帝の決定的影響力を事後的に正統化・合法化)。
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12月24日
・興福寺が焼失。
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