「・・・
というわけで、最近あやしいといえば島田紳助だ。テレビに出てる三回のうち一回は泣いてる。それも感涙というやつだ。泣いてないと思っても、よくみると目を潤ませている。どちらでもない場合は、ちょっといい話をしている。こないだも徳光(和夫)を、『それはいい話ですね』と感動させていた。鈴鹿の八耐(バイクの八時間耐久ロードレース)以来、紳助は何かのタガを外してしまったようである。一度タガを外して『ホントは人情家でいい人』の器につかってしまったら、普通は元に戻って来ない。溺れるその先には桂小金治がいる。紳助は小金治になるのだろうか」(「噂の真相』一九九〇年五月号)
「ナンシー関の信仰の現場」(永ちゃんのコンサートに「潜入」)
その現場の雰囲気を語る
「何かを盲目的に信じている人にはスキがある。自分の状態が見えていないからだ。しかし、その信じる人たちの多くは、日常生活において、そのスキをさらけ出すことを自己抑制し、バランスを保っている。だが、自己抑制のタガを外してしまう時と場所がある。それは、同じものを信じる”同志”が一堂に会する場所に来た時だろう。全員が同じスキを持っているという安心感が、彼らを無防備にさせる。日常生活では意識的に保とうとしなければ 『傾いている』と世間から非難される彼らのバランスも、その場ではその『傾いたまま』の状態で『正』であるという解放感。肩の荷をおろしたように無防備に解放されるのである。
・・・・ 」
プロレス雑誌の連載「ナンシー関の消しゴム爆破デスマッチ」
著者が、「ナンシーの本領が存分に発揮されているのが、プロレスの技の名称に関する次の文章だ。」という部分がホントに秀逸である。
「外国語を日本語に訳す時、直訳が最も正確に意味を伝えるとは限らない。日本の歴史や文化、状況を相対的に見て、時には辞書を無視することで名訳は生まれる。
プロレス用語もそうである。『ベア・ハッグ(熊の抱き締め)』が『サバ折り』となるのは、相撲を国技とする国である以上当然である。そうでなくとも、あの技から『熊』ではなく『サバ』を連想したところに日本を感じると言ってもいい。それにもまして私が好きなのは『吊り天井』という名前だ。英語名は『リバース・サーフボード・ホールド』。しかしあの技は『吊り天井』以外の何物にも見えない。サーフボードがどうしたなどというカリフォルニアなタワ言に一切耳を貸さなかったところが素晴らしいと思う。『ボストン・クラブ』。カニだって言ってるのに『逆エビ固め』である。日本の文化は曲げられん、という気骨を感じる。『オクトパス・ホールド』を『タコ固め』と訳していたらと思うとゾツとする。『卍固め』だからこそ、猪木の名勝負もあり得た。技の形態を見るに『タコがからみつくように固める』は正しい。『どこが卍なんだ』というのもある。しかし言葉は文化である(山城新伍か)。あの技に『卍』を見た人に感謝する。
『アトミック・ドロップ』を単に『尾てい骨割り』としておきながら『ジャーマン・スープレックス・ホールド』を『原爆固め』としたところなど、その目の確かさに感服する。『ダブルアーム・スープレックス』を『人間風車』と訳したのは誰だ。もはや文学である」(「何をかいわんや』)
再度、「心に一人のナンシーを」について
<引用>
宮部みゆきが名言とした「心に一人のナンシーを」という言葉について尋ねると、大月はこう説明する。
「自分で自分に突っ込む姿勢を持っていようよ、っていうことですよ。自己を相対化できていないと、変な宗教なんかに熱中してしまうことにもなる。恋愛でも、青春でも、楽しかったり、一生懸命になったりしたときこそ、どっかで自分に突っ込みを入れてないと、周りから見て”痛い”ことになっているときがあるから。ナンシー関ってどんな人だったかって、開かれることが多いんですけれど、いつも、すごくまっとうなヤツでした、男前でした、って答えることにしているんです。付き合うことで、こっちが鍛えられるようなすごいヤツでした、って」
「胸のすくような啖呵(たんか)」:デーブ・スペクターへの再反論に際して
但し、デーブとしては売られた喧嘩を買ったまでで、彼は被害者であると言えば被害者とも言える。
<引用>
ナンシーは九四年四月八日号の「週刊朝日」でデーブを再び斬る。
「私がタレントを見る価値基準は『おもしろい』か『おもしろくない』かの一点のみだ。私はあなた(デーブを指す)を『おもしろくない』と非難したのだ。
それにしても、なんで『みんなでセラピー代を要求しようか』とか『今度の件で芸能界の何人かの人に、ナンシー関についてどう思うか聞いたら、みんな困ったように笑ってた』とか、主語を『我々』にしたがるのか。一人で怒ればいいじゃん。テレビに出てるときもいつもそうだけど、何をオドオドしているのだ。『TVに出てくる人を片っぽしから罵ってる醜い深海魚のような人生』 『彼女は手当たり次第に罵ることで何かの復讐を続けている』か。
結局、『(こうゆう原稿を書くことを)ヤメロ』と言いたいらしいが、これは私の生業である。聞く耳持たん。それと、あなたには『片っぽしから罵ってる』ようにしか読めないかもしれないけど、それじゃあお金はもらえないのである。自分で言いたくはないが、『芸』なのである、コレも。あとさ、落とし込みたいとこに 『太ってる』ぽっかり持ってこられてもねぇ。私も昨日や今日急に太ったワケでもないし。ま、ちゃんと読んでから怒ることだ」 (「小耳にはさもう』)
ナンシーの潔さや凛々しさがあふれた文章だ、と思う。
最後の「私も昨日や今日急に太ったワケでもないし」という箇所は、胸のすくような啖呵である。数多くあるナンシーの文章の中で、私が一番好きなコラムだ。
(おわり)
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