2015年2月12日木曜日

堀田善衛『ゴヤ』(59)「宮廷画家・ゴヤ」(6) : 「一七八九年四月、「王はドン・フランシスコ・ゴヤを、宮廷画家に任命遊ばされた、この任務にともなうすべての権限を享受するものとする」との通告を受けた。登りつめて、ここまで来るのに二〇年かかった。」

北の丸公園 2015-02-12
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1789年4月、王はドン・フランシスコ・ゴヤを、宮廷画家に任命遊ばされた
 「一七八九年四月、「王はドン・フランシスコ・ゴヤを、宮廷画家に任命遊ばされた、この任務にともなうすべての権限を享受するものとする」との通告を受けた。
登りつめて、ここまで来るのに二〇年かかった。・・・
爾後彼は目下の者からは、 Su Excelencia 閣下、と敬称つきで呼ばれることになる。・・・
宮廷画家の称号は、爾後彼にとって、彼の仕事の評価の賜物としてよりも、むしろ政治的パスポート、安全通行証のような役割を発揮するであろう。それもまたゴヤにとっては意外なことであった。彼がこの称号に執着したのは、年金によるブルジョア的安定と、世間的名声のためであったのである。」

1790年、宮廷画家ゴヤは王と王妃の肖像を描く。王はこの絵を大変気に入った
 「一七九〇年、新宮廷画家は、王の実弟であるナポリ王フェルナンド四世のカボディモンテ宮殿に飾るための、王と王妃の肖像を描く。この時からざっと三〇年後に、彼らはこの同じナポリの宮殿で、かつてのスペイン王としての自分自身の肖像を眺めながら、何の称号もなく、王族らしき者として死んで行くのである。
この絵が王には大変気に入った。

王が大変気に入ってくれるという仕合せを僕はえたよ。王はロで賞めてくれたばかりではなく、僕の両肩に手を置き、半分抱き抱えるようにして、僕にアラゴン人とサラゴーサの悪口をいったよ。

画中の三九歳のマリア・ルイーサ王妃は、五〇歳から上にも見える。荒淫の涯である。」

錦をまとってのお国入り
 「妻のホセーファが病気になった。医師は夏の二カ月をバレンシアの陽光の下で過すようにと命じた。・・・
アンダルシーアへ転地をしてもゴヤは妻といっしょにじっとしていることが出来ない。近郊のアルプフェラの沼沢地へ狩りに行く。バレンシアの仲間が、彼の出世を祝ってひらいてくれた一大野外パーティーではしゃぐ。
帰りにはサラゴーサヘ寄る。今度こそは正真正銘の、錦をまとってのお国入りである。・・・」

 「マドリードに帰って、彼はもう気に入った仕事しかしない。もうタピスリー用のカルトンなどは用済み、ということになる。十戒のうちの傲慢の罪を彼は犯している。
サンタ・パルバラ工場は怒った。怒って年俸を払ってくれる胴元の大蔵省に抗議し、大蔵省が調査に乗り出すことになった。
ここで再び - いや、何度目であろう - 義兄のフランシスコ・バイユーが調停に乗り出して来てくれた。・・・
しかし事態は重大である。
やっと気がついて彼は義兄に詫びを入れた。・・・」

1791年6月3日、ゴヤ(44歳)が義兄バイユーに宛てて詫び状を書く
 「・・・ゴヤはすでに四四歳である。
けれども、有頂天になってタピスリーのカルトン仕事を蹴飛ばしている時を〝躁〞の状態とすれば、この躁と〝鬱″の状態の交替の時期が、従来との比較において短くなって来ていることに気付かざるをえないのである。何かが彼の身に迫って来ている。・・・
有頂天の躁状態から、一気に鬱状態に墜落して行く。

真実を愛する者として申しまして、私どもの関係がごたごたしますことを私はひどく悔いています。そして私は二六時中神に、こうした事件のあります毎に、いつも私をとりこにしてしまう傲慢の心を神が私から追い払って下さるよう祈っているのです。もし私が限度というものを守ることが出来るようになり、また逆上したりもしないようになれましたら、私の振舞い方は、生涯の残りの日々のために害の少いものとなるでしょうが。

・・・この手紙は一七九一年の六月三日付でフランシスコ・バイユーに送られたものである。
これは詫び状である。」

ゴヤのこのへり下り方、頭の下げ方の深さ加減は、只事ではないと感じさせるものである
 「さらに彼は、バイユーが手をさしのべて、怒り狂ったサンタ・パルバラ工場当局との和解のために「力を尽してくれた」ことを徳として、バイユーに大きなカルトンを一枚贈呈している。
今やゴヤは、バイユーと同じ資格の宮廷画家であり、後者はアカデミイの絵画部長であり、ゴヤは次長である。とすれば、このへり下り方、頭の下げ方の深さ加減は、只事ではないと感じさせるものである。」

カルトン『藁人形遊び』
 「彼は再びカルトンの仕事に戻るのであるが、もう面倒な主題などはまっぴら御免という趣きが仕事の仕方からして明らかに読みとれる。
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構図もなにも以前の作品よりは劣り、描き方もぞんざいである。竹馬あそびの男たちのからだも、まるで動きを欠いていて硬直している・・・。」

 「わずかに見られるものは、『藁人形遊び』である。・・・下絵が二枚あるのであるが、それは信じられないほどに無器用で、藁人形を毛布で空中にはね上げている、庶民風俗をした貴族の女たちも軽みをまったく欠いている。人形のようにただ突っ立っている。
それに、四人いる女たちのうち、笑っているのはただ一人で、それも大口あいて莫迦笑いを笑っている。それでいて、四人ともが、楽しんでいるような風はまったくない。仕方がないから、あるいはすることがないから、仕様ことなしにこんなことでもしている、という風である。
・・・ゴヤは、自分が藁人形のようにもてあそばれている、とでも思ったものであったろうか。後退につぐ後退である。
 この『藁人形』は、エル・エスコリアール離宮での、王の書斎の壁を飾ることになっていた。それにしても、王は実に妙なものを書斎にかけたものである。カルロス四世は、まことにこの絵の藁人形そっくりそのままに、来るべき未来のある日に、自身の皇太子と、ナポレオン兄弟と、もう一人の大口あいて笑っている”運命”の四人によって、スペインの王位そのものから放り出されてしまうであろう。」

『藁人』の四人の女は生きてはいない
 「『藁人形』での、四人の女は生きてはいない。人形でさえもないであろう。
そうして歴史は、貴族たちが百姓女に身をやつしての、このような〝優雅な〞遊びや集い(fetegalante)がここで死んだことを、この当時においてわれわれに告げているのである。
それはもう過去のものになってしまった。
・・・
それはもう過去なのだ。
硬直した過去である。
空中にはね上げられた藁人形同様に、四人の女たちもまた、いままさに過ぎ去りつつある現在としての過去からの亡霊である。
ゴヤがぞんざいな手法で、なおざりに描いた”優雅なる集い”は、彼の知らぬところですでに臨終に達していたものである。死後硬直が、もうそこに来ている。
これらのカルトンで、タピスリーの仕事は終った。」

一時代のおわり
 「これもまた紗とレースと、今日でならばアフロ・スタイルと呼ばれるかもしれぬ大きなカツラと、そのカツラを飾る紗と絹とビロードの化物である。画家、従って観る人にきわめて近接して椅子にかけ、膝に針台を置いて刺繍をしている、前記の美術史家で財政家セアン・ベルムーデスの夫人である。カツラの後方の、見えない部分にもし生花が飾られてあるとすれば、小さな、水の入った花瓶までが挿入してあるであろう。
縞の入った肩から胸にかけての紗は、あたかも波打っているかに見え、両手の指は丁寧に一本一本描きわけられている。余程画料が高かったか、それとも彼自身、この夫人を描くことに特別な意味か興味があったせいであろう。
これがゴヤにとっても、マリー・アントアネットの化物の最後の人であった。
次から次へと、ゴヤにとっても何かが消えて行くのである。一時代が終れば、その時代の衣裳も消えて行き、衣裳やファッションは底の方で時代の思想とも関連のあるものであったから、衣装を奪われた人は次の時代のなかへ裸で放り出されねばならぬ。」
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