2016年9月18日日曜日

大治2年(1127) 白河法皇が藤原忠実の証菩提院領を没収 大治の荘園整理令 中世的土地制度=荘園公領制が確立した大きな画期 祇園祭はいよいよ盛んになる 「凡そ天下の過差、勝げて計ふ可からず。金銀錦繍、風流美麗、記し尽くす可からず。両院、按察中納言の三条室町の桟敷に於いて御見物すと云々」 雅仁親王(のち後白河天皇)誕生

千葉 大山千枚田 2016-09-16
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大治2年(1127)
この年
・白河法皇、藤原忠実が失脚中のこの年、忠実が集積した堀河中宮領を継承した証菩提院領を没収。
忠実は、白河法皇没後、鳥羽院政期に復権し、荘園の集積を再開、安定した摂関家領を確立する。
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・ヘンリ1世、貴族達にマティルダへの臣従を誓わせる。
1133年、貴族達に生まれたばかりのヘンリ2世への臣従の誓わせる。
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・バイエルン大公ハインリヒ尊大公、バイエルンの有力者を召集、ラント平和令を誓約させ掌握。
平和令違反者の城を攻め落とし、敵意をいただいていたレーゲンスブルク司教フリードリヒを屈伏させる。
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・ドイツ騎士団の起源。
あるドイツ人夫妻がドイツ人巡礼の為にエルサレムにドイツ館と呼ばれる病院を開く。
この病院がドイツ騎士団の起源と云われる「エルサレムの聖母マリアドイツ病院兄弟団」の前身考えられている。
1143年の教皇文書によるとヨハネ騎士団に所属。

公式記録では、1190年第3次十字軍中に、アッコンでリューベックとブレーメンの市民の作った野戦病院がシュバーベン公フリードリッヒの保護を受け、正式病院に昇格、同年エルサレム王ギー・ド・リュジニャンからも承認を受ける。
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・アラゴン・ナバーラ王アルフォンソ1世、アアイサラ征服(エブロ河サラゴーサ下流)。
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・ペルシャ湾バスラ港司令官イマードゥッディーン・ザンギー(44、ゼンギー)、スルタン・マフムードに命ぜられバグダードのカリフ(アル・ムスタルシド)の反乱鎮圧。
(イラク北部イマード・アッディーン・ザンギー(44、ゼンギー)、モースルにザンギー朝建国(位1127~1146)。セルジュク・トルコより自立。十字軍の侵略への反攻開始。)
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・南宋の建国。
徽宗9子で欽宗弟の康王、靖康の変の際に河北にいて難を逃れ、北宋滅亡後、河南の応天府(現、商邱)宋を復興(南宋初代皇帝高宗(1107~87、位1127~62))。
高宗は金の追撃を受け、南に逃げ長江を渡り、江南に拠って金を防ぎ、江南の諸勢力・反乱を平定して南宋の基礎を確立、都を臨安(現、杭州)に定める(1138)。
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1月20日
・淡路守藤原信輔を若狭守に、若狭守藤原家成を加賀守に任じる(「中右記」)。
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2月15日
・久我家の祖源顕房の子・村上源氏の祖源師房の孫・久我雅実(69)、没。
源氏初の太政大臣など歴任。雅実1男顕通(あきみち)も正二位権大納言に至り、久我大納言と称されるが、保安3(1122)年4月、父に先だち没。
2男の雅定(まささだ、1094~1162)が後継。正二位右大臣に昇る。応保2(1162)年5月27日没(69)。
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3月2日
・フランドル伯シャルル(善良、デンマークのシャルル)、殺害(位1119~1127)。
ギョーム・クリトン(ノルマンディーのギョーム、元ノルマンディー公ロベール息子クリトー)、即位(1127~1128)。
ノルマンディー公領奪還開始と思われるが、フランドル内の反対者を攻撃中に戦死、ヘンリ1世最大の悩みが消える。
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5月19日
・大治の荘園整理令。
寛徳以後の新設荘園を停止し、公民が荘園に逃れて課役を免れることを禁じる。
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5月29日
・ハインリヒ尊大公(27、傲岸公、ヴェルフェン家)、ゲルトルーデ(14、ドイツ王・ザクセン大公ロタール3世娘、1113?~1143)と結婚。
ロタール3世、ハインリヒ尊大公をザクセン大公に任命。
ハインリヒ尊大公、ロタール3世とホーエンシュタウフェン家との私闘で全面的に岳父を支援。 

ドイツ王ロタール3世とシュヴァーベン大公フリードリヒ(ホーエンシュタウフェン家)との私闘:
ロタール3世陣営(バイエルン大公ハインリヒ尊大公(ロタール3世娘婿)、ボヘミア大公ソビエスラヴ)。
フリードリヒ陣営(弟フランケン大公コンラート3世、ケルン大司教フリードリヒ1世、アーヘン、ニュルンベルク)。
ロタール3世、ボヘミア大公ソビエスラヴの支援軍数千と共にニュルンベルク(バイエルン地方)攻囲。
3ヶ月後、ソビエスラヴ支援軍が勤務期間終了、引き上げ。
シュヴァーベン大公フリードリヒ、ニュルンベルクを救援。
ロタール3世、ニュルンベルク→バンベルク→ヴュルツブルクに後退。
フリードリヒはシュパイエル(マインツ南75km)占領、シュパイエル司教放逐。
バイエルン大公ハインリヒ尊大公は後退し、フリードリヒに和平提案、招請に応じたフリードリヒをツヴィーファルテン大修道院で夜襲。救援軍が到着し失敗。
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6月14日
・院政期、祇園祭はいよいよ盛んになる。
『中右記』大治2年6月14日条には、
「祇園御霊会、四方の殿上人、馬長童(うまおさわらわ)・巫女・種女(たねめ)・田楽、各数百人、此の外、祗園所司僧・随身数十人供奉す。舞人十人を唐鞍に乗らしむ。凡そ天下の過差(かさ、分不相応なぜいたく)、勝(あ)げて計(あぞ)ふ可からず。金銀錦繍、風流美麗、記し尽くす可からず。両院(白河院と鳥羽院)、按察中納言の三条室町の桟敷に於いて御見物すと云々」
とあって、その華麗な様相を描き出している。

院政期には都市民は都市の中で、「在地」と呼ばれる一種の共同体を築くまでに成長していた。
一方、院政期になると、院は都市民の主催する祭りを積極的に取り込んでいくことによって、都市民に対する支配を強めていった。
賀茂祭や祗園御霊会などの祭りは、次第に大きな存在になってきた都市民にとっては楽しみの場であり、一方、民衆のエネルギーを警戒する朝廷は、祭りの場に介入することによって彼らを統制していこうとした。
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7月25日
・アプリア公ウイリアム(ギョーム、グリエルモ)、没(位1111~1127)。
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8月
・ロジェール2世(32、ロゲリウス2世)、メッシーナの約束(1125年)に従いアプーリア公を確保(1095~1154、カラーブリア・シチリア伯位1105(10才)~1127、アプーリア公位1127(32)~1130、ノルマン・シチリア王位1130(35)~1154)。
8月初め、ロジェール2世、アプーリア公国首都サレルノ到着。サレルノとアマルフィ町から新しい領主として認められ、アリーフェ伯ライヌルフスより臣従礼(オマージュ)を受ける。
後、ベネヴェンに行きその地域の小領主より主君として認められる。更に、次の都市(メルフィ、トロイア、レッジョ)を自らの支配下に置く。
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8月14日
・後冷泉天皇の中宮(のち皇后)で四条宮と呼ばれた太皇太后藤原寛子(92、父は摂政藤原頼通)、没。
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9月11日
・鳥羽上皇第4皇子雅仁親王(のち後白河天皇)、誕生。母待賢門院璋子。乳母、藤原朝子(後に藤原信西妻)。
11月14日親王宣下。
崇徳上皇の同母弟。崇徳天皇のあと、皇位が異母弟の近衛天皇に移った時点で、雅仁親王は皇位から遠い存在となり、皇室内部でも影の薄い立場に置かれた。

■白河・鳥羽の確執と雅仁親王の運命
白河法皇は、堀河天皇没後、ただちに皇孫宗仁親王(5歳、鳥羽天皇)を皇位につけ、絶大な専制的権力を発揮しはじめた。
その頃、法皇は藤原公実の女の璋子(後の待賢門院)を養女として育てていたが、この璋子は18歳のときに、2歳若い鳥羽天皇の中宮となる。彼女は入内の翌年元永2年(1119)に第一皇子顕仁(後の崇徳天皇)を生むが、この皇子は実は白河法皇の子であるとの、もっぱらの噂が流れていて、法皇も実際にこの皇子をこよなく寵愛した。
『古事談』によれば、鳥羽天皇自身もそのことを承知で、顕仁親王を「叔父子(おじご)」と呼んだという。
『今鏡』には白河院在世中、白河・鳥羽と中宮の3人が、三条室町殿に一緒に住み、外出にも3人が一つの車で御幸することがあったとある。白河法王は、鳥羽の妃となった璋子をいつまでも手放しがたく、いつくしんだと推測できるし、さきの噂も真実を伝えるものであったとも考えられる。
ともあれ、璋子は美人の評判高く、はじめは鳥羽天皇に愛され、その間に5皇子・2皇女をもうけた。

白河法皇は鳥羽天皇の思惑には頓着せず、顕仁親王が5歳になったとき、鳥羽天皇(21)を退位させ、親王を皇位につけた(崇徳天皇)。
この頃から、白河法皇と鳥羽上皇の間にわだかまりの萌芽が生じはじめた。

雅仁親王が第4皇子として生まれたのは、この4年後のこと。
このとき白河法皇は、待賢門院の平産を祈り、仏像を造り、経を供養した。待賢門院が生んだ第2皇子(通仁親王)は生まれた時から眼が見えなかったといわれ、第3皇子(有仁親王)は筋骨に欠陥があって、「なえ君」といわれていたため、今度こそは健全な皇子をと願った。

こうした中で、第4皇子は健全な御子として生まれた。右大臣中御門宗忠は『中右記』に、「后一腹に皇子四人は、昔から希有の例だ」としている。
まだ白河法皇の在世中で、待賢門院(これより3年前天治元年に中宮璋子に院号宣下があり女院となる)は宮廷内に権勢を振っていて、雅仁親王はめぐまれた環境のもとに誕生した。しかも、第1皇子はその出生に疑惑があり、第2・第3皇子はともに身体に障害があるので尚更のことである。

ところが2年後、白河法皇が没し鳥羽上皇の院政が始まると、白河法皇の為政に不満をもち、批判的であった鳥羽上皇は、ことごとく前代の為政方針を改めることに努めた。そうした情況の中で、とくに白河法皇との因縁の深い待賢門院は、次第に疎外されるようになった。

鳥羽上皇は、あらたに前関白藤原忠実の女の泰子(高陽院)を入内させて皇后とし、さらに藤原長実の女で、美貌と才媛を誇る得子(美福門院)を寵愛するようになった。とくに泰子の父忠実は白河法皇の晩年に法皇と対立して関白の座を追われた人物で、この泰子の入内については法皇が遺言で強く反対したところであったが、鳥羽上皇はその遺言を全く無視して彼女を後宮に入れた。

この頃から、上皇と待賢門院との不和は顕著となり、上皇は、待賢門院及び崇徳天皇をめぐる勢力に対して警戒心を強めていった。

院政の主となった鳥羽上皇も、白河法皇に劣らず、次第に専制的権力を発揮しはじめ、待賢門院の宮廷内における勢力が失われ、その所生の諸皇子たちの立場にも暗い影がさしはじめる。
雅仁親王4歳の大治4年(1129)、弟の第5皇子(本仁親王)が生まれたが、この皇子は5歳のとき剃髪して仏門に入り、法名は覚性、紫金台寺御室と号している。この第5皇子の仏門入りも、待賢門院の勢力凋落と関係があろう。

こうした中で、雅仁親王は、保延5年(1139)、12歳で元服し、二品に叙された。
ところが、この同じ年、美福門院得子が、皇子躰仁(なりひと)親王を生み、しかも生後わずか3ヶ月で、この皇子の立太子の儀が行われた。ここで事情が急変した。鳥羽上皇は、その寵愛する美福門院の生んだ皇子に皇統を与えるという方向に動いた(上皇は皇后泰子に皇子誕生を期待していたが、皇女しか生まれなかったという事情があり、躰仁親王の立太子が順調に実現したものともいわれているが)。

結婚して、17歳で1子をもうけるが妻に先立たれ、上臈播磨局を寵愛。
政界中枢から外れており、10代から今様に親しむ。仏教音楽にも傾倒し、高僧を師に声明(しょうみょう)を修行。器楽では笛を得意とする。
第四皇子は通常「四の宮」と呼ばれるが、今様に耽溺するあまり「今宮」と仇名され「遊芸の親王」の名をほしいままにする。異母弟近衛院の没後、継母美福門院推挙により、29歳で突然即位。
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10月20日
・源義光(73)、三井寺にて没。
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11月
・秋~冬、教皇ホノリウス2世、反ロゲリウス2世同盟結成。
11月か12月、ホノリウス2世、ロゲリウス2世破門。

反ロゲリウス2世同盟への参加者(カープア候ロベルトゥス2世、アリーフェ伯ライヌルフス、アリアーノ伯ロゲリウス、バーリ候グリモアルドゥス・アルファラニテース、コンヴェルサーノ伯ゴフレドゥス息子タンクレドゥスとその兄弟、アンドリア伯ゴフレドゥス、トロイアの町)。
ロゲリウス2世、買収工作うまくいかず、反ロゲリウス派諸侯・都市の少ない旧ターラント候国地域より制圧開始。
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11月15日
・五節舞。
左京大夫藤原経忠は綿150両を出す(子の若狭守藤原信輔が若狭に課す)。越前守平忠盛は綿50両を出す(「中右記」)。
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12月15日
・日吉(ひえ)社領の新設をめぐって、藤原清衡が陸奥国守良兼と争う。
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12月18日
・フランケン大公コンラート3世(34)、兄フリードリヒと何人かの諸侯の同意を得てドイツ国王の称号を名乗る(1093~1152、1115~1152フランケン大公、1127~1135対立王、1138~1152ドイツ王→ホーエンシュタウフェン朝創始者、ホーエンシュタウフェン家シュヴァーベン大公フリードリヒ弟)。
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12月20日
・藤原顕能を越前守に任じる(「中右記」)。
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12月27日
・私領寄進状「僧永真所領寄進状」。
開発本領主永真が、越前大野郡内の後の泉荘の基礎となる所領を参議従三位藤原宗輔(「中右記」著者宗忠の弟、母は左大臣源俊房の娘。のち太政大臣)に寄進。
開発所領の権門勢家への寄進(開発所領に対する政治的・法的保障の獲得)。

後三条天皇治政(3年余)・白河天皇・上皇治政(57年)は、たび重なる荘園整理令発布と記録荘園券契所(記録所)の活発な活動によって、中世的土地制度=荘園公領制が確立した大きな画期(承保2年(1075)~大治2年で主要なもののみでも十数回)。

後三条天皇親政期の延久の荘園整理令の骨格は、
①寛徳2年(1054)以後の新立荘園の停止、②公田加納の停止、③坪付の定まらない荘園の整理、④往古の荘園のうち券契の不明のものや国衙行政に支障のあるものの停止。
②③については、各国衙レベルで国司が厳しく追及、その過程で④券契(公験)の整備が進み、全体を通じて荘園・公領の分離と夫々の領域の明確化が進展する。
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