江戸城(皇居)東御苑 2014-10-07
*應徳3年(1086)
・この年、越前守源高実、越前大野郡牛原荘200余町を醍醐寺円光院に寄進(「醍醐寺新要録」)。牛原荘の荘園建立につき最初の立券あり(「醍醐雑事記」)。
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・ウイリアム征服王の命令でイギリス版検地帳「ドームズディ・ブック(土地評価簿、租税台帳)」作成。イングランドのほぼ全土を調査。
国王直属封臣(大領主)180名中、アングロ・サクソン系6名以下(ティーズ川以南では3名)。ノルマン・コンクェストによりアングロ・サクソン、デーン人旧貴族(セイン層)が根こそぎ一掃、ノルマンディ人、フランス人貴族に交替。
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・皇帝ハインリヒ4世、ベーメン大公ヴラティスラフ2世(大公在位1061~1092)に一代限りの「王号」授与。
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・アプーリア公国ロゲリウス・ボルサ異母兄ボヘムンドゥスの反乱。
オーリア、オトラント、ターラント、ガッリーポリを征服。
コンヴェルサーノとブリンディジの間の広大な地域を支配、ターラント候と称す。
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・ロゲリウス1世、シチリア島東海岸(南部)シラクーザ(シラクサ)を征服。
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・ソルバイアの戦い。
ルッカ、皇帝に味方しトスカナ伯マティルダ(40)に反旗。
トスカナ伯マティルダ、ロンバルディアの皇帝軍を撃破、退却させる。
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・ルッカ司教・バッジョのアンセルムス、没。
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・教皇ヴィクトル3世、即位(位1086~1087)。モンテ・カシーノ修道院長デシデリウス、ベネベント出身。ローマは内戦状態(サン・ピエトロ大聖堂も修羅場)。
トスカナ伯マティルダ、兵を率いローマに乗り込みヴィクトル3世を応援。
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・アラゴン・ナバーラ王サンチョ・ラミーレス、地中海に向け前進、トルトーサ攻撃。
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・カスティーリャ王アルフォンソ6世、初代トレード大司教にクリュニー派サアグン修道院長ベルナール・ド・セディラックを任命(任1086~1124)。
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・ペチェネグ人、ドナウ川を越えてビザンティン帝国に侵入。
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・北宋、司馬光、旧法党の党首として中央政界に復帰、宰相となり、王安石の新法を廃止。
王安石、没。
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1月23日
・源頼俊の申文(応徳三年正月二十三日付の前陸奥守源頼俊申文)
源義家以前に陸奥守に赴任した頼俊が、前九年後の陸奥の治安回復に尽力したことへの恩賞として、自らが讃岐国司の拝任を申請したもの
頼俊は、『尊卑分脈』には、大和源氏の祖頼親の孫とされ、「陸奥守、上総守、左衛門尉」の官歴を有した武者受領。
頼親は「殺人の上手なり」(『御堂関自記』寛仁元年3月11日条)ともいわれ、義家の河内源氏の祖頼信の兄にあたる。
前九年合戦に頼義が安倍一族の残党処理その他で陸奥国に残留した直後に、現地に赴任した可能性が高い。
(概要)
①治暦3年(10637)に陸奥国守となり下向した頼俊は「治略を廻(めぐら)し興複を期し」、力を尽したが、その間「野心を挟(さしはさ)む俗、朝憲を憚(はばから)ず」という事態のなかで、「衣曾分嶋(えそわけしま)の荒夷並びに閉伊七村の山徒」の鎮圧に武功をたてた。この勲功を言上したところ、「辺鎮」の労について「黙止」しがたき旨の宣下を賜った。
②この宣旨を以て上洛したところ、清原貞衝が鎮守府将軍に任ぜられ、大将軍たる頼俊については、朝恩を賜わることがなかった。勲功により「勧賞(けんじよう)」されることは、古今の例も多く、近年では源頼義が越階(おつかい)で伊予守を拝任しており、その「子息」や「従類」たちまで恩賞をもらっている。
③上洛後、綸旨によって武蔵国住人平常家以下を「召し進め」るという勲功も先例に恥じない忠節ぶりである。
以上のことを勘案し、欠員の讃岐国守への拝任をお願いしたい。
・「衣曾別嶋の荒夷並びに閉伊七村の山徒」:
奥六郡以北の地域。「衣曾別嶋」は津軽あるいは北海道を含めた呼称の可能性がある。「閉伊」は奥六郡と北西部の北上高地一帯。
・貞衡:
清原一族だが、諸系図には貞衡に該当する人物は見当らず、真衡(さねひら)の可能性が高い。
いずれにしても、鎮守府将軍は武則以降、陸奥国での騒擾事件の鎮圧にかかわった貞衡なる人物が存在して、その武功により鎮守府将軍に任命されたこと、清原氏の現地における権勢が治安維持に大きな役割を演じたことが確認できる。
「真衡威勢父祖にすぐれて国中に肩をならふるものなし……是によりて堺のうち穏にして兵収まれり」との『奥州後三年記』の記述には、そうした事情がうかがえる。
・平常家:
前九年合戦での頼義の先例をもち出したことからして、頼義の「坂東の精兵」と同じく頼俊との私的関係での従軍と判断される。頼義がそうであったように、官符・宣旨による兵力動員であったことが恩賞授与の対象とされた。頼俊も私的主従関係を、公的な綸旨を前提に従者たちの勲功を申請したと思われる。
常家に関しては、良文流平氏に属し、豊島・葛西両氏の祖とされる人物で、その子孫には、下総葛西郡を拠点とした葛西清元・清重父子がいる。
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閏2月25日
・越前大野郡司、醍醐寺円光院領牛原荘内の荒野田畠注文を作成。
この月、越前大野郡牛原荘の荘田開発庁宣出る(「醍醐雑事記」)。
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6月30日
・ムラービト朝(北アフリカのムスリム、ベルベル人)アミールのユースフ・イブン・ターシュフィーン(位1061~1106)、スペイン・アルヘシーラス上陸。
セビーリャ王ムータミド、グラナーダ王、バダホース王が、カスティーリャ王アルフォンソ6世に対抗するため共同してユースフに援助を求める。
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7月
・白河天皇、鳥羽殿南殿造営開始。藤原季綱から譲渡される。
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8月1日
・ソールズベリの誓い。
スカンディナヴィアとフランドルからの侵入の危険に直面したウィリアム征服王、全イングランド領主より忠誠の誓いを受ける。
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8月12日
・越前大掾藤原実義を御書所別当に任じる。
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8月30日
・東大寺、若狭封戸からの米100石の代物の仮納返抄を出す。
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9月16日
・藤原通俊、後拾遺和歌集を撰進。
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9月28日
・朝廷、奥州(出羽)に源義綱(義家の弟)を派遣することを議す(実現せず)(『後二条師通記』応徳3年9月28日条)。
後三年合戦第2段階:
真衡没後の惣領権の争いが、家衡・清衡両者の武力対立として表面化し、義家の介入により戦火が拡大してゆく。
義家は任終年を迎えていた。
この年応徳3年(1086)夏、異父兄清衡への遺領配分以来、害意をいだいていた家衡は、清衡の館を奇襲し妻子脊属を殺害。
(兄清衡を讒言した家衛に対し、義家は逆に清衡に褒賞を与えて家衡を挑発した)
難を逃れた清衡の訴えで、義家は国解を提出して追討官符を求めるとともに数千騎を率い家衡が拠る沼柵(ぬまのさく)を攻撃する。
任終年に家衝を挑発したのは、父頼義と同様、重任を希望し、勲功賞に期待してのこと。
しかし、膠着状態のままで冬を迎え、飢寒のため「官軍多く寒死飢死す。或いは馬肉を切り食う」という状態のなかで、義家は屈辱のなかで撤収を余儀なくされる。
勢いに乗る家衝は叔父武衝の味方を得て沼柵から金沢柵に移って抗戦の構えを示した。
国解を受けた政府部内では、義家の申請どおり追討官符を出すか、追討官符を出さず義家の弟義綱を後任として事態を収拾させるか、意見が分かれていた。
それは、義家の勢力がさらに強大になることを許すか、対抗勢力を育成するかという、王朝国家の軍事政策上の問題でもあった。
だが天下一の武名を誇る義家は、家衡に撃退されたまま帰京するわけにはいかない。彼は武家の棟梁の威信にかけて、家衡を倒さなければならなかった。
『奥州後三年記』の義家伝説:
この時、義家は、飢えと寒さで苦戦をしいられ凍死する者が続出するなかで、寒さで震える兵士を自らが介抱したという。
『陸奥話記』の頼義の話(戦場で負傷した兵士の傷を吸う行為で、将士をいたわった)と通底しているようでもある。"
源義家(1039~1106):
父は源頼義(相模守)、母は平直方女。河内源氏の氏神・石清水八幡宮で元服、八幡太郎と称される。左近衛将監、検非違使、左衛門尉、左馬権頭、河内・相模・武蔵・信濃・下野・伊予等の国守を歴任。正四位下。前九年の役に、父頼義に従って安倍氏と戦い、その功によって康平6(1063)年2月、従五位下、出羽守となる。
康平7年(1064)、父の任国伊予と遠く離れているために孝養を尽くせないとして、越中守への転任を希望。
また同年、美濃源氏(国房)との衝突が見える(詳細は不明)
国房は摂津源氏の一門で頼光の孫。伊豆・信濃などの受領を歴任し、東大寺領茜部荘(あかなべのしよう)の下司に就任するなどして美濃に進出、同国に拠点を築いて河内源氏や他の一族とたびたび紛争を起こす。
(河内源氏と美濃源氏の衝突)
村上源氏の公卿源俊房の日記『水左記』康平7年(1064)10月19日条に頼義と国房の合戦が、また『百練抄』の同年12月24日条には、「義宗」(義家か)と国房の合戦が朝廷で問題となったとの記事がある。
同じくその頃のことと思われる事件にふれた説話が『古事談』(巻4・17)にある。
美濃源氏の光国と口論となった義家は、かつて光国の父国房を攻撃した際に手心を加えた話をした。
頼義が逆修の法会を行っている最中、国房に郎等が侮辱されたことを耳にした義家は、わずか3騎を連れて美濃に出撃し、途中で郎等たちが次々と合流、25騎を率いて国房の本拠を焼き討ちした。これを恐れて逃亡した国房をそれ以上追撃しなかったという。
仏事にしか関心をもたない老いた頼義、祖父頼信以来の美濃の拠点を重視し、武士団の維持や競合する美濃源氏との対立に心を砕く義家(河内源氏の世代交代を物語る逸話)。
(河内源氏と大和源氏との競い合い)
延久2年(1070)8月、下野守義家は、隣接する陸奥国で印鎰を奪う事件を起こした散位藤原基通を捕らえる。前九年合戦から7年日、再び義家は陸奥に関係する事件で名声を博した。
この事件は、陸奥守源頼俊と清原貞衡が「衣曽別嶋」(蝦夷島)、「閉伊村」など、北陸奥の三方面を攻撃している最中に勃発したため、二つの出来事の間には密接な関連があるとみられている。
事件について二つの解釈(後三条天皇が威信をかけて行った大規模な追討、偶発的蜂起への対処)がある。
いずれにしても、摂関政治を抑えて天皇親政を開始した後三条天皇の権威にかかわる追討であった。受領として追討を指揮した源願俊の責任は重大であり、追討に成功すれば天皇の深い信頼を受けることにもなる。
頼俊は大和源氏の武将で、義家の祖父頼信の兄頼親の孫にあたり、義家とは又従兄弟の関係。
頼俊は、父頼房か興福寺との抗争で配流され、配流先で没したことから、祖父頼親の養子として家督を継承していた。その頼親も興福寺の訴えで配流されており、摂津源氏・河内源氏に比べて政治的地位を低落させていた。
そんな中、頼俊は検非違使のほか、受領としては格式が高い讃岐守などを歴任し、大和源氏の地位を回復させつつあった。
陸奥守には後三条即位の前年から在任しており、追討には偶発的に起用されたのだが、追討の成否には大和源氏の浮沈かかかっていた。
貞衡は、「真衡」の誤記として、武則の嫡孫真衝ととする説もあるが、平繁盛流の海道平氏出身で、清原氏の婿に迎えられた人物とする説が有力。
彼が追討に成功して鎮守府将軍に任命されたのに対し、頼俊は何の恩賞も得られなかった。
その背景には基通の事件があった。
北陸奥追討を目の当たりにして、義家は焦慮した。後三条天皇が政治の主導権を掌握した直後の追討で、政権交代とともに、夷狄追討を担当する軍事貴族の第一人者も、摂関家に近い河内源氏から大和源氏に代わる可能性もある。頼信が基礎を築き、前九年合戦の苦闘の末に頼義が守った地位を、むざむざ明け渡すことにもなりかねない。
しかし、藤原基通の反抗による混乱などで、頼俊は国衙に引き返すなど、追討の第一線からの離脱した。こうしたことが、追討は失敗とみなされたのか、貞衡が鎮守府将軍に任じられたにもかかわらず、頼俊には何の恩賞もなかった。そして、これ以後、頼俊は受領になった形跡はなく、大和源氏の政治的地位は低迷することになる。
逆に、基通をいち早く追捕したことで、義家・河内源氏は夷狄平定の第一人者という地位を保持した。これを背景として、清原氏内紛という危機に際し、義家は陸奥守に補任される。
義家は承保4年(1077)10月以前に下野守の任を終えて帰京。
11月には弟・義鋼の下野守在仔が判明するから、これは義家の後任と考えられる。
承暦3(1079)年美濃で源重宗と同国房が戦った際、詔を受けて重宗を追討。
更に永保元年(1081)9月の園城寺と延麿寺の抗争の際には、検非違使とともに園城寺の僧兵を追捕。
同年10月には白河天皇の石清水行幸に際して、弟義網とともに園城寺の悪僧による襲撃を防ぐべく天皇を警護。
同年12月の春日行幸でも、100人ほどの武装した郎等を率いて天皇を警護し、「近日の例」と称された。
(この後の義家の概略)
この年の沼柵からの撤収以降・・・、
寛治元(1087)年9月、家衡の金沢珊(横手市)を攻撃。同年11月、柵は陥落、家衡は敗死、清原氏は滅亡(後三年の役)。
この戦役で、義家は家衡追討の官符を要請するが、朝廷は私闘として官符を発せず、勧賞もなし。義家は、私財を以て配下の軍将をねぎらい、両者の関係がより強化される。
同5年6月、義家の郎等藤原実清と、義家の弟義綱の郎等清原則清が河内の所領を巡って争う。義家・義綱も夫々に加担して合戦。朝廷は諸国からの兵士の入京を禁じ、諸国百姓が公験を義家に寄進することを制止。翌年、義家の諸国の荘園も停止。
承徳2(1098年)年、院の昇殿を許される。
康和3(1101)年7月頃、義家の嫡子義親は対馬守として九州にあり、大宰府の命に従わず、人民殺害・公物椋奪を繰り返したため追討使が派遣。父義家は義親を召喚するが、義親は帰洛を拒否。翌年12月、朝廷は義親の隠岐流罪を決定。義親の濫妨は続く。
その間、長治元(1104)年延暦寺衆徒の濫妨停止のために僧兵を追捕。
義親問題が解決しないまま、嘉承元年7月4日、病により出家、同日没(68)。
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