2014年10月1日水曜日

日系二世人権活動家ユリ・コチヤマの年譜(2) ユリ・ビル夫妻の誕生の頃

江戸城(皇居)東御苑 2014-09-30
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1918(大正7)年12月23日 中原正一・艶子のに長男の正男(アート)誕生
 「母が現地に着いた翌年一九一八年の一二月二三日には、兄アーサー(アート正男)が生をうけた。アートはサンビードロ高等学校を卒業、カンプトン短大に通学、一九四〇年にカリフォルニア大学バークレー枚(UCB)を卒業した。」(回顧録 両親のこと)

この年
2月28日
・堤隆(28)、ハワイ島ヒロ町の日本語学校校長として赴任のためホノルル着。

堤隆:
1890年4月7日滋賀県神崎郡永源寺町甲津畑生れ。生家は東本願寺派浄源寺。兄2人妹2人の3男。滋賀師範5年間在学中つねに首席。広島高等師範から、1913年京大文科進学。この時、堤家(長浜の旧家)に婿養子に入る。1915年長女誕生、1917年卒業。

ハワイ島ヒロ町:
オアフ島ホノルルに次ぐハワイ第2の町。人口1万余(内、半数以上が日本人)。日本語学校は7校。ハワイ視察した内務省長官フランクリン・N・ローレンがロサンゼルスで「米国生まれの外国人及び在留外国人を米国化するのは真に重要問題であります」と訴え、外国語学校(日系2世の教育問題)について強く注意を喚起。

この年、ハワイ全島での出生9,404人(内、日本人4,534、ポルトガル人1,032、白人365)。この時点でのハワイの日本語学校計146校(内、ホノルル15)。全生徒数18,166、教師401(内女子32)。日本語学校問題に対応するため、日本語教師たちは「布哇教育会」を設立。堤隆は、この教育会の新教科書調査委員会責任者に選ばれる。
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1921(大正10)5月10日 ビル・コチヤマ、ワシントンDCに誕生
 「ビルはマサヨシ・ウィリアム・コチヤマとして、一九二一年五月一〇日ワシントンDCで生を受けた。私のちょうど九日前のことである。人生の最初の三年間に、母と弟と姉を失っただけに、物心がついた頃は悲惨なものだったに違いない。」(回顧録 私のビルへの賛辞)
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同年5月19日 メアリー・ユリコ・ナカハラ誕生
 「一九二一(大正一〇年)五月一九日、私はメアリー・ユリコ・ナカハラとしで誕生、カリフォルニア州サンピードロ ー ロサンゼルスの都心から約四〇キロ南にあるアメリカ五大漁港町の一つ、白人の労働者階級が圧倒的に多い地域 - で育てられた。私と双子の弟ピートのほかに、兄アーサー通称アートもいた。」(回顧録 はじめに)

 「サン・ペドロは、ロサンゼルスから約二十マイル。・・・ロサンゼルスの表玄関だったサン・ペドロの港は、石油、木材、魚などを満載した船でいつもにぎわっていた。  

 漁船や、世界中からやってくる貨物船が停泊する港町だった当時のサン・ペドロは白人移民の町で、人口二万五千人の住民の大多数は漁業に従事していた。いちばん人口の多かったのはイタリア人と、ユーゴスラビアやチェコスロバキアからやってきた東欧人。それからスカンジナビア人、ポルトガル人、ギリシャ人、日本人と続いたが、日本人のほとんどが住んでいたのは、町の北西になだらかに続くサン・ペドロ丘陵地か、港にぽっかり浮かぶターミナル島で、私たち一家が住んでいた市街地には、日本人は数えるほどしかいなかった。

 戦前のターミナル島には三千人近くの日本人が住んでいて、南カリフォルニア最大の日本人コミュニティのひとつを形成していた。父がアメリカにやってきたころ、そこは南カリフォルニアに移住してきた多くの日本人が、新生活のスタートを切る場所になっていたと聞く。島の人口の九十五パーセントは日本人、残りの約三パーセントはフィリピン人、白人は二パーセント程度で、・・・。」

 「私の生まれた一九二〇年代には、ハワイには約十五万人、アメリカ本土には約十二万人の日本人と日系人がいたという。本土居住者の九十パーセント以上は、カリフォルニア、オレゴン、ワシントン、アリゾナの四州に住み、そのうちの八十パーセントがカリフォルニア州に住んでいた。」

 「私のフルネームは、メァリー・ユリコ・ナカハラ。家でも学校でもメァリーというアメリカの名前で呼ばれていた。兄もマサオではなくアート、双子の弟もミノルではなくピーター。生まれ育ったサン・ペドロ市街地は白人の町だったので、両親はアメリカの名前のほうが子供たちが周囲に溶け込みやすいと考えたのだろう。私たちもそのほうが気に入っていたから、日本の名前を使うなど思いもよらないことだった。」(以上、ユリ カリフォルニアの日々)

この年
1月3日
・幣原喜重郎駐米大使、カリフォルニア州の外国人土地所有禁止法(排日土地法)につき抗議を提出。20日、米、回答。

4月12日
・ハワイ緊急労働対策委員会設立。
中国人労働者(本土の中国人移民禁止法により入国不能)の導入のため。
ワシントン派遣陳情団3名。準州上院議員チャールズ・チリングワース(44)、アルバート・ホーナー(58)、委員長ウォルター・デリングハム(46、ホノルル商業会議所会頭)。

5月19日
・米大統領、割当移民法に署名。同法成立。
1910年の国勢調査に基づきすでに米国に在住する数によって国別に移民を制限。
6月3日実施。日米紳士協定には不適用。

5月22日
・ワシントン、ウォルター・デリングハムらハワイ緊急労働委員会3名、陳情書を携えウォーレン・ハーディング(56)と会談。

5月31日
・マサチューセッツ州、サッコとヴァンゼッティの裁判開始。
弁護士フレッド・モーア(オクラホマでスタンダード石油会社重役宅ダイナマイト事件で起訴のIWWメンバの無罪勝取る)。
7月14日、有罪判決。

6月21日
・米上院移民及帰化委員会での「ハワイにおける労働問題」公聴会。
「日本の陰謀」論から中国人再輸入案を展開(8月13日~途中中断。ワシントン会議への悪影響懸念)。
同日、AFL全米代表者総会、中国移民法改正案の完全阻止決議。コロラド州デンバー。

8月1日
・ハワイ、オーラア耕地坂巻銃三郎宅爆破事件(1年2ヶ月前)で堤隆ら連盟幹部21名、大陪審で起訴。

9月15日
・米、幣原大使、ヒューズ国務長官と会見。
日本人移民問題は両国世論を刺激しないように交渉時期を決めると表明。

11月2日
・マーガレット・サンガー夫人、アメリカ産児制限連盟結成。ニューヨーク。

11月12日
・ワシントン軍縮会議開かれる

12月
・米、代表的政治雑誌「アトランティック・マンスリー」、日米関係特集記事。
「米国にとって今日もっとも重要な国は日本である。…日本は、…我が国の利害とまっこうから対立する唯一の国…米国の地平線上に立つ唯一の敵として潜在性を有する国が日本なのだ。…現時点で必要なのは、双方によるお互いをよく理解しようとする心からの努力である。」
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1924(大正13年)
1月15日
・埴原駐米大使、松井慶四郎外相の訓電びよりヒューズ国務長官と会見。
アルバート・ジョンソン議員提案の新移民法案(排日移民法案)に対して日本の世論激昂に憂慮との覚書を手交。

2月16日
・米上院議員リード、ジョンソン案(前年12月5日下院提出)と同様の移民法を上院に提出。
上院移民及帰化委員会(委員長コルト)で検討(3月11日~4日間)。
4月初、上下院の法案を纏めた「ジョンソン・リード移民制限法案」が両議会にかけられる。

3月14日
・ハワイ・ホノルル移民局長リチャード・ホルセー(67)、自殺。
中国人労働者再輸入法案が通過すると見なし、中国人商人が先手をとって労働者を密輸。しかし法案通過の見込みなく調査要求が出ていた矢先。

4月
・ハワイのフィリピン人労働者ストライキ(フィリピン人同盟マンラピット指導)。
9月中旬、耕地巡査と乱射事件。巡査4・フィリピン人労働者16死亡。フィリピン人労働者162人逮捕(内有罪72人)。

4月10日
・排日移民法に関する駐米大使埴原正直(48)の米ヒューズ国務長官宛書簡中の「grave consequence(重大なる結果)」の一句、米国で問題化。
強硬派がこれを日本の「覆面の威嚇」とし、法案を推し通す口実となる。
17日、埴原駐米大使、国務長官へ釈明。

4月21日
・東京の15新聞社、米の排日移民法に反対し共同宣言(「排日案の不正不義」)発表。
6月8日、東京市内の映画館代表、米国映画上映見合わせ(7月1日~)決議。
徳富蘇峰は7月1日を「国辱の日」とし反米愛国のアジア主義を主張
内村鑑三はアメリカに行かない、産品の不買、出版物を読まない、米国教会に出入りしない排米を主張。
各地で排米市民集会。

5月15日
・米議会、新移民割当法(排日条項を含む)可決。下院(308対58)、上院(69対9)。

5月26日
・米、新移民法(「排日」移民法)成立(クーリッジ大統領、裁可)。
国別に移民を1921年の半分とする(日本人移民は禁止)。

5月31日
・排日移民法抗議。東京、米大使館付近で「米国民に与うるの書」を懐中にした壮士が割腹自殺。また、全国の神職400余、明治神宮で「米国排日法」反対祈願。

5月31日
・埴原駐米大使、米国務長官に排日移民法に関して抗議。
6月16日 米、反駁回答。

排日移民法抗議。
夜、大化会・鉄心会の右翼壮士10数人、内外国人100余を招いた帝国ホテルの舞踏会に乱入。抜刀して居合抜き・剣舞。また、映画館にも圧力をかける。

この年、国民対米会・対米同志会・大亜細亜協会・東亜連盟協会・大日本国粋普及会・愛国義会・関東各大学専門学校雄弁連盟など、反米を主張する右翼団体がつくられる。

6月8日
・1万人を超すアメリカ・インディアンがアメリカ・オクラホマ州サンド・スプリングスに結集。米社会におけるインディアン問題を討議。

6月15日
・米議会、全米インディアンに市民権を与えることを可決

7月22日
・サンフランシスコ、米人暴徒、日本人労務者(25人)の小屋に約100発乱射。

8月14日
・米大統領、1924年移民法問題は結末を告げた旨演説。
9月15日 日本抗議。
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1927(昭和2)年、メアリーとピーター小学校に入学
 「サン・ペドロには七つか八つの小学校があった。中学校と高校はひとつずつ、カソリックの学校がひとつ。それぞれの小学校にいた日本人の子供は数人で、私たちが通った十五丁目小学校の同じ学年にいたのは、私たち双子に幼なじみのミワコ・オアナを加えた、たった三人だけである。

・・・この町で育った日系二世は、両親が英語をうまく話せないのを理由にいじめられたり、移民だからと肩身の狭い思いをした経験がない。というのは、白人の子供たちの両親の多くもイタリアや東欧からの移民で、私たちの両親と同じように英語がほとんど話せなかったのだから。

・・・人種偏見の少ないこのコスモポリタンの町は、子供が育つには絶好の環境だった。私が人種という垣根にまったくとらわれることなく生きてこられたのは、こうした移民の町で育ったからかもしれない。今思うと、私は本当に幸せな子供時代を送ったのだ。」

 「魚市場に会社を持っていた私の父は、寄港した日本の船に日用品や食料を調達していたので、日本人船長や高級船員をよく家に招いていた。・・・

 日本の船が着くと、父は船長たちの運転手役を引き受け、劇場やゴルフ場に案内した。それがのちにトラブルの原因になった。日本人の船長や、ときには日本の軍人たちとの交流があった父は、戦争が始まるとスパイの汚名を着せられてしまう。父が逮捕されたあと、私たちはFBIが二十年近くにわたって父を監視し、日本人の船長をゴルフやレストランに案内している写英を隠し撮りしていたことを知った。FBIはその写英を突きつけて父を厳しく尋問したという。サン・ペドロの日本人でFBIの監視下に置かれていたのは、私の父ただひとりだった。」(以上、ユリ カリフォルニアの日々)
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この年
1月
・石垣綾子(24)、反対を押し切ってワシントンより単身ニューヨークに向う。1週間YWCAに宿泊、清水牧師よりケリー牧師夫妻の住込みメイドの働き口を紹介される。午前中家事、午後コロンビア大学に通い、夕方家事という生活。
この頃、ニューヨークの学生の間で話題のコロンタイ「赤い恋」を読む。
この頃のニューヨークの邦人移民700~800。
猪俣津南雄が紹介した石垣栄太郎と会う。

3月7日
・米最高裁、黒人の民主党予備選挙投票を禁止したテキサス州法に違憲の判決。

4月9日
・米最高裁、サッコとヴァンゼッティに死刑判決。

6月20日
・ジュネーブ海軍軍縮会議開会。~8月4日。日英米。仏伊参加拒否。巡洋艦・駆逐艦・潜水艦に関して合意に至らず不成功。補助艦含む海軍軍備制限については、次回のロンドン海軍軍縮会議に持ち越される。

8月8日
・米、CGTU、サッコとヴァンゼッティ処刑反対ゼネスト提起

8月22日
・サッコとヴァゼッティ、強盗殺人容疑で処刑。国際的抗議たかまる。
この日ニューヨーク、ユニオン・スクエアー広場で死刑執行反対集会。アナトール・フランス、アインシュタイン、バーナード・ショー、日本「国際弾圧防衛委員会」から反対メッセージ。真夜中12時過ぎ、執行延期日の最終期限前、執行された旨の報告。
後、アプトン・シンクレア「ボストン」、ブロードウェーでロングラン。ドス・パソス「USA」。

死刑執行の50年後にあたる1977年7月19日、マサチューセッツ州知事のマイケル・デュカキスは、この裁判は偏見と敵意に基づいた誤りであるとして二人の無実を公表、処刑日にあたる8月23日を「サッコとヴァンゼッティの日」と宣言した。
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1928(昭和3)年 ビル・コチヤマ、孤児院に入る
 「雇用主の住宅で四六時中寝起きするよりしかたがないので、豊は息子に住宅をあてがってやれなかった。あの家この家といくつも念を入れて検討したあげく、一九二八年になると、息子のために一番いい場所はシェルタリングアームズ ー 片親の子どもの面倒を見てくれる、ニューヨーク市の進歩的なエビスコパル派が運営する孤児院 - だ、と豊は判断した。その所在地は、偶然だが、一九六〇年にビルと私が六人の子どもと一緒に引っ越した場所、すなわちマンハッタンヴィルハウスの通りの向かい、一二六番街とブロードウエーに近いところだった。」

 「本人(ビル)の鮮明で愛着を覚える記憶といえば、シェルタリングアームズで成長した幼少時代のそれにとどめをさす。シェルタリングアームズでのビルは、それこそ慈愛にあふれた”兄弟や姉妹”に囲まれた境遇だったし、いつも注目の的になる人気のせいで、しょっちゅうリーダーの地位にかつぎあげられた。」

 「一二〇人の白人児童 - 六〇人の少年と六〇人の少女 - がいる”家族”で、ビルがたった一人のアジア系アメリカ人だった。当然ぼくも白人だと思いながら、ビルは成長し施設生活をした。この話もさることながら、驚くべきことは、シェルタリングアームズの長であるヘレン・デー女史は実に進取の気性に富んでいたので、少年少女の共同生活を認めたわけである。少年少女は一人残らず兄弟や姉妹としてうまがあった。ところで、火曜日ごとの父の訪問の場合、ビルに食べ物を持参してくれるか、近くのレストランで、普通は一二五番地とブロードウエーのウィング・ヒングという名の中国料理店で、食事をおごってくれるのがきまりだった。

 ぼくには兄弟や姉妹が二一〇人もいる。はじめてこう耳にしたとき、ビルは大ほらふきだわ、と思った。ところが、ビルと結婚してから年がら年じゅうその兄弟や姉妹と顔を合わせるようになったので、ビルは本当のことを話してくれているんだと気づいた。一同は、おもにフランス、イタリア、ドイツ、イギリスの出身だった。一方、ビルといえば、ハンサム、活発、上品、スマート、愉快な人柄に加えてダンスが得意だったから、家族の間でとても人気があった。とくに女の子にはもてた。一九三九年まで十代の歳月の始めから終わりまで、シェルタリングアームズはまさにビルの家だったと言っていい。」(以上、回顧録 私のビルへの賛辞)
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この年
・米、「メリアム報告書」刊行。
保留地のインディアンの悲惨な状況。家庭内暴力、アルコール中毒、高い自殺率など、共同体の暮らしの荒廃と心理的崩壊を証明。ドーズ法(1887年)による同化政策の失敗を明らかにする。  

2月23日
・米議会ティンバーレーク決議、フィリピン砂糖輸入制限求める。
このあと、米議会でフィリピンに対する農業保護主義が高まる。

5月19日
・米国務長官ケロッグ、アメリカは満州は中国領土とし日本の対中国通告は容認しがたいと言明。

8月27日
・パリ不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)調印
米英仏日など15ヵ国。国策の手段としての戦争放棄。日本は内田全権が署名。
9月3日~26日 国際連盟、強制仲裁措置を付加。23ヵ国が承認。1929年7月24日 発効。
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