カワヅザクラ 北の丸公園 2014-02-07
*荷風が、浅草に足繁く通うようになるのは昭和11年に入ってからである。玉の井行きと平行している。この年春頃から「日乗」のなかに「浅草」が目立つようになる。
昭和11年4月5日
「晩餐の後月よければ浅草に行き、言問橋をわたり、白髯明神の縁日を見歩き、地下鉄道にてかへる」
同年7月3日
「空は朝よりくもりしまゝなれど、今日はどうやら雨は降るまじきやうに思はれたれば夕飯前に家を出で、行くところもなければ浅草公園に往く。伝法院裏門外より池のほとりに並びたる露店の中、人の殊更多く集るものは八ツ目鰻のつけ焼と姓名判断の冊子賣るところなり。木馬館のほとりに洋服きたる男演説をなし人を集むるを、歩み寄りて聞けば、曾てこの公園にてジャンダルクとあざ名せし不良少女、今は丸ノ内の會社にタイピストとなり夜毎帝國ホテルに客を啣へ込み、月々千圓あまりの稼ぎをなせり。この女新聞記者を買収するが故検挙せらるゝも其事未一たびも新聞紙上に出でしことなしと、噛付くやうな調子聞くに堪えざれば、何か印刷物を賣付ける様子なれど、それまでは見とゞけずして池のほとりのベンチに腰かけて憩ふ。バナゝの皮と紙屑ちらばりたるは東京中いづこの公園にも見るところなり。活動小屋の繪看板を一見し電車にて銀座に至り銀座食堂に飯してかへる」
伝法院、ひょうたん池、木馬館、六区と歩いている。
「活動小屋の繪看板を一見し」は、「濹東綺譚」冒頭で「わたくし」が、せめて「人が何の話をしてゐるのかと云ふくらゐの事は分るようにして置きたい」と思い、浅草に出かけたときには「活動小屋」の看板を見るようにつとめているといっているのに対応している。
同年7月5日
「晡下淺草公園に往き鳥屋金田に飯す」
8月21日
「夜淺章公園散歩」
8月31日
「晴れて暑きこと昨日の如し。晩食の後月よければ淺章に往かむと電車に乗る。空いつの間にかくもりて風吹出で、電燈忽消ると共に電光物凄く、驟雨沛然たり。松屋百貨店に入りて雨の晴るゝを待つ。容易に晴れず。地下鉄道にて新橋に至り金兵衛に憩ふ。十一時過雨始めて霽る」
地下鉄の利用が次第に日常化してきている。
9月4日
「電車にて淺草雷門に至る。途中疾風俄に砂塵を捲き驟雨来る。松屋百貨店に逃れ入るに同じく雨を避るもの雑遝せり」
この頃から浅草に足を向けるようになっているが、当初は、浅草は荷風にとってあくまで濹東や吉原といった、より陋巷の色合いの強い町への中継地点としてしか意識されていない。
「夜淺草公園活動小屋の繒看板を見歩き、千束町を過ぎ、吉原遊廓を歩む」(昭和11年5月11日)
「燈刻尾張町に飯し、電車にて淺草を過ぎ玉の井に往く」(5月20日)。
「濹東綺譚」冒頭では「わたくし」は、六区の興行街を歩いたあと、喧騒を避けるように、浅草裏の日本堤の裏通りへと足を向けている。
しかし、浅草に関心を持つようになってはいたが、荷風のなかで浅草はひとつの町として自立してはいない。あくまで、吉原や玉の井への出入口としての位置にとどまっている。
それでも歩くうちに、浅草に次第に愛着を持つようになってきたようだ。
昭和11年9月13日
「淺草」を舞台に小説を書いてみたいと書く。
この時期、荷風は、玉の井通いを続けている。
9月20日は「濹東綺譚起稿」だから、ようやく「玉の井」と「淺草」が、同じ重みをもって荷風の前にあらわれてきたといっていい。
秋庭太郎『新考永井荷風』(春陽堂、昭和58年)では、当時、荷風は、玉の井のことよりも浅草のことをまず書きたかったとしている。
「(荷風は昭和十一年の)九月初めまでに四五回ほど玉の井に出遊してゐたものゝ未だこの色里を背景とした小説をつくる意図はなかったらしく、寧ろ当時荷風の意図してゐたところは吉原を含む浅草小説を書くべく企画してゐたのであり(以下略)」
「しかし、「日乗」を読む限りは、むしろ、順序は逆ではないかと思う。まず、砂町、荒川放水路を中心とする城東への興味が高まり、その散策の帰路に、玉の井という色里が立ちあらわれてきた。そして、玉の井に足を運ぶようになってから、その出入口にあたる浅草に関心を持つようになった。そういう順序だったと思う。」(川本)
昭和11年9月13日、
「晩飯すまして後隅田公園に往く。震災後變り果てたる淺草の町を材料となし一第の小説をつくりたしと思ふなり。言問橋をわたり秋葉裏の色町を歩み玉の井に至り、(略)」
もし、はじめから荷風が玉の井より浅草を舞台にした小説を書こうとしていたのなら、ここで唐突に「淺草の町を材料となし一篇の小説をつくりたしと思ふなり」とはいわないだろう。
玉の井通いをしているうちに、その起点となる浅草を知るようになり、玉の井のことだけでなく、浅草のことも書きたくなった。そう考えるほうが自然だろう。
また、秋庭太郎『考証永井荷風』では、荷風の浅草通いは、昭和12年暮れごろからだとし、
「この頃から荷風は毎夜の如く浅草六區の興行物を見歩いたが、茲(ココ)に荷風の浅草時代が到来したのである」と書いている。
これも大筋としてはそのとおりだが、「玉の井への出入口としての浅草」ということ考えれば、荷風の浅草へのこだわりは、すでに、玉の井行きがさかんだった(「濹東綺譚」執筆時の)昭和11年ころからだったと考えるほうが妥当であろうと考えられる。
おそらく秋庭太郎が荷風の浅草通いは昭和12年暮れ頃からとしているのは「日乗」昭和13年11月4日に「思返せば淺草公園の興行物に興味を覺えそめしは、去年の十一月初にて、早くも満一年とはなれるなり」に拠っていると思われるが、荷風自身もその前段階の浅草への着目を見過ごしているように思う。
秋庭説を受けた野口富士男『わが荷風』は、荷風の浅草通いの起点を、昭和12年11月15日にしている。
秋庭太郎・野口冨十男両氏とも、浅草の町を独立して考えているが、私には、荷風にとって浅草は、独立した町だったのではなく、玉の井をはじめとする濹東への起終点として従属的にあったのではないかと思われる。
「まずはじめに濹東があり、そこに行き来しているうちに、山入口、起終点としての浅草が浮かび上がってきた。それまで、浅草オペラ時代も、カジノ・フォーリー時代もほとんど浅草に興味を示さなかった荷風が、昭和十一年ころ、玉の井通いをするようになってから急に浅草を意識するようになったのは、そのためである。
荷風にとっては、”浅草から玉の井”ではなく、”玉の井から浅草”だった。
この順序の逆転こそ、陋巷趣味の徹底者荷風の真骨頂に思えてならない。普通なら、浅草が主で玉の井が従になる。
しかし、荷風にとっては、玉の井こそが主で浅草が従になった。」(川本)
荷風が昭和11年頃から浅草出遊を繰返すようになった背景には、地下鉄の開通がある。
昭和2年、日本ではじめての地下鉄が浅草~上野間で開通したあと、この路線はその後順調に延び、昭和9年3月3日には、浅草~銀座間が開通した。
荷風はこの日「日乗」に、「地下鐡道尾張町出入口開通」と書いている。荷風が初めて地下鉄に乗るのは、このあと3月9日である。
麻布に住み、単身者の生活の必然(買物、外食、交遊)から連夜のごとく銀座に出遊していた荷風にとって地下鉄の開通が、東京散策の行動を楽にするものになったことは想像にかたくない。
とりわけ「淺草」が近くなった。
それまで市電で浅草に出た(路線によっては乗り換えも必要とした)のに比べると、地下鉄での浅草行きは、はるかに早く便利なものだった。昭和10年頃から、荷風が頻繁に玉の井、そして、その出入口としての浅草に出かけるようになった背景には、地下鉄開通という新しい都市交通システムの出現がある。
荷風は、モダン都市東京の新しい変化に敏感な都市生活者である。
このころから荷風の玉の井行き、浅草行きには、「地下鉄」の利用が目立つようになる。
昭和11年4月5日
「晩餐の後月よければ淺草に行き、言問橋をわたり、白髯明神の縁日を見歩き、地下鐡道にてかへる」
同年9月27日
「東武電車より地下鐡道に乗りかへ新橋に至り金兵衛に入りて夕餉を食す」
同年12月31日
「(銀座)街上酔漢多ければ地下鐡道にて淺草雷門に往く」
地下鉄の周通によって、麻布に住む荷風に浅草が近くなっている。
浅草は、東京の盛り場では珍しく鉄道の駅がなかった。
東京の盛り場は、銀座(有楽町、新橋)、上野、新宿、渋谷、池袋とほとんどが鉄道の駅の近くに発達しているが、浅草だけが例外である。
明治時代に常磐線が計画されたとき、浅草の住民が”黒い煙を吐く陸蒸気”が走るのを反対したためという。
そのために、常磐線は浅草を通らず、上野を起終点にした。
結果、上野が栄え、浅草が徐々に衰退していくことになった。
そうした”鉄道の通らない町”浅草にとって、地下鉄の開通は大きな事件だった。
震災後、ともすれば、中心から周縁に追いやられつつあった浅草にとっては、地下鉄開通は大きな刺激になるはずだった。
江戸時代代からの古い歴史を持つ浅草が、震災後のモダン都市東京の象徴となる銀座と地下鉄によって結ばれる。
浅草(旧盛り場)と銀座(新盛り場)が、新しい”東洋唯一の地下鉄道”によって結ばれる。
浅草はこのとき、当然、銀座方面からの新しい客層がやって来て、町が活気づくことを期待したに違いない。
”明治の陸蒸気”では遅れをとった浅草が、地下鉄という”昭和の陸蒸気”では先端を行く。
西東京の人間がこれで浅草にやってきてくれる。
しかし、事実は逆だった。浅草は、地下鉄の開通によって、かえって客を銀座のほうに奪われてしまう。
浅草と銀座の地位がこれによって完全に逆転する。浅草にかわって銀座が、帝都東京第一の盛り場になっていく。
磯田光一『思想としての東京』
大正8年の添田さつき作詞、ジョージア・マーチ作曲「東京節」では、「東京で繁華な浅草は 雷門 仲見世 浅草寺」と歌われた浅草が、昭和4年の西候八十作詞、中山晋平作曲「東京行進曲」では、「広い東京 恋ゆえせまい いきな浅草 忍び逢い」と「いき」ではあるが「忍び逢い」の似合う、中心からはずれた町ととらえられてしまう。浅草は地下鉄の走る時代にゆっくりと地盤沈下している。
「このときになって、荷風の浅草出遊が開始される。ここに反骨の士、荷風ならではの逆説がある。世の中の流れが、浅草から銀座へと変っているときに、荷風は逆に、それまでほとんど関心を持たなかった浅草へと出かけて行く。荷風の、昭和十一年以後の浅草出遊は、時代の流れとは逆の形をとる。そこがいかにも荷風らしい。」(川本)
(註)
都内に残った唯一の都電荒川線は、もともとは私鉄の王子電車である。この路線をよく見ると早稲田から三ノ輪橋まで旧東京市の周縁を走っていることがわかる。これは、戦前、東京市が市中の交通を市電、市バスで独占し、私鉄の市中乗り入れを制限したためである。
東武鉄道も当初、業平橋(ここを浅草駅と呼んでいた)を起終点としていた。これをなんとか、隅田川を渡って市内の浅草まで延長させたい。いわゆる市中乗入れは東武鉄道の悲願となった。他方、東武とエリアが競合する京成電車も浅草乗入れを考え、市の許可を得るために市への画策を図った。世にいう京成疑獄である。
市中乗入れをめぐる両社の争いは東武に軍配が上がり、大正13年に市の許可が下り、昭和6年5月の浅草駅の開設となった。この延長に伴い、業平橋と浅草のあいだに、隅田公園駅が設置されたが、この駅は昭和18年12月に廃止された。
東武鉄道社内報「東武」(96年5月)によれば、東武ビルの設計者は、「ターミナルビル建築の権威」といわれた久野節(ミサオ)。「彼は鉄道省工務局建築課長を歴任後、設計事務所を開き、東武ビルに並行して、南海鉄道(現南海電気鉄道)の難波駅ビル(昭和七年七月九日竣工/正式名称南海ビル)なども手掛けていた」
昭和2年12月30日の開通(上野・浅草間の地下鉄)
当時の東京市の人口は約400万人。開通初日には上野駅に2万人も集まったという。当時の10銭というと大体もりそばと同じ。市電だと上野から浅草まで7銭で行けたが、値段の高い地下鉄に人気が集まり、昭和3年正月には浅草寺への参詣客でごったがえした。
*
*
0 件のコメント:
コメントを投稿