北の丸公園 2015-02-06
1787年(天明7年)この年
・本居宣長『秘本玉くしげ』完成。政治意見書。徳川治貞(紀州)に贈られる。
(例)宣長の一揆観を示す一節(段落を付加する)
「百姓町人、大勢徒党して、強訴濫放する事は、昔は治平の世には、おさおさ承り及ばぬ事也。近世に成りても、先年はいと稀なる事なりしに、近年は所々にこれ有て、めずらしからぬ事になれり。
これ武士にあづからず、畢竟百姓町人の事なれば、何程の事にもあらず。
小事なるには、似たれども、小事にあらず、甚大切の事也。いづれも困窮に迫りて、せんかたなきより起るとはいへ共、詮ずる所、上を恐れざるより起れり。下民の上を恐れざるは、乱の本にて、甚容易ならざる事にて、先づ第一、その領主の耻辱、是に過らるはなし。されば、仮令聊の事にもせよ、此筋あらば、其のおこる所の本を、委細に能々吟味して、是非を糺し、下の非あらば、其の張本の僕を、重く刑し給ふべきは、勿論の事、又上の非あらば、其の非を行へる役人を、おもく罰し給ふべき也。
抑々此事の起るを考るに、いづれ下の非はなくして、皆上の非なるより起れり。今の世、百姓町人の心もあしく成りたりとはいへども、能々堪へがたきに至らざれば此事はおこる物にあらず。・・・然るに近年此事の所々に多きは、他国は例を聞て、いよいよ百姓の心も動き、又役人の取りはからひもいよいよ非なることも多く、困窮も甚だしきが故に、一致しやすきなるべし。・・・近年たやすく一致し、固まりて此事の起りやすきは、畢竟これ人為にはあらず、上たる人、深く遠慮をめぐらさるべき也。然りとて、いか程おこらぬようのかねての防ぎ、工夫をなすとも、末をふせぐ計にては止がたかるべし。兎角その因て起る本を直さずばあるべからず。
基本を直すといふは、非理の計ひをやめて、民をいたはる是也。仮令いか程困窮はしても、上の計ひだによろしければ、この事は起るものにあらず」。
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・洒落本
この年刊行の山東京伝の『通言総籬(つうげんそうまがき)』。
京伝は、江戸深川の質屋に生まれた作家。この作品は、半可通の主人公艶二郎が吉原で遊女にあしらわれるようすを描いている。この他、深川、品川、内藤新宿、岡場所などを描いた作品も刊行された。
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・吉田藩、式部事件。
宮野下村(現三間町)の三嶋神社神主土居式部と宮野下町の樽屋與兵衛、困窮農民救済のため強訴を企てるが、密告により投獄、獄死。吉田藩百姓一揆(武左衛門一揆)に繋がる。
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・譜代家持・水呑の百姓化の進行。
鯖江藩領今立郡東俣村は百姓21軒、水呑25軒、譜代家持31軒、道場2軒で村高215石余のほか近村に越石数十石を持っているが、譜代家持の3軒が越石の高を持ち、水呑のうち10軒が高を持つ。
譜代家持は越石3石4斗9升4合、水呑は高10斗が最も多い持高であるが、他方で6升とか9升9合の持高の「百姓」がいる(持高9升9合の百姓は譜代家持1軒と地借1軒を抱えている。
譜代家持・水呑の百姓化が進んでいる状況が窺える。
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・酒造制限令を契機とする口丹波騒動、相模士平治騒動。
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・天明7年(1787)頃の下駄屋甚兵衛の上書に、
「二十年来諸色(物価)高値に相成候儀は、弐朱銀出候てより、西国方金相場、段々下値に相成候、大坂表にて、其己前金壱両に付、六拾匁より七拾二、三匁迄高下御座候処、唯今にては五拾匁五拾五、六匁に相成候」
とある。
金相場は2割以上の下落。物価はそれに反比例して上がる。
田沼は、幕府の財政窮乏を救う一手段として、貨幣をつぎつぎに新鋳していった。しかもそれが、オランダから輸入された銀によっておこなわれた。
この頃、ヨーロッパにおいて銀相場がいちじるしく下落していた。南アメリカにおけるポトシ銀山などの開発が、大量の銀をヨーロッパに送り、金・銀の比価をいちじるしく開かせてていた。
日本だけが鎖国のなかで古い金・銀の比価を維持していた。田沼はそこに着眼した。
(経緯)
明和9年(1772)、幕府は金の代用銀貨である南鐐(なんりよう)二朱銀を鋳造。
近世の貨幣流通市場が、関東の金遣い、関西の銀遣いと二元的な構造であったのに対し、素材が銀貨でありながら金貨の名目を持つ点において、関東・関西のいずれにも通用するという画期的なものであり、同時に金貨が不足していた江戸市場への対応策でもあった。
この貨幣8個で金1両にあたると決められた。この銀貨は、オランダから輸入された銀で新鋳したものであった。これは良質の銀貨であったが、それが流通し始めると、安定していた金相場が変動して、物価の騰貴を促す結果となった。
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・ゲーテ(38)、韻文劇「タウリスのイフィゲーニエ」完成。
ティシュパインとともにナポリヘ。ヴェスヴィオ登山、ポンペイを見、シシリー島へ。植物、鉱物の研究及び採集。戯曲「エグモント」完成。
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・イギリスで初めての鉄製の船が進水。
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・大黒屋光太夫、シベリア本土カムチャッカ半島に渡る。大飢饉に会い3名病死。
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1月
・島津重豪(43)、隠居願いを許される。長男斉宣(15)、後継第16代藩主となる。政務介助、実権は後見人に。
天明6年9月、重豪娘茂姫が嫁いだ一橋豊千代が将軍家茂となり、その遠慮として。
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・儒者大塚孝綽(たかやす)『救時策』
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・士風の廃頽(辻善之助『田沼時代』):段落を付加する
「天明七(一七八七〕年の正月十五日に、水上美濃守という番頭が出仕したところが、その部屋において小堀河内守の言うことに、明後十七日同役大久保大和守の下屋敷で、芸者寄合を致したいから貴殿亭主を致すようにという。度々そういう事があるので、水上美濃守少々困る、殊に家が余り有福でないので、誠に迷惑であるけれども、自分の先役の方から言われるので仕方なく、承知の旨を挨拶して退出した。
するとその晩に直ぐ水上の処へ何とも言わぬのに、神田佐柄木町の桃川山藤という仕出料理家から、小堀様からの御差図で献立を持って来たから、御納戸役の人に逢いたいという。そこでその納戸役の者が応対して最早夜も遅くなった事であるから明朝来いと言って献立を留めて置いた。そうすると翌十六日の朝五つ時に水上の処へ桃川の手代が来て、返事を伺いに参った。いよいよ翌十七日に宴会を開くというので、献立の通り十分念を入れて致すように申付けた。最も自分の家では手狭であるので、大久保大和守の下屋敷において、寄合のつもりであるから、屋敷の処付が知れ次第申遣わすということで、手付金二両渡して帰してやった。そこで大久保の処へ下屋敷を拝借したいという事を申してやったところが、大久保においては、明日は故障があるというので断わった。よって小堀の処へ如何いたしたものであろうかと問合わしたところが、いずれ後程挨拶を致すという事であった。
まもなく登城をして、城中において同僚の能勢筑前に逢うた。そうして能勢に向って、貴殿はしばしば亭主役をされた経験もあることであるから、周旋相頼みたい、がもし出来るならばこの度は何とか延引いたしたいと願うたところが、そこへ小堀から能勢へ手紙を寄越して、芸者寄合の儀は大久保の下屋敷で断りをしたそうであるから、明日は延期いたすべきものであろうか、水上が登城したならは篤と相談を致すようにという事を言って来た。そこで、これ幸いと水上はそういう事であるならば、この節私の懐中の都合も甚だ宜しくないから、成る可くは延期を願って、三月の末にでもなったら催したいという事を申したところが、能勢と今一人同僚の内藤安芸守というのが、たって明日水上の宅において催すようにというので、それならば仕方がないから、明日宅において致しましょうという事に極まった。そこで桃川へいよいよ十七日にやるからと申してやった。
その日になって桃川から勝手の働者七、八人も連れて参っているというと、そこへ芸者五人、宰領乗物四人駕籠(かご)で、駕舁(かごかき)とも都合十九人出て来て、今日能勢様の御家来の御差図でございますという事で来た。それで駕寵の者も下宿を申付けてそれにも食物を与え、それから駕籠代一挺に七百文宛(ずつ)いただきたい、芸者も時刻が四ツを過ぎたならば一人について座敷料として一分二朱ずつ申受けたいという。それも宜しい、いずれも費用は構わぬから充分御客を大切に扱うようにと申付けた。予定の御客は小堀、大久保、酒井加賀守、能勢、三枝土佐守、小笠原播磨、内藤安芸守という七人、亭主を入れて八人の連中になる。
しかるに、その晩に青山辺に火事があって、それで三番町の水上の屋敷も風筋が余り宜しくないので、初は道具も片付けて家内の者は立退く支度をしようかとも思うておったところが、少し火事が鎮まったので見合わしておった。その内に御客が一人来、二人来しているというと、小堀から使があって、今日は出火でもあり風筋も宜しからぬようであるから御延期なされましょうか、外の方々には未だ御見えに相成りますまいかと聞合せに来た。そこで返事に先刻から皆様御出でになって御待ち申しておりますから何とぞ早く御出で下さるようという挨拶をいたしたところが六つ半頃になったが未だ小堀が来ない。追々迎を出しているというと、程なく小堀は火事羽織を被てやって来て、皆で酒宴を始めた。時に大久保は餅菓子を重箱に入れて持って来ておった。
その薬子を三枝が挟んで亭主の水上へ出した、時に水上は酒を喫(た)べておったので、後程頂きますからと言ったところが、それが、大久保の癪にさわった。そのわけはその頃浅草の馬道に住んでおって生花の指南をしておった潮田某という者が粟饅頭に毒薬を入れて贈ったという事があってこれが評判になっておった。そこで大久保は今水上が後程頂きますと言ったのを聞いて、栗饅頭は持って来ないぞ、酒の中でも是非喰べろと言ったので、亭主はそれを已むなく喰べた。
それから大久保は段々怒り出してその薬子を摘み出して芸者へ投付けるやら色々悪口雑言をした。能勢も三枝もこれを機として、色々と罵詈(ばり)をして小堀、内藤もこれに加わって、遂に大久保、能勢、三枝、内藤、四人は、そこの膳部だの家の道具などを迫々打毀わす。それからその時御馳走のために絵師を招んで置いたところが、その絵師が将軍から拝領の絵具皿を飾っていたのを取出して打毀わす。水鉢だの猪口の類を雪隠へ投込む。またその日、青山の火事の風筋の宜くないので万一のために具足などを床脇に出して置いたのを、取出そうとする様子が見えたので、水上はそれは御朱印を入れておりますからと言って断わりをしたので御朱印なんかは要らぬと言ってそれはそのままにした。それから床間に置いてあった小鳥を庭へ逃がしてやったり庭に在った水仙の鉢を打毀わしたり、その他猪口、盃等を皆投出して打毀わし、先代が拝領しておった手炉(てあぶり)を火のまま庭へ投げ飛石で悉く打毀わした。大久保は一体ここの酒は醤油がはいっている、こんな幸い酒を飲んだ事はないと言って自分の家へ酒を取りにやる、玻瓈(はり)の洋盃が一つ跡形がなくなったりした。大久保は遂に飯椀の中へ大便をする、三枝は茶碗の中に小便をする、そしてその大便を三枝、小笠原らが箸に挟んでそこらに投出すやら亭主の脇差へ吸物の味噌汁がかかるやら、酒であろうが、飯であろうが汁であろうが、構わずそこら中蒔散らし、火鉢の火を取出して畳を焦すやら、能勢と三枝は膳椀の上を構わず、縦横に踏散らす、床の間の軸物を外すして揉散らす。
かような大騒をして大久保は九ツ半頃に帰った。小堀と能勢と三枝はこれから吉原へ行こうと言出して、水上の用人を呼出して駕寵を七挺申付けて亭主にも来いと言ったけれども、明日は他へ対客に出るからと言って断わった。そうすると能勢と三枝は色々悪口雑言を言って、遂に吉原へ行くことはそのまま止めになってしまった。此の如く実に言語道断な乱暴を働いて、料理屋の手代の如きは、殆ど胆を消したという。
そこで天明七〔一七八七〕年の二月二十四日、幕府において左の処分言渡があった。小堀河内守、大久保大和守はその職を免ぜられて差控を仰付けられ、酒井、水上、内藤、能勢、三枝、小笠原これだけはただ差控を仰付けられた。この時小堀は三千石、大久保は六千石、酒井は七千石、能勢は四千八百石、三枝は七千五百石、小笠原は四千五百石、内藤は五千七百石、水上は三千石で、皆旗下の錚々たる者であった。それが此の如き有様であったのである。
水上が此の如く酷い乱暴をせられたのは、故あることであって前にも申した通りこの頃古参役人の弊風が激しかったので、新参は皆古参について先例を問合せるのに、多く賄賂を以てするという風であった。しかるに、水上は未だ新役であったので、一向その弊風に染みていなかった。
天明七年将軍家治薨じて家斉が職を継いだ。例によって諸国へ巡検使を遣わすについて、何組からどういう人を選び出すという交渉があった。その相談の時に、誰はかくかくの音信物を持って来た、誰は何の贈物を持って来たから彼にしてやろうじゃないかというような相談を、人前も憚らずしておったのを水上が聞いておって、この度は御用大切な事である、私の組合においては賄賂など持って来た者はその選に入れないと激論をした。一同の者は大に憤ってしからば貴殿には一存で以てその人を選まれるが宜かろうと言って、その席は済んだけれども、同僚はこれを含んで、新役でありながら生意気にも古参に向ってあのような申分はけしからぬ奴である。強(したた)かな目に遭わしてやろうと内々申合せて、遂に芸者寄合に托して、乱暴を働いたのである。それとも知らず水上は真面目な酒宴のように思ってやったところが、此の如く狼籍されたのである。一説に大久保が飯椀の中に放出したという大便は、実は犬の糞をどこからか持って参って、そう観せたのだともいう。いやはや鼻持もならぬ話である。」
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