ゴヤ『悔悟しない瀕死の病人とボルハの聖フランシスコ』
*風俗画あるいは”事件画”
『落馬』(1787)
「われわれの画家(*ゴヤ)は、オスーナ公爵家の離宮アラメーダに泊り込んで、楽しげに仕事にはげんでいる。七枚乃至は八枚の風俗画である。
そのなかに一枚『落馬』というものがある。それは背の高い三本の笠松の下で、馬が一頭横倒しになっていて、貴婦人らしい女性が骨をでも折ったかして、おそらくは気を失っているのを同行した男の一人が介抱していて、もう一人の、これは騾馬に乗った女性が両手を天にさしあげて神か天かに救いを求めている図である。」
『馬車の襲撃』(1787)
「それから、より劇的なものとしては、盗賊どもによる『馬車の襲撃』というものがある。馬車の馭者を含む五人の、貴族の一家と見られるものが四人の盗賊団に襲われて馭者と主人らしい二人がすでに殺されていて、もう一人の男は、地にねじ伏せられていまにも短剣で刺し殺されようとしている。そうして女性が助けを乞うている。」
『巨石の運搬』/『建設』
「それからもう一枚、『巨石の運搬作業』、あるいは『建設』と題された、石造建築の現場を描いたものには、怪我をした職人を梯子に乗せて運んで行く景が、挿話的にさし込まれている。
・・・
おそらく、これらの風俗画は、風俗画と言うよりも、むしろアクチュアリティを描いたもの、と言うことが出来るであろう。・・・ゴヤは事実として”事件画”の画家としての側面も強くもっているのである。」
『村の宗教行列』:風刺画
挿話的、劇的な場面、アクチュアリティ、諷刺、とこれだけ出そろえば、・・・すでにゴヤは、出そろっている
「もう一枚、『村の宗教行列』というものもあるのであるが、聖女像をかついで教会から出て来る群衆は、どういう意味でも敬虔な、信心深い人々として描かれているとは言えないように思われる。むしろ滑稽化されている、と言ってよいであろう。衆愚、ということばを思い起させるほどである。
そろそろと、痛烈な諷刺家としての側面もが、まだ無意識に近いとはいうものの、すでに出て来ているのである。
挿話的、劇的な場面、アクチュアリティ、諷刺、とこれだけ出そろえば、そろそろとその全貌が、ようやくにして前面に出そろって来ているというものであろう。・・・
すでにゴヤは、出そろっている。彼は彼自身に達した、と言えるであろう。」
オスーナ公爵夫人の次なる依頼:
四代目ガンディーア公の出家と聖職者ボルハ聖人(ガンディーア公)の奇蹟
「・・・オスーナ公爵夫人は、彼女の祖先の一人の挿話を、ゴヤに描かせることを思いついた。
・・・オスーナ公爵夫人が思いついてゴヤに描くことを依頼したものは、・・・四代目ガンディーア公の生涯中の出来事について、であった。
この四代目ガンディーア公、フランシスコ・デ・ポルハ(ポルジア)は、・・・実に放蕩無頼な前半生を送ったものであった。カタルーニァの副王をもかねていて、時の女王であったイサベラに横恋慕をした。この女王は、カルロス一世の妻女として神聖ローマ帝国の女王、スペイン女王、ポルトガルの女王などをも兼ねていた・・・。この女王の肖像をティツィアーノが描いているが、”スペイン第一の美女”と呼ばれただけのことはある、美しくかつ気品の高い女性であった。
「この女王が一五三九年に亡くなったとき、皮肉なことに四代目ガンディーア公が、その遺体の移送を王に命ぜられたのである。人間の屍体の腐敗を防止する技術など未発連な当時のことである。たちまち遺体は腐りはじめ、悪いことに、道中、お棺が何かにぶつかってこわれてしまい、悪臭を放つ天下第一の美女の腐った遺体が白日の下に飛び出してしまったのである。
この、如何ともしがたい光景を目前にして、四代目ガンディーア公、フランシスコ・デ・ポルハ(ポルジア)は、忽然として回心をした、というのである。「人生は夢、夢のまた夢」(カルデロン)と悟った、というのである。
それは、ポルジア家の血をひくものとしてはきわめてありそうもない話ではあったが、ともあれそういうことにお話はなっていた。そうして、生に酔うことも深ければ、また生のはかなさを知ることも早いスペイン人気質のことを勘定に入れれば、ありそうな話にも思われるのであった。
こういうわけで、この四代目ガンディーア公は出家をすることになったものである。
この話と、それともう一枚、公が聖職者になってから行った奇蹟の一つをオスーナ公爵夫人はゴヤに描いてくれ、と依頼をしたわけであった。同夫人はガンディーア公爵夫人でもあった。」
転んでもただでは起きぬとはこういう男のことを言うのであろう
「・・・地下から、やっと上昇気流に乗りかかり、竜にでもなった気分でアラメーダの別邸で得意になって貴族たちの優雅な宴遊の図などを描いているゴヤに、「人生は夢の夢」、その儚さを描けなどというのは、まったく的はずれというものであった。
・・・ゴヤは徹頭徹尾、この注文をごまかしてしまった。
彼はお話のほとんど全部を省略してしまって、公の”出家”の図だけを描いたのである。つまり、公がガンディーアにある邸宅を出る、そのときの家族や家の子郎党と別れを惜しんでいる、涙また涙の図を描いた。」
「しかもこの絵の暗い背景のなかに、家族との別離や涙などとは何の関係もなさそうな、ほとんどそっぽを向いていると言ってよいほどの、不気味な表情、あるいは無表情な男が一人立っている。・・・その表情、あるいは無表情の不気味さは、深く印象にのこるものである。
描くにむずかしいお話の方はまるっきり回避してしまい、描くにやさしい離別の図を描くことでごまかしていながら、しかもなお自己のなかに在る、ある不気味なものを家臣の一人のなかに定着させる。転んでもただでは起きぬとはこういう男のことを言うのであろう。」
「そうして転んでもただでは起きぬという在り方は、もう一枚の『悔悟しない瀕死の病人とボルハの聖フランシスコ』という宗教画に、もっと強烈にあらわれている。
この絵は、表題通りに、悔悟しない瀕死の病人・・・に十字架を手にした聖フランシスコが訓戒を垂れていて、それでもなおかつ悔悟をしないので、その十字架からキリストの血が噴き出して病人の顔や胸にふりそそぐ、という図柄である。
この図柄そのものは、フランス人画家ウァッス(Houasse)の描いた別の絵から、そっくりそのまま頂いて来たものである。・・・」
ゴヤは、はじめて、この世界の影の部分に棲息をしている怪異を描いた
「この二枚の絵は、・・・聖人らしさなどというものはどこにも見当らない。身のこなしも硬直していて、人物画としても出来はわるい・・・。
しかもなお、ゴヤはゴヤなのであった。瀕死の病人の枕辺には、三つの怪物が控えている。猫と鼠の合いの子のような怪異と、白い歯をむき出した人間とオランウータンの合いの子のような化物、それにナマズが化けて出たかと思われるようなものの怪の三つが、死にのぞんで、”悔悟しない”この病人を、実に喜びにもえて、舌なめずりをしながら、その死の瞬間を待ちのぞんでいる。
なぜなら”悔悟しない”ままにこの病人が死んでくれるならば、彼は彼らの、悪魔の領分に入って来てくれるきまりになっているからである。
さればこそ、聖人がかざしている十字架から、キリストの血がほとばしり出るという次第である。
この絵でもっともよく出来ているものは、皮肉なことに、もっとも非宗教的、非聖画的な部分であった。そうしてもっとも生き生きと描かれているものは、瀕死の、苦悶に身をよじっている裸の病人であり、その枕頭におしかけて来ている怪物どもなのである。
ゴヤは、はじめて、この世界の影の部分に棲息をしている怪異を描いた。」
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