2014年10月11日土曜日

明治38年(1905)1月 漱石(38)「吾輩は猫である」(一) 石川啄木「老将軍」 大塚楠緒子「お百度詣」 大町桂月「詩歌の骨髄」

江戸城(皇居)東御苑 2014-10-07
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明治38年(1905)
1月
この月
・第一銀行、韓国政府より国庫金取扱い特権獲得。貨幣整理事業委託契約(中央銀行化)。
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・韓国駐剳軍司令官、漢城地区治安警察権掌握。言論・出版・結社・集会統制。
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・横浜正金銀行、旅順出張所設置。
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・若山牧水(20)、尾上柴舟を中心に、正富汪洋、前田夕暮等と「金箭会」をおこす。
数ヶ月で「車前草社」となりまもなく三木露風、有本芳水も加わる。
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・吉野作造「本邦立憲政治の現状」(「新人」1・2月号)。「主民主義」(善政主義)を主張。吉野は前年(1904年)東大卒業。
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漱石(38)、「吾輩は猫である」(「ホトトギス」~翌明治39年8月)
「此の一篇が忽ち漱石氏の名を文壇に嘖々たらしめた事は世人の記憶に新たなる所である。」(高浜虚子「漱石氏と私」) 。
「倫敦塔」(「帝国文学」)、「カーライル博物館」(「學鐙」)。

 「ホトトギス」の仲間は、子規の生存中から、写生文を作って批評し合う「山会」を続けていた。文章の主目的は写生であるが、それには山がなければならない、という子規の意見によって名づけられた。主な出席者は坂本四方太、寒川鼠骨、河東碧梧桐、虚子などで、子規系の歌人、伊藤左千夫、長塚節なども時々出席した。

 子規の親友、漱石を大切に扱っていた虚子は、淑石がものを書きたがっているのを見て、前年末頃、漱石に文章を書くことをすすめた。虚子は、近く「山会」が根岸の子規の旧居で開かれるの際に立ち寄るので、何か書いておくようにと漱石に言っておいた。
 その日、虚子が立ち寄ると、漱石は愉快そうな顔で、文章ができたから、今すぐここで読んで見てくれ、と言った。写生文は普通10枚前後であったが、漱石が書いたのは30枚ほどの長い原稿であった。

 虚子がそれを朗読すると、漱石はそれを聞きながら、時々吹き出して笑った。
文章は、「山会」に出される写生文とは違う性質のもので、ユーモラスに学者の家庭風景を描いた一種の戯文であったが、とにかく面白かったので、虚子はそれをほめた。
 漱石が欠点を指摘してくれと言うので、虚子は所々無駄な言葉と思われるところを消すようにと言った。漱石は不服そうな顔をしたが、文章においては虚子に一日の長があると思っていたので、言われるままにその場で消したり書き改めたりした。2枚ほど省いたところもあった。

 原稿は題のところを三四行あけてあった。漱石は、題は「猫伝」にしようか、それとも冒頭の一句「吾輩は猫である」にしようかと決しかねている、と言うと、虚子は後者に賛成したので、題は「吾輩は猫である」に決定した。

 虚子がその原稿を持って子規庵に到着した時は、「山会」開会の時刻に大分遅れていた。会員たちは、虚子が原稿を読むのを聞いて、とにかく変っているという点で讃辞をのべた。

 漱石は、自分の家に迷い込んだ猫を主人公にして、学校の教員である自分とその家族や友人たちを客観的に諷刺的に描こうと企てた。

 猫を利用するのは独創ではなかった。
漱石は、一高の同僚で英文学者畔柳都太郎から、1822年にドイツの作家エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマンが、「牡猫ムルの人生観ならびに楽長ヨハンネス・クライスラーの断片的な伝記」という長い題の、猫を主人公にした小説を書いていることや、その筋書きや二三の場面を聞いていた。
ホフマンよりも以前の1797年には、ルードウィヒ・ティークが「長靴をはいた猫」という作品を書いていたが、それは1697年のフランスの作家シャルル・ペローの「長靴をはいた牡猫」に負うものであった。
それ等について研究していた畔柳都太郎は、明治37年秋頃、高山樗牛を記念して毎年開かれる樗牛会で、「猫を扱った文芸作品」という題で請演していた。また畔柳都太郎は、漱石の「吾輩は猫である」の発表された翌月(明治38年2月)、姉崎嘲風の雑誌「時代思潮」に「文学上の猫の話」という題で、エジプトから17世紀のシェイクスピアまでの文芸に現われた猫についての研究を発表した。

 漱石は、畔柳から、主としてホフマン「牡猫ムル」の話を聞いたが、それを読んだわけではなかった。
 漱石は、人間生活を客観的に描き出す手段として猫を登場させるのが便利だと考えた。人間性一般を諷刺的に、写実的に描き出すに当っては、彼は主としてスウィフトの「ガリヴァーの旅行」の文体と創作態度とを採用し、しかもそれを、自分が日常生活の中で使っている毒舌や洒落に作り変えた。

 彼は、そういう設定の上に立って、自分の不徹底な生き方に対する、また日本の知識階級一般の無自覚な生活態度に対する癇癪を吐き出しながらこの作品を書いた。

 「吾輩は猫である」は、異常な好評にむかえられた。それまでの小説には、人間存在の哀れや滑稽を、自分自身をも対象としながら笑いを混えて描き出した作品は、日本の近代文学には存在しなかった。「吾輩は猫である」は、その随筆風な、落語的な表現によって、知識階級の日常生活を、言わば微視的に描き出したので、読むものはそこに、自分の顔を初めて鏡で見るような感じを味わった。

 「吾輩は猫である」の評判のせいか、「ホトトギス」は間もなく売り切れた。虚子は続篇を書くことを漱石に依碩した。漱石はは、一回きりのつもりで書いたのであったが、第2回を書いて2月号に発表した。

 この月、漱石は、「帝国文学」に一種の旅行記「倫敦塔」を、丸善の機関雑誌「学鐙」に「カーライル博物館」を書いていた。漱石は、前年(明治37年)未頃には、頼まれれば何でも書こう、という気持になっていた。
 「カーライル博物館」は、カーライルの旧居を訪問した印象記で、「倫敦塔」は紀行文の中に、ロンドン塔にまつわる歴史上の諸事件、特にシェイクスピアの残忍な作品「リチャード三世」に描かれた血腥い王位簒奪事件の犠牲になった人々の姿を幻想的に挿入して、異様な効果を生んだ作品で、これも好評であった。

 漱石の作品を面白がったのは、「帝国文学」や「ホトトギス」にものを書いているディレッタント的な学者や学生か、文壇的小説家たちのグループから離れた俳人や歌人たちで、この時代の文壇の重要な発表機関、「新小説」「文芸倶楽部」「太陽」などのジャーナリズムとは無関係な出来ごとであった

 虚子は、漱石の帰国以来、しばしば逢っていたが、漱石はいつも暗かった。それが「吾輩は猫である」が発表されて、世評が湧くようになってからは、漱石の書斎は光が射し込んだように明るくなり、虚子を迎える漱石の顔はいつも愉快そうだった。

 「ホトトギス」2月号に載った「吾輩は猫である」第2回は、第1回よりも面白いと言われ、この月の「ホトトギス」もよく売れた。
3月号には漱石は書かなかった。すると、「ホトトギス」の売れ行きは落ちた。
虚子は漱石を督促して、4月号に第3回を書かせ、以後毎月連載してもらうことにした。

「猫」発表
明治38年
1月「猫」「ホトトギス」((八巻四号)
2月「猫」続編「ホトトギス」(八巻五号)
4月「猫」(三)「ホトトギス」(八巻七号)
6月「猫」(四)「ホトトギス」(八巻九号)
7月「猫」(五)「ホトトギス」(八巻十号)
10月単行本『猫』(上編)発売、20日で初版売り切れ。
10月「猫」(六)「ホトトギス」(九巻一号)

明治38年
1月「猫」(七)(八)「ホトトギス」(九巻四号)
3月「猫」(九)「ホトトギス」(九巻六号)
4月「猫」(十)「ホトトギス」(九巻七号)
8月「猫」(十一)「ホトトギス」(九巻十一号)
10月『猫』単行本(中編)の「序」
11月単行本『猫』(中編)刊行
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石川啄木「老将軍」(「日露戦争写真画報」明治38年1月号)。

老将軍

老将軍、骨逞しき白龍烏(はくりゆうめ)
手綱ゆたかに歩ませて、
ただ一人、胡天の月に見めぐるは
沙河(さか)のこなたの夜の陣。

けふ聞けば、敵軍大挙南下して
奉天の営を出でしとか。
おもしろや、輸嬴(ゆえい)をここに決すべく
精兵十万、将士足る。

銀髯(ぎんせん)を氷れる月に照らさせて、
めぐる陣また陣いくつ、
わが児等の露営の夢を思ふては
三軍御する将軍涙あり。

発(ひら)いては、万朶(ばんだ)花咲く我が児等の
精気、今凝る百錬の鉄。
大漠の深(ふ)け行く夜を警(いまし)めて
一声動く呼笛の音。

明けむ日の勝算胸にさだまりて、
悠々馬首をめぐらすや、
莞爾たる老将軍の帽の上に
悲雁一連月に啼く

石川啄木は、開戦直後に「岩手日報」に随筆「戦雲余録」を寄稿。
「平和と云ふ語は、沈滞や屈辱と意味が同じではない」
「(この戦争は)戦の為の戦ではない。正義の為、文明の為、平和の為、終局の理想の為に戦ふのである」
と述べ、日露戦争は義戦であり、ロシア解放のためにもなると主張。

その後、啄木は「時代思潮」第8号(明治37年9月)に掲載されたトルストイの非戦論を目にして心が揺れた、と8年後のノートに書き付けている。
ただ、「老将軍」を読む限り、彼の心の揺れは、非戦論に傾いたとまでは言い切れないようだ。
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・布施辰治(26)、2度目の弁護士事務所を四谷南伊賀町に開設。3ヶ月後、平沢光子(25)と結婚。市ヶ谷監獄典獄(刑務所長)が、在監未決囚で弁護士選定に迷う者に布施を推薦。
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・呉海軍工廠で、軍艦「筑波」起工。1907年1月竣工。13,750トン、馬力23,000、速力22ノット以上。
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・熊本県八代郡の群営干拓事業竣工。1,046町歩。
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大塚楠緒子「お百度詣」(『太陽』)

ひとあし踏みて夫(つま)思ひ
ふたあし国を恩へども
三足ふたたび夫おもふ
女心に咎(とが)ありや

朝日に匂ふ日の本の
国は世界に只一つ
妻と呼ばれて契りてし
人も此世に只ひとり

かくて御国(みくに)と我夫(わがつま)と
いづれ重しととはれなば
ただ答へずに泣かんのみ
お百度詣ああ答ありや

大塚楠緒子:
本名は久寿雄。東大文科大学の美学教授大塚保治の妻で31歳。
父大塚正男は土佐出身の裁判官で、鹿児島、名古屋、宮城、東京等の控訴院院長を歴任。
20歳のとき、東大哲学科出身の小屋(こや)保治を迎えて結婚。保治は学生時代から夏目金之肋と親交があった。楠緒子の母伸子は女の教養として和歌を重んじ、娘を16歳のときから竹柏園佐佐木弘綱の門に通わせた。弘綱の死後は、息子の信綱について引きつづき和歌を学んだ。
楠緒子は細面、色白の美しい少女であった。
明治26年、お茶の水にあった東京高等女学校を首席で卒業し、28年に小屋保治を婿に迎えた。保治は28歳で、東京専門学校の講師をしていた。
浮説であるが、彼女は、その年東大の英文科を出て東京高等師範学校の教師をしていた夏目金之助との間に暗黙の約束を持っていたが、夏目との黙約を放棄して小屋と結婚した、と言われた。
夏目と大塚姓に変った保治との間には親交が続いた。
保治は小柄で寡黙な、学問に専心する人で、夏目が東大で教えるようになったのは保治の推薦によるものであった。
楠緒子は結婚前から尾崎紅葉の作風を追いながら小説の試作をしていたが、明治29年から4年間にわたる夫の留学のあいだには、明治女学校に通って新時代の教養を取り入れ、一層文芸著作に身を入れた。
明治30年1月、「文芸倶楽部」の閨秀作家号に書いた「しのび音」では一葉に比較され、以後毎年2、3篇ずつ小説を発表した。
才気に溢れた美しい人妻で、大学教授夫人たちの社交仲間の中心であった。
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大町桂月「詩歌の骨髄」(「太陽」1月号)
 桂月は、与謝野晶子の詩の第三連を、「天皇自らは、危き戦場には、臨み給はずして、宮中に安坐して居り給ひながら、死ぬるが名誉なりとおだてゝ人の子を駆りて、人の血を流さしめ、獣の道に陥らしめ給ふ。残虐無慈悲なる御心根哉」と解釈する。

そして、「国民として、許すべからざる悪口也、毒舌也、不敬也、危険也」と断言し、「私は国家主義を唱える者、皇室中心主義を唱える者だ」と自白し、「もしわれ皇室中心主義の眼を以て、晶子詩を検すれば、乱臣なり、賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるもの也」と激情的に決めつける。

 これに対して、新詩社として、与謝野寛・平出修が大町桂月に対談を申し込み彼の住む蜀紅園(徳川時代の女傑春日の局の別荘跡)を訪問した。立会人として、大学生の生田星郊、また席上には文学士横山健堂も来合わせた。1時間半にわたる論談の結果、新詩社側は桂月の論理の矛盾を指摘し論破した。その要領は、平出修「詩歌の骨髄とは何ぞや」(「明星」2月号)に掲載された。
問いと答えの間に、桂月の「答無し」、「日本語を知らず」、「話題を転じて答へず」、「やゝ窮す」「全く窮す」、「議論、支離滅裂なり」などと記してある。

 平出修は晶子詩の第三連を、「天皇陛下は九重の深きにおはしまして、親しく戦争の光景を御覧じ給はねど、固より慈仁の御心深き陛下にましませば、将卒の死に就いて、人生至極の惨事ぞと御悲歎遊ばさぬ筈は有らせらるまい。必ず大御心の内には泣かせ給ふべけれど、然も陛下すらこの戦争を制止し給ふことの難く、巳むを得ず陛下の赤子を戦場に立たしめ給ふとは、何と云ふ悲しきあさましさ今の世のありさまぞや」と解釈して桂月に示す。

 桂月も「その如く解し得られざるにもあらず」と答え、修が晶子詩は「必ずしも危険の分子を含むとも云ひ難かるべし。如何」と問えば、桂月「それ丈けの感情を平時に云ふならば可ならむも、挙国一致の今日、宣戦の詔勅に対して畏れ多し」と答えている。

 また、桂月の「詩歌の骨髄」と同じ「太陽」に載った大塚楠緒子の「お百度詣」に関しての問答は以下。
問 然らば大塚女子の作は如何。
答 此れは大に善し。「只答へずに泣かんのみ」と詞を切りたるが善し。
問 之を反語に解せば如何。
答 此作には反語の意なし(桂月氏日本語を知らず。)
問 「お百度詣咎ありや」と云ひ、又「女心に咎ありや」と云ふ、何れも明白なる反語ならずや。

桂月が晶子詩を容認できない根本的なものは戦争観の違いであるが、それをそのまま答えるわけにいかないので、いろいろな表現をしている。
例えば「内容、形式、共に批難あり」、「怨嗟の声なる点が悪ろし、国家を怨み、君を怨む点が危険の思想なり」、「歌の表示は露骨なり、加ふるに怨み方もあまりに極端なり」、「此詩は全体に云へば女の愚痴なり、ダダを捏ねたる姿なり」などと答え次のような問答もある。

間 貴下の「詩歌の骨髄」は論理の一貫を欠きたるやに想はる。如何。
答 或は然らむ。
問 然らば貴論中に見ゆる「乱臣賊子云々」の語は、甚しき暴言にあらずや。
答 文章上修辞の勢にて彼の如き文字を用ゐたり。今思へば不穏の文字にして、晶子女史には気の毒なり。
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・トロツキー夫妻、ミュンヘンに向かう。パルヴス宅に宿泊。「1月9日以前」の序文を書いて貰う。パルヴスはこのロシア革命で労働者政府が生まれることを予見。後、夫妻はウィーンに移る。
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・ロシア、ゴーリキー逮捕。この年後半に露社会民主労働党に入党。
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・フランス、モロッコのフェズにタイヤンディエを派遣し、仏指導下の大幅な改革要求(~5)。
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・トランスヴァール、ルイス・ボータ将軍とスマッツ、人民党結成。責任ある政府の設置を要求。オレンジ・リバー植民地でも、オレンジ連合党結成。1906.12.6この動きを受けて自治政府誕生。
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・ドイツ、ルール炭鉱労働者ストライキ。20万人以上参加(~2)。
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・ベルギー、労働時間短縮要求の鉱山労働者ストライキ。
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・~2月、ポーランド、ワルシャワ近郊、ウィチの工業地帯で労働者40万人スト。
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・メキシコ、マゴン暗殺未遂事件。マゴンはサンアントニオからさらにセントルイスに逃亡。
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