2013年12月9日月曜日

永承6年(1051)3月 鬼切部の戦い(前九年の役)Ⅳ(終) 前九年・後三年と清和源氏(河内源氏)、源頼義・義家の地位確立、鎮守府将軍

江戸城(皇居)東御苑 2013-12-04
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源頼義と鎮守府将軍
頼義は清和源氏の一支流の河内源氏に属した。
父の源頼信が河内守となった関係で、これにつづく頼義・義家、そして頼朝に至る流れがこれにあたる。
「兵の家」(軍事貴族)として、清和源氏が浮上したのは、天慶の乱における源経基の武功によっていた。
経基の子満仲は摂津国多田圧に本拠をおき、安和の政変で摂関家との結びつきを強めた。
その子の頼光の家系が摂津源氏、頼親の家系は大和源氏、そして頼信の河内源氏と呼ばれるように、各始祖たちが畿内の受領ポストを歴任することで、中下級貴族としての地盤を固めていった。

頼義の河内源氏が武門として飛躍する契機は、頼信の平忠常の乱での武功だった。
長元元年(1028)、房総を中心におこったこの乱で甲斐守に任じられた頼信は、前後3年に及んだこの乱を平定し、武将としての名を高めた。

嫡子頼義は、『陸奥話記』では「性沈毅にして、武略多(まさ)り、最も将帥の器たり」と評され、随所にその武威が強調されている。
『尊卑分脈』によれば、頼義は諸国の守を歴任したほか、右衛門少尉・兵庫允・左近将監・左馬助・民部少輔・小一条院判官代などを経ている。これらの多くは武官系官職で、受領として赴任する以外は京都を基盤としていたと思われる。

『陸奥話記』には頼義が判官代の労で相模守となったときのこととして、「俗(ならい)武勇を好みて、民多く帰服せり、頼義朝臣武風大いに行われ、・・・会坂(逢坂、京都と近江の間)以東弓馬之士、大半は門客(もんかく)となる」とある。

河内源氏の東国進出は、頼信の甲斐守、頼義の相模守が示すように、国守(こくしゆ、受領)という公権(国衙機構)を媒介とした勢力扶植の方法によっている。

この頃は、東国地域は貞盛流平氏や秀郷流藤原氏など、功臣の「兵」たちによる割拠・分割の時代が終わりつつあった。
畿内を基盤として摂関家との人脈を擁した源氏が、”王朝的武威”ともいうべき貴種性を保持し、東国を射程に据えはじめたのは、そうした時期だった。

■清和源氏略系図
清和天皇 - 貞純親王 - 源経基 - 満仲 - 頼光(摂津源氏)
頼親(大和源氏)
頼信(河内源氏) - 頼義 - 義家
頼義が陸奥国司に任ぜられる際しては、『陸奥話記』が「弓馬之士」「門客」と記す者たちの中には、その郎等として随ってきた人々もいたと思われる。
ちなみに郎等には文武の二種が存在したとされる。
その内の武的な郎等については、『新猿楽記』『雲州消息』(ともに11世紀前半の成立、藤原明衡の作品)にその典型が指摘されているように、多くは傭兵的存在と考えられる。頼義が受領として下向する際にも、年来の家人とともに、そうした即等集団を伴っていたと思われる。

頼義・義家の前九年・後三年の時代は、源氏にとって「武家の棟梁」の形成期にあたる段階で、従来の”傭兵隊長”的側面を脱し、累代の主従関係も生まれつつあった。
その限りではこの二つの戦争は、河内源氏が武門として本格的脱皮をはかるための布石ともなった。

頼義の前九年合戦での私的な武力には、傭兵に近い立場の者と在来からの主従関係の者の両者が混在していた点にこの段階の主従制の特色があった。

天喜元年(1053)、頼義は、陸奥守と鎮守府将軍とを兼ねることになった。
この時期、武威の表徴として競望の対象とされた将軍への就任は、東国進出を狙う源氏の頼義にとって、大きなチャンスともなった。
従来、これは貞盛流平氏や秀郷流藤原氏の担うところとなっていた。頼義の将軍人事も、摂関家との人脈による猟官運動の結果であった可能性も否定できない。

11世紀以降では長和元年(1012)閏10月の藤原兼光(秀郷流、『御堂関白記』)、長和3年(1014)2月の平維良(貞盛流、『小右記』)、寛仁3年(1019)6月の平永盛(貞盛流、『小右記』)、万寿2年(1025)11月の藤原頼行(秀郷流、『小右記』)と、頼義以前は秀郷流・貞盛流が交互に任用されてきた。
この点を考慮すれば、源氏の将軍就任は膨大な利益をもたらす奥六郡に影響力を行使する布石でもあった。

鎮守府将軍
前九年合戦の段階には、鎮守府は胆沢城に置かれていたが、元来は古代の蝦夷経営の軍政府として多賀城に置かれていた。
多賀城の前身は陸奥鎮所とよばれた(養老6年(722)初見)。多賀城は、軍府としての機能の整備・充実にしたがい鎮守府と呼ばれるに至り、行政府たる陸奥国府が多賀城の主要な機能になると、鎮守府はその一部に位置づけられた。

その後、延暦21年(802)、坂上田村麻呂が胆沢城を築き北上川中流域を領域化したことで、鎮守府が移されてからは、独立行政府としての官庁機能を保持するに至る。
この段階で陸奥国司との兼任が原則であった「鎮守将軍」は、国司と別個に任ぜられ「鎮守府将軍」と呼称された。

一般に「将軍」とよぶ場合、多くはこの鎮守府将軍をさした。
『職原抄(しよくげんしよう)』(南北朝期の成立、北畠親房著)には、「古来もっとも重寄たり。武略の器にあらずは、其仁に当らす、代々将軍と称するは、鎮守府の将也」とする。
前九年段階での鎮守府の実態は不明だが、奥六郡の行政的機能を委任されていたと推測される。

王朝国家が成立する10世紀以降は軍事貴族たちへの軍務委任が顕著となり、それにしたがって鎮守府将軍への就任が競望の対象とされた。
とりわけ群党蜂起が続く東国では中央派遣の軍事貴族の受領任命に加え、鎮守府将軍の就任が目につく。

将門の父長持(将)は鎮守府将軍であったし、新羅遠征の説話(『今昔物語』)で有名な利仁将軍(藤原利仁)も、延喜14年に鎮守府将軍に任ぜられている。
「兵の家」の形成とこの鎮守府将軍との関係は密接であった。

こうした軍事貴族形成期の段階をへて、次の段階に移行する。

天慶の乱の立役者である藤原秀郷や平貞盛などが活躍する時期は、武威の表徴として鎮守府将軍が浮上する段階だった。
とりわけ秀郷流藤原氏は「鎮守府将軍家」ともいうべき家系に属し、11世紀初頭まで、将軍を輩出させていた。
貞盛流・秀郷流の将門の乱での勝ち組が将軍を独占した段階であった。

その後しばらく空白の時代をへて、前九年・後三年合戦における源氏将軍の段階となる。
そして、その空白期こそが安倍氏が台頭する段階だった。
この点から安倍氏による「奥六郡」支配の容認に合わせて、鎮守府将軍の代行機能を安倍氏に委任したとの見方もある。
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