カワヅザクラ 2015-02-20 北の丸公園
*昭和18年(1943)
8月12日
・米軍爆撃機、千島爆撃
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8月12日
・ドイツ軍シチリアより撤退
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8月12日
・立川文明堂編「軍人勅語・勅諭集」、粗製・誤植多しとして発禁
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8月13日
・米380機、オーストラリアよりバリクババン油田爆撃
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8月13日
・第1次ケベック会談。
ルーズベルト大統領・チャーチル首相、~24日。南イタリア本土作戦決定、北フランス上陸作戦、1944年5月1日実施で合意。
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8月14日
・~24日、第4回米英参謀会議、ケベック。中部太平洋反攻確認、ラバウル攻略中止。
統合参謀本部は、「一九四三~四四年の太平洋および極東作戦」計画で、ラバウル攻略は「物的、人的資源の耐えがたい消耗を招く」と結論。
統合参謀本部の計画案には、キング作戦部長の日本本土進攻計画があったが、時期尚早と判断され、まずマーシャル、カロリン諸島までの作戦計画を確定。
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8月14日
・ローマ、無防備都市宣言
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8月15日
・米2万9,126、加5,300、キスカ島無血上陸
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8月15日
・ニュージーランド第3師団(H・バロークロ少将)、コロンバンガラ島を飛び越え、ベララベラ島上陸。
島には8月初、日本軍先遣隊約280が配備されていたが、第8方面軍はブーゲンビルに残してある見上大隊2個中隊440を急派。この時点で、軍人・軍属は計約816。先遣隊鶴屋好夫大尉指揮下に入る。戦闘は、公刊戦史も「軽戦を交えた」と書く程度で、日本軍はジャングルに逃げ込み、制空・制海権ともに奪われ、補給は思うにまかせず、第8方面軍・第8艦隊ともに鶴屋部隊玉砕を覚悟。
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8月15日
・連合艦隊第三段作戦(せ号作戦)発令
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8月15日
・ニューギニア、ウエワク基地の日本陸軍航空隊、ラエ、サラモアを攻撃。~16日。
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8月16日
・「八月九日に東京出発。八月十五日に軽井沢に帰る。逓信省の依頼により福島、仙台、米沢、山形および新局長連の訓練のために巡講したののだ。
福島にてはドイツとイタリーの事情が楽観すべからざるを ー しかし多少とも色をつけて話す。それでも初めてそんな話しを聞いた由。
陸前落合というところの農学校で新入局長等のための練成あり。そこで質問を許す。「ガッカリしましたよ」と欧州の情勢についていったものあり。彼らは極端に楽観していたものである。
また米沢局の質問では「大東亜戦争は、いかにして結着がつくか」といった。僕は頑張ることにより、「米国をして厭戦気分を出きしめることだ」と答え、かつ、米国の弱点を指摘した。大束亜戦の終末について疑問を持っている者があることが分る。
また米沢局ではロンドン会議で日本が何故に五五三の比率を受諾したかを問う。日本屈辱の宣伝がきいていることが明らかだ。
ローマ市非武装宣言をした。イタリーはすでに全国を戦闘区と指令したが、それらのことは米英のイタリー本土への上陸が切迫したのを示すものであろう。同時に新政府が焦土的政策をとらぬことを示すものであろう。」(清沢『暗黒日記』)
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8月17日
・第1次ベララベラ海戦。ベララベラ島沖で海戦。両軍損害軽微
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8月17日
・ニューギニア、ウエワク基地、重爆撃機を中心とするアメリカ軍に攻撃され壊滅。完全に制空権喪失。
17日早朝、ウエワク、ブーツ飛行場の第4航空軍(寺本熊市中将)指揮第6飛行師団(板花義一中将)・第7飛行師団(須藤栄之助中将)は、空襲を受け、地上で100機以上を撃破される。補充が行なわれるが、両飛行集団の実動機数は、その後も70機を越えない。
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8月17日
・上野動物園、動物処分。~9月23日迄
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8月17日
「今回の戦争の後に、予は日本に資本主義が興ると信ず。総てを消費しつくしたる後なれば、急速に物資を増加する必要あり、しかも国家がこれをなすのには資金なく、また官僚を以ては、その事の不可能なことは試験ずみである。そこで個人をして興業をなきしむるべく努力するであろう。明治四年十二月に私財を以て疏水、修路をなすものには路銭を徴収するを許した例あり。
各大学、専門学校生徒は、休暇奉還と称して、労苦に服す。そのため犠牲者続出。左はその一例なり。科学的ならざる「練成」を知るに足る。
病軀、炎天下の作業 一高生遂に仆る
貫く ”勤労即戦場” の精神
一高健児が陸軍○○建設のため都下南多摩へ出動したのは七月十五日、学期試験を終って翌々日のことだった。
灼けつくような炎天下、木蔭一つない凹凸の広野である。シャベルを揮(ふる)うもの、畚(もつこ)をかつぐもの、トロを押すもの、試験の疲労癒え切らぬ若き学徒にはかなり激しい作業であった、なによりも炎天が身にしみた。
三日日の十八日小茂田君が川崎市京町三にある両親のもとに寄せた手紙の一節にも、
「太陽の強烈な光りと熱のため私の手は赤く脹(ふく)れ上り苦痛を極めています」
とある。血豆と火ぶくれである。思わず弱音を吐くものがあると誰からとなく、
「校長の言葉を忘れたか、日本のためだ、向陵健児の名誉のためだ……」
とはげましあって、ついに烈しい三日間を闘い抜き、やがて陸軍○○が出来る建設地の整地作業に凱歌は高らかにあがった。その後のことである。これまでは全員落伍者もなくこんどは亀戸○○廠へ出動した。幾分か容易な作業で十九日は無事に過ぎたが、二十日午後沛然(はいぜん)たる豪雨が襲来した。全身ずぶ濡れになりながら、無事この日の作業を終了して帰寮したと同時に腹痛を訴える
ものが続出した。四十名、五十名……小茂田君もこの一人であった。その夜は猛烈な下痢に加うるに吐瀉三回に及んだ。そして二十二日寮の玄米飯を極少量摂っただけで○○廠にかけつけた。かくて二十三日で作業はひとまず終了、二十四日早朝喜び勇んで川崎市の実家へ帰省した。 「すこし体をこわしでいたのですが家へ帰ったらすっかり癒ってしまいましたよ」
と朗かに笑いながら、その日は父邦次(五三)さん、母いま(四七)さん、弟久夫(一六)さん=川崎中学三年生、妹里子(一四)さん=川崎高女二年生=らと久しぶりの団欒を楽しんだ。
「お父さん、この待避壕はすこし狭すぎやしませんか」
とシャベルも握った。その晩風呂から出ると、
「お母さんすこし寒気がしますから」
と早目に床へ入ったが、まだ病いとは誰も気づかない。翌二十九〔五〕日早朝「熱がある」というので計ってみると、三十九度二分! 闘い抜き耐え抜いて見事与えられた資任を果し尽した若きいのちはかくして病魔に仆れた。医者は「腸チフスのおそれがある」という診断、しかしこれには小茂田君が「断じてそんなはずはない、寮の食事以外、コーヒー一杯呑んだ覚えはない」
と口惜しがったという。やがて運び込まれた新川病院では過労による心臓衰弱に肺炎併発と診断され、輸血に酸素吸入に万全の手当がつくされた。一日、二日……意識もハッキリと小康が続いた。お母さんを描相手に若き学徒としての希望と矜(ほこ)りを語った。勤労作業についてはただ一言、
「あの場合、僕としてはああしなければ気が済まなかったのです」
と語っていた。四日にはお父さんに向い、
「お父さんたちを楽にしてあげるには工科の方がよかったですね」
といった。邦次さんが
「それはそうじゃない、お国はいま科学者を求めている。お国のためになる道なら家のことなど考えるな」
と慰める言葉に心からニッコリ微笑んだのであった。五日朝はついにきた。医師が全身くまなく診療しフト首をかしげた瞬間を見逃さなかった。
「お父さんお母さん僕は不孝者になりました。でも思い残すことはありません、僕はやりました……」
十九歳とは思えぬ信念と諦観に貫かれた短いこの言葉を最後として眠るが如く遡ったのであった。
〝悔ゆる事なし〞 ああこの子にこの父!
十四日午後川崎市京町三小茂田君の実家を訪ねると「こういう時だから」という厳父邦次氏の深いおもんばかりから、さる七日軽く内輪に葬儀も済まされていた。写真を飾ったささやかな斎壇境の前で邦次氏は言葉すくなに語る。
「第一線の兵隊さんを想え、勤労作業だから学生だからといって甘えた気持は絶対いかぬといってありましたから、その言葉をそのままやってくれたと思えば、親として何んの悔ゆるところもありません。しかし親心としてせめて一歩でも、一歩でいいから前線の土を踏ませてやりたかったと思います。こういう時だからと考えて学校へも知らせぬうちに葬ってしまいましたが、この帽子をかぶりたいばっかりに苦労をしたかと考えながら、一高の帽子を棺の中へ入れてやりました」
これぞ一高魂 生徒主事談
目黒区駒場向陵丘の一高ではすでに勤労作業もt段落して生徒も大部分帰省し、夏草生い茂る校庭で告知板に十四日朝貼り出されたばかりの黒枠の訃報がただ二枚「謹悼畏友小茂田吉也君之御逝去 理科二年六組」「同番宿寮委員」 - 数名の生徒がそれを囲んで拳をシッカと固めていた。留守番の生徒主事津田栄氏の談。
「実は僕も昨日お父さんからの手紙で知ったばかりで驚いているところです。小茂田君は実によくやってくれました。二十日は寮から相当な数の腹痛が出たため病者はみな休ませたのですが、小茂田君は自ら進んで出てくれたので、その責任感の旺盛なことには一同感激したことでした。小茂田君は川崎中学四年から入学したほどで実に優秀な生徒でした。御両親の心情を思うと御同情に堪えませんが、同君の行為が全国学徒に与える感動には測り知れぬものがあると思います。すくなくとも一高の生徒に関する限りこの事実は永久に生きるでしょう。学校として校葬の札をおくるかどうか安倍校長とも御相談して致したいと思います」。」(清沢『暗黒日記』)
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8月17日
・連合軍、メッシナ占領
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8月17日
・シュヴァインフルト、レーゲンスブルク空襲でアメリカ第8空軍の爆撃機大損害。60機のB−17喪失
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8月17日
・連合軍、シチリア占領。
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8月17日
・英「ヒドラ(九頭の蛇)」作戦。
爆撃機600機によるペーネミュンデのロケット飛行爆弾製造センター急襲作戦。
18日、イギリス爆撃軍団、ドイツV兵器実験場ペーネミュンデ夜間空襲。
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8月18日
・松下電器が松下航空工業へ改称
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8月18日
・ポルトガル・イギリス、秘密協定締結。イギリスのアソーレス基地の使用を認める。
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