2014年10月8日水曜日

日系二世人権活動家ユリ・コチヤマの年譜(3) 1929(小学校3年)~1932(同6年)

北の丸公園 2014-10-08
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1929(昭和4)年
・小学校3年(メアリとピーター 8歳)

1月11日
・ヤング委員会成立。対ドイツ賠償問題専門家委員会第1回会議、米のヒルト・ヤング、委員長。

1月15日
・アトランタ、マーチン・ルーサー・キング、誕生。

2月7日
・米国連邦準備局、株式ブームに対し異例の警告を発する。

2月14日
・シカゴ、聖バレンタイン日の虐殺。
シカゴのアル・カポネ配下のギャングが敵対ギャング6人を殺害。

3月4日
・ハーバード・フーバー(共和党)、第31代大統領就任。

6月7日
・対独賠償ヤング案成立。米国から借款(ヤング公債)供与。
8月6日 ハーグ会議で承認。
8月31日 ドイツが、ヤング案受諾。

10月24日
・世界経済恐慌
ニューヨーク株式市場大暴落(暗黒の木曜日、ブラックサースデイ)。世界大恐慌へと発展。
この日午後、銀行が買い支え、株価は少し戻り、平均株価の下げ幅は前日の1/3程度(ガルブレイス『大暴落1929』)。
「東京朝日」27日付夕刊は、「混乱の中に静かに『モルガン商会のブローカー』リチャード・ホイツトネー氏の姿が現れ突如スチール二万五千株二百五㌦買を叫んだ」
「電流の如く市場を震動せしめ忽ちにして全市場の形勢を一変した」
「実に息づまる如き劇的シーンであった」と、描く。
「ニューヨーク・タイムズ」25日付1面トップもまた、「最悪の株式暴落、銀行団が止める」と、買い支えに焦点を当てる。

1930(昭和5)年
小学校4年(メアリとピーター 9歳)

1月21日
・ロンドン海軍軍縮会議開催。~4月22日。米英日仏伊。
主要課題は、巡洋艦・駆逐艦・潜水艦などの補助艦の制限と、ワシントン条約(1921~22年)に基く主力艦建造休止期間の延長。補助艦制限問題は既に昭和2年6月ジュネーブでの英米日3国軍縮会議で取上げられたが、会議は8月決裂し、ロンドン会叢はその第2ラウンド。

1月22日
・カリフォルニア州ワトソンヴィルで大規模な反フィリピン人暴動、青年1名死亡。

1月3日
・共産党と労働組合統一同盟(TUUL)指導で失業者の全国統一行動。125万人参加。

3月31日
・議会、失業対策として公共建設法を採択。2億3千万ドルを計上。
4月4日、道路建設計画に3億ドル計上。

4月10日
・議会、フィリピン人移民排斥法公聴会。

4月22日
・ロンドン海軍軍縮条約調印
補助艦の保有比率を英10、米10、日7と規定。合意に至らなかった仏・伊は、主力艦・航空母艦に関する協定、潜水艦の艦型制限および補助艦の代換建造に関する協定、潜水艦の使用制限に関する協定にのみ参加。10月2日、批准。

5月14日
・議会、スムート・ホーリー関税法案(多数の輸入品関税引き上げ)承認の方向へ。経済学者1,028人、この法は国内外で大反発を呼ぶと反対請願書署名。
6月17日、フーバー米大統領、スムート・ホーリー関税法案に署名。

7月
・TUULの呼び掛けでシカゴで全国失業者協議会結成。その後短期間に、「仕事か賃金を」のスローガン掲げ大躍進。

10月
・失業者、450万人に。フーバー大統領、失業救済委員会を設置。個人と地方の責任を維持することが目的。

12月
・銀行が一年で1352行破産  

1931(昭和6)年
小学校5年(メアリとピーター)

1月7日
・アメリカ失業調査委員会、全米失業者は500万人以内とフーヴァー大統領に報告。

3月25日
・米、9人の黒人青年、白人夫人暴行容疑で有罪判決。
1935年4月1日、最高裁、この判決を覆す。

4月1日
・ニューヨーク、世界一(381m)のエンパイア・ステイト・ビルディング完成

6月20日
・モラトリアム宣言。フーバー米大統領。戦債および賠償金支払いの1年間停止を提案。フランスの反対で遅れるが、7月6日、フーバーは全債権国の受諾を発表。

9月22日
・スチムソン長官、9ヶ国条約不戦条約を引用し満州の事態に関する責任は日本が負うべきとの通告を出淵大使に手交。

同日
・国際連盟、満州事変のため緊急理事会を招集。満州事変に関してレルー議長より日中国外相に第1次勧告。

9月24日
・アメリカ、満州事変に関して同文覚書を日中両国代表に手交し、武力に依らない解決を希望。

9月30日
・国際連盟理事会、日本軍は自国民の安全・財産の保障が確保されるとともに、鉄道付属地に撤退するとの決議、日本も加わる全会一致で成立。

10月24日
・連盟理事会、期限つき撤兵勧告案(事変発生前の状態に戻れという勧告)を可決(13対1、日本以外は賛成、全会一致の原則により実質的には否決)。幣原外交の崩壊。
「日本政府はその軍隊を鉄道附属地に撤退させることを直ちに開始し、かつ続行し、理事会の次回の会合に指定されたる期日(11月16日)以前に撤退を完了するよう要請する。」

11月19日
・国務長官、日本軍よるチチハル占領はケロッグ及び9ヵ国条約違反と出淵大使に通告。

11月27日
・国務長官、錦州爆撃に対し抗議声明

12月7日
・失業者、ワシントンで飢餓行進。最低賃金での雇用要求。フーヴァー大統領は代表者との会見を拒否。このとき失業者が800万人を超す。

12月10日
・国際連盟理事会、調査委員会設置等「満州問題に関する決議案」可決。中立的調査団現地派遣採択。
翌1932年1月14日、理事会で英のリットンら5委員任命を承認(リットン委員会)。

1932(昭和7)年
この頃から、日本人学校に通う(メアリとピーター 11歳)

「我が家の三人きょうだいが日本人学校に通うようになったのは、私が小学校の六年生のころ。当時の日本人は、アメリカの小・中学校のかたわら、子供を日本人学校に通わせるのが普通だった。・・・」

「・・・規律の厳しいカンプトンの日本人学校のことを誰かに聞いた母は、私たちをそこに通わせることにした。・・・
サン・ペドロからほぼ十マイル。ロサンゼルスとの中間に位置するカンプトンは、今では南カリフォルニア最大の黒人コミュニティのひとつになっている。しかし、当時は白人と農業に従事する日本人だけが住んでいて、南カリフォルニアでいちばん大きい日本人学校があり、先生が厳しいことで知られていた。児童の数も段違いに多かった。ウォルテリアの日本人学校の生徒は数十人だったが、この学校には数百人の子供たちが通っていた。」

「日本人学校は、年齢ではなく日本語の学力によってクラス分けされていた。日本語のへタだった私が入れられたのは、小学校二、三年生のクラスだ。ここには私と同じ年長の子供がもうひとりいて、ジュンコ・トグリというこの少女とは親しい友人となった。彼女の姉のイタコは、戦時中、日本で国際放送の謀略番組に関わり、のちに″東京ローズ″として知られることになる。」
(ユリ カリフォルニアの日々)

11月7日
「一九三二年七月、私が十一歳のとき、ロサンゼルスでオリンピックが開催された。偶然にも私たちの町、サン・ペドロが日本の陸上チームの宿泊場所になったので、町の日本人は大騒ぎだった。・・・私たちは三段跳びで優勝した南部忠平をはじめ、スター選手のほとんどの名前をそらんじていた。

そして、さらにまた偶然にも、そのオリンピック・チームが毎日練習をしていたのが、我が家の近くのサン・ペドロ高校の運動場だった。運動場は私の家とコンドウのおじさんの家から通りをはさんだすぐ向こうにあったので、毎日午後の練習が終わると、選手たちは私たちの家にやってきて芝生の上でくつろぐ。母がつくった大量のレモネードを選手たちに運ぶのが子供たちの仕事だ。私たちは練習を見にいき、選手とおしゃべりをし、全員の名前とその競技種目を覚えた。

・・・私たちは何人かの選手と仲よくなったが、帰国したあともしばらくのあいだ連結を取り続けてくれたのは、チョウさんという四百メートル競技に出た朝鮮人だ。

チョウさんはとても礼儀正しい青年で、私たち子供にも優しかったから、家族全員が彼の大ファンになった。日本選手が大活躍したこのオリンピックは、私たちに日本人としての誇りを与えてくれた。私たちは初めて日本を身近なものとして感じたのだ。しかし、チョウさんの母国の朝鮮に対して、日本がどんな残酷なことをしたのかを私が知ったのは、戦後何年もたってからのことだった。」
(ユリ カリフォルニアの日々)

1月7日
・スチムソン・ドクトリン。国務次官スチムソン、日本の満州占領不承認を宣言。8日付けで満州事変に関し不戦条約違反・新事態不承認を日中両国に通達

1月22日
・金融機関救済のための復興金融公社(RFC)設立。

1月27日
・アメリカ政府、上海問題につき日本政府に警告

2月2日
・ジュネーブ軍縮会議
国際連盟主催。米・ソ含む60ヵ国余が参加(~12月11日)。独は仏の国際連盟警察軍創設案拒否し9月14日に会議場を引上げ。

2月2日
・国際連盟理事会、上海事変のため緊急召集。

2月2日
・恐慌対策の復興金融法が成立。

3月7日
・ミシガン州のフォード自動車工場、職を求めるデモ隊3千人に対し警官が発砲。4人死亡。

3月23日
・ノリス・ラガーディア法成立。ストライキ禁止命令を制限。

4月30日
・国際連盟総会で日中停戦決議案可決(日本代表は棄権)。

5月12日
・自宅家に近い林の中、誘拐されたリンドバーグ長男の死体発見

5月29日
・ボーナス・マーチ。退役軍人1万5千人と妻子がワシントンへ行進、特別手当ての即時支払いを要求。

7月
・ニューヨーク証券取引所の株価が、1929年の暴落時前の4分の1にまで下落。

7月11日
・フーバー大統領、連邦政府の失業対策機関を各州に設置するワグナー・ガーナー法案を拒否。

10月7日
・フーヴァー大統領、満州国不承認政策を強調する演説。 

11月7日
・最高裁,スコッツボロ事件で死刑・終身刑の判決を受けた9人に対し再審命令。

11月8日
・大統領選挙で民主党のフランクリン・ルーズベルト・ニューヨーク州知事、共和党フーバー現大統領を破って当選。副大統領ガーナー。
一般投票ではルーズベルト22,829,501票、フーバー15,760,684票、選挙人投票では472票、フーバー59票。議会では下院で民主党310議席、共和党117議席、他5議席、上院で民主党60議席、共和党35議席、他1議席。両院で民主党が多数党。

12月
・失業者1,500万人に達する。

12月6日
・国際連盟臨時総会開会、リットン報告書審議開始。19ヶ国(米ソを含む)委員会に解決提案を依頼して9日に終了。
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