2014年4月3日木曜日

『桜が創った「日本」 -ソメイヨシノ 起源への旅-』(佐藤俊樹 岩波新書)を読む(7) 「「九段公園 靖国神社の境内なり」」

千鳥ヶ淵 2014-04-02
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染井と九段と上野
軍事上の要衝としての九段坂上
「境内の桜は、木戸の染井別邸辺りからきた。では大戸の本邸はどこにあったのか? 実はその所在地は九段の富士見町二丁目、現在の靖国神社の隣である。
招魂社創設の実務をとりしきったのは大村益次郎だが、最初の発案者は木戸孝允であった。『日記』明治二年正月一五日には、

上野の寺中を通る。去夏兵火の為に楼門その外多くは焼失、旧時の盛大実に夢の如し、この土地を清浄して招魂場となさんと欲す。(一部漢文を書き下し、以下同じ)

とある。木戸は当初上野を候補地にあげたが、上野には大学病院を建てる計画があったため、別の場所を探すことになった。
なぜ九段の地が選ばれたのかについて、坪内祐三が面白い仮説をたてている。ここは軍事上重要な管制高地だったというのだ。江戸の頃から、九段の坂上は下町から海まで一望できる場所で、初日の出や月見、雪見の名所でもあった。明治の初めには灯明台がつくられ、東京湾に出入りする船の目印となっていた。
そこに長州出身の木戸と大村が招魂杜をつくる。北隣には木戸の本邸があり、南隣には皇居がある。旧幕府軍の彰義隊は上野にたてこもったが、ここは上野をしのぐ要衝の地であり、それこそ「一朝事あれば」長州派にとって絶好の拠点になる。・・・」

「事実、大村主導の当初の計画では、社域は現在の三倍近くあった。神社の建物そっちのけで、まず広い土地を確保しようとしたわけだ。今の社域の多くは江戸時代には火除け地で、幕末に歩兵屯所となり演習に使われていた。いわば空き地だったが、それは当初の予定地の三分の一にすぎない。残り三分の二は旧旗本の拝領屋敷で、当時すでに民間人の手に渡っていた。彼らにも一度は立退き命令がでている。文献上の裏づけは全くないが、大村に祭祀以外のかくれた企図があったというのは十分考えられる。」

木戸にとっての招魂杜の原風景
「だが、たとえ大村に軍事的な企図があったとしても、木戸自身にその気はなかったようだ。立退き命令に驚いた住民側が木戸に嘆訴し、木戸は「その情実実に不忍なり」(『日記』同年六月二六日)として、一部中止させた。
そこに木戸は桜を植えることになる。印象的な一節が二月一九日にある。

上野に至る……桜花尽(ことごと)く開き、花を見る人もまた山に満つ。而して戦余の鬱気未だ消えず、人々皆惨然の色あり絶えて歌舞の声をきかず。余十余年前この他に豪遊す、花時の雑踏、酔人の往来、実に天下無双なり。今その時を追懐するに総て夢の如し。桜樹その他の樹木の弾痕不可数。

木戸の人となりがうかがえる文章だが、彼にとって上野の桜は「歌舞」と「雑踏」の舞台だったのである。その六日後、後藤象二郎の別荘を訪れた日には、「庭中に大池あり幾種の桜花すでに綻びその下に角力を競う」と記している。木戸にとって、招魂杜の原風景はこの辺りにあるのではなかろうか。『木戸公伝』は上野の桜の伐採を中上させたことにもふれている。」

土地愛の多重性
大名や豪商の庭園に似た「文人風」
「創建当時の境内は西欧の公園や江戸の盛り場に通じる場所だったとのべたが、実はもう一つ似ているものがある。大名や豪商の庭園である。
今の境内内苑には池が一つしかないが、明治一四年(一八八一)頃までは現遊就鮒の場所などに、あわせて四ヶ所も池があり、その周りは庭園になっていた。『明治庭園記』は当時の姿を次のように伝えている。

その西側北側、矩折したる平庭は、即ち文人風の作法にて、当時流行の梧桐、寒山竹や、自木蓮や、百日紅や、芭蕉、並に痩松(ヒヨロマツ)等を排次し、その根底に、畸形異状なる、巨石を粧点して、あたかも文人画(即ち南宗画)に酷似したる、光景を顕山するに至れり。而て広き道路を隔てて、西北隅には、梅林を作り、また西側の裏門を開通したる東南畔には、桃林を設けて、杜の前面一帯の桜林と、映帯せしめたり。

社域の前面には主に桜が植えてあったが、奥の方は梅や桃の林であった。もっと注目されるのは庭園の様式だ。庭園の一つは「文人画に酷似したる」、つまり蘇州などの中国庭園に近いものであった。かなり後になるが、正岡子規ははっきり「支那凧を模した」とパいている。『明治庭園記』によれは、「文人風」は清人の意見を直接取り入れてつくられた様式で、中国趣味というより本当に「支那風」だったようだ。」

招魂杜の桜には複数の意味がある
「いってみれば、木戸は本邸のある九段と別邸のある染井に、お気に入りの空間をつくったことになる。その木戸の語りにおいても、招魂杜の桜には複数の意味があった。かつて自分もその一人だった万人歓遊の場。最新流行の「文人風」庭園。そしてもちろん亡き同志をしのぶ祭場。『木戸日記』には桜にまつわる句や歌がいくつかでてくるが、その一つに後藤の別荘での花見を詠んだものがある。

世の中は桜のもとの角力かな

もう一つ、明治三年、山口県下関の招魂場で詠んだ歌もある。

桜木は越てもことし咲きにしに 過にし人のおも影もがな

どちらもが招魂社の桜の姿に重なる。」

「四季の遊び場」
社前に競馬場ありその柵外に数百本の桜樹を栽え花時すこぶる美観なり
「木戸は明治一〇年(一八七七)、西南戦争のさなかに亡くなる。明治一二年には招魂社は靖国神社に改組され、常駐の宮司が置かれるようになる。
・・・室田はこのころに境内の桜が植えられたという話を伝えている。それ以前から桜はあったと考えられるが、明治一二~三年頃に一つの画期があったことは他の文献からもうかがわれる。・・・『明治庭園記』にも桜林がでてくるし、『東京名所錦絵展』図録には安井乙熊編『東京名所案内』(増補版、明治二六年)の一頁が載っている。

境内に仮山ありて種々の樹木草花を植え、噴水器あり四時清水を迸出(へいしゆつ)し幽邃(ゆうすい)の趣あり。社前に競馬場ありその柵外に数百本の桜樹を栽え花時すこぶる美観なり。

明治一〇年に「数十株」だったものが、「数百本」になっている。実数で三百~四百の桜がこの時期咲いていたとは考えにくいが、百前後の本数であれば十分ありうる。明治一三年には、民間の茶店に境内での営業を許している。・・・」

まるで江戸の花見である
「・・・梅寿国利の『九段坂靖國神社境内一覧之図』(明治一四年)である。これには赤、紫、緑の敷物の上で、女性たちが花見の宴に興ずる姿が描かれている。頭上で咲いているのは八重桜で、大きな花輪のそばに小さな緑の薬も添えられている。敷物の上には飲食や書画の道具も見える。
まるで江戸の花見である。画の内容をそのまま信じることはできないが(Ⅰ章2)、招魂社の桜と「江戸風」の桜とのつながりは他の文献からもうかがわれる。細部はともかく、全体の雰囲気は実際に近いのではなかろうか。」

桜は境内を彩る四季の花々の一つにすぎなかった。靖国神社イコール桜、ではない
「明治二十年代に入ると、靖国神社は「桜の名所」として広く知られるようになるが、その語られ方は現在のとはまだかなりちがっている。例えば『東京名所図絵』(明治二三年、・・・)では「社地の公園に松柏梅桜を雑植し四時花の絶える事なく紅緑交互して」とある。桜は境内を彩る四季の花々の一つにすぎなかった。靖国神社イコール桜、ではないのだ。
『新撰東京獨案内図会』(同年)だと、それがもっとはっきりわかる。このガイドブックには「四季の遊び場所」という項があり、桜だけでなく、初日の出、雪見、梅、桃、牡丹、躑躅(つつじ)、観月でも靖国神社の名があがっている。先にのべたように、九段の坂は江戸時代から景望の地として有名だった。あの『江戸名所花暦』の「月」の項にも顔を出している。初日の出、雪見、月見という遊び方はその伝統を引き継ぐ。梅や桃、牡丹、躑躅もやはり江戸の人々が愛した花であった。」

「ソメイヨシノの方ですっかり有名になってしまったが、染井の一番の名物は本来、躑躅である。梅も咲いていた。『木戸日記』にも染井近辺で梅を見た記事がある。木戸自身の企図は別にしても、明治二十年代前半までの九段は染井とよく似た空間であった。ただ、その染井はソメイヨシノの染井ではなく、躑躅をはじめ四季の花が咲く染井であった。わかりやすくいえは、九段の桜はまた江戸の桜だったのである。」

「九段の公園」
「・・・正岡子規は明治二〇年前後の境内を、「他のものは少しも目に入らないで、綺麗なる芝生の上で檜葉の木が綺麗に植えられておるという事がいかにも愉快な感じがしてたまらなかった」と
回顧している。彼にとってはここは欧風の公園だった。
・・・先の『新撰東京獨案内図会』では「公園地」の項にも、浅草や上野、芝、愛宕山とならんで「九段公園 靖国神社の境内なり」と紹介されている。「九段の公園」という形容は他の文献にも出てくる。田山花袋のオリジナルではなく、ごく一般的な呼び方だったようだ。・・・
・・・
要するに、境内は江戸の盛り場と西欧の公園が混在する「公園」で、和風、欧風、中国風の庭園に梅、桃、桜、牡丹などの四季の花々が咲く。そんな博覧会的空間を飾るアイテムの一つというのが、当時の語りにおける桜の位置づけであった。」

日本という独自性を求める視線。それはまだここにはない。
「そこに一つ欠けているものがあるとすれば、・・・<日本>である。西欧起源でも江戸起源でもない、日本という独自性を求める視線。それはまだここにはない。」
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