2014年11月5日水曜日

堀田善衛『ゴヤ』(48)「砂漠と緑」(1) 「かかる都市城砦兼国境、悲劇的辺境としてのマドリードは、一方ではローマを、ヨーロッパを注視し、他方ではアフリカを、砂漠を注視しているのである」(エウヘーニオ・ドールス)            

北の丸公園 2014-11-04
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砂漠と緑
彼に生れの村を思わせるような作は皆無である
「彼に生れの村を思わせるような作は皆無である。父母を描いていないことと同様に、フエンデトードス村はおろか、サラゴーサの町風景をさえ描いていない。その建物の一つ二つを利用したことはあったが。
彼が描く一切のものは、時間的にも空間的にも、いわばマドリード以後、のものである。四〇歳代以後の、銀緑色の背景などもマドリード以後のものである。フエンデトードス村には、オリーヴの木すらもありはしない。」

それではマドリードとは何であったか
「”マドリード以後” - とは言うものの、それではマドリードとは何であったか。」

エウヘーニオ・ドールスの言うマドリード
「もし一方でこの都市が、いつもそうであったように、ローマのようなものであるとすれば、それはまた他方では砂漠のようなものでもある。ヨーロッパはここで、ある意味ではアフリカとの国境を見出すのである。かかる都市城砦兼国境、悲劇的辺境としてのマドリードは、一方ではローマを、ヨーロッパを注視し、他方ではアフリカを、砂漠を注視しているのである。この二重の暗喩は、従って二重の顔貌を描き出し、またかかる重層的な顔貌は、避けがたく風景構造そのもののなかに表現される。東と南に向いた顔は、眉をひそめていて、不可知なしかめ面をしている。北と西に向けられた顔は、微笑をたたえているのである。もっともこの微笑も強いられたものであり、貧弱で、ひどく悲しげなものなのだが、とにかく微笑は微笑である。遥かなるフランスとポルトガルが、この微笑を受けいれている、と言う向きもあるであろう。かかる外面的構造のなかに、何はともあれいくらかの緑地、樹木、勾配、多少の流水が注入されるのである。相対的な優しさ、繊細さ、灰色、真珠母色、ぼかしの色調が入って来る。その一方で、他方では、すべては黄褐色であり、一切は渇き切っているのである。これが、まず大ざっぱなあり様である。マドリードがアラゴンに向けている顔は、黄金のそれであり、ポルトガルに向けては銀の顔を提供しているのである。」

「黄金から銀へ、太陽から霧へ、曠野(ステツプ)から緑蔭へ、土塊からサロンへ、牧羊からリトグラフィまで、異端審問から信教の自由(トレランス)まで、イベリア半島からヨーロッパへ、フエンデトードス村からボルドーへ、”セピーリアの赤土”の使用から灰色の音階へ ー 史前から文化へ ー これらのものがゴヤの、芸術におけると同様にその人生における進化発展をおのずから形成して行くのである。」

マドリード:
すべてにおいて極端な対比を見せるこの国のほぼ中心に位置している象徴的なもの
「すこぶるバロック的な言い方ではあるものの、マドリードという都市が、スペインの光と影がそうであるように、すべてにおいて極端な対比を見せるこの国の、その地理的にもほぼ中心に位置することを、地理的空間と時間のなかにあって、正当に象徴的なものであることをドールス氏は語っているのである。」

マドリードとは何かを考えるとき、もう一方の「悲劇的”辺境”としての」旧ペトログラード=レニングラード、あるいはモスクワのことを思い浮べる
「そうして私自身は、ドールス氏のこの文章を訳しながら、もう一方の「悲劇的”辺境”としての」旧ペトログラード=レニングラード、あるいはモスクワのことを思い浮べる。「アフリカとの国境」を「アジアとの・・・」と入れ替え、「ローマを、ヨーロッパを注視し、他方ではアフリカを、砂漠を」というくだりを「パリを、ヨーロッパを注視し、他方ではアジアを、中国を・・・」とすれば、それはそっくりそのままロシアにあてはまるものである。
ヨーロッパを中にはさんでの、西と東の辺境、暑熱と寒気、陽光と白夜、絶対王制から革命を経ての共産主義、中世的要素の濃い王制から二度の内戦を経ての独裁制。」

彼及び彼らは、ひたすらにヨーロッパを、と注視をするのである
「・・・二つの顔貌をもつマドリードにあって、ゴヤはいったいどちらの顔と主としてつきあおうとするか。
・・・
彼及び彼らは、一八世紀、一九世紀を通じ、ヨーロッパの西と東の辺境のすべての知識人、芸術家がそうであったように、ひたすらにヨーロッパを、と注視をするのである。・・・
かくて西と東からの、双方の視線は、パリで火花を発して衝突する。
もし一八世紀末に、あるいは一九世紀のいつのときかに、パリでロシアの知識人とスペインの彼らとが話し合う機会をもったとすれば、彼らは、双方があたかも東と西に別れて生れた双生児ででもあるかのように、その願望と彼らの双方が拒否するものの相似性におどろいたことであろう。ツルゲーネフがドン・キホーテ再発見者中の第一人者であることは、何を物語っているか。」

スペイン、あるいはスペイン人諸君にとって英国とは何であったか
「・・・当時のスペイン、あるいはスペイン人諸君にとって英国とは何であったかについて、ほんの少し触れておきたい。
英国は、現在もそうであるように、当時もスペインの産業に大きな支配力をもっていた。王立織物工場が英国人技師によって管理されていたことが、一つの象徴である。ゴヤの馬車も英国製である。産業革命をすでに経過してしまっていた英国は、宰相ウィリアム・ピットのもとにあって大きな飛躍期を迎えていた。」

「スペインは、一五八八年にはその無敵艦隊を英国海軍によって潰滅させられて以来、一七〇四年にはジブラルタルを奪われるなど、英国には痛い目に遭わされつづけて来たのである。そうして近頃ではラテン・アメリカの植民地との連絡も頻々としておびやかされていた。やがてはトラファルガール海戦が来る・・・。
それなのに、英国についての情報を、スペインはほとんどもっていなかった。フランス語やイタリア語を喋る連中は、上から下までゴマンといたのに、英語を話せる人がマドリードには十指をもって数えられるほどしかいなかった。・・・
そういう次第で、当時のスペイン人にとって英国、英国人というものは、第一に海賊であり、第二に産業気狂い、経済アニマル、第三にスパイ、というふうに見えていたものであった。」
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