2016年9月29日木曜日

大治3年(1128)~大治4年(1129)4月 平教盛誕生 藤原清衡(73)没 西宮歌合・南宮歌合 崇徳天皇(11)元服 平清盛(12)従五位下叙任、左兵衛佐任官、石清水臨時祭の舞人を勤める 藤原聖子(8)が崇徳天皇に入内 平忠盛、山陽・南海道の海賊追補使に任命 頼長(10)、白河法皇以下三院に初めて謁す

鎌倉 英勝寺 2016-09-27
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大治3年(1128)
この年
・平教盛(のりもり)、誕生。平忠盛4男。母、太皇太后宮権大夫藤原家隆娘・待賢門院女房
淡路守、大和守、伊勢守(越中?)、常陸介、能登守、丹波権守、従二位、中納言。
安元2年3月、後白河法皇の五十の賀に宴遊用船を造営。
6月、鹿ヶ谷事件で配流の娘婿藤原成経に援助。
治承4年(1180)以仁王追討軍(実戦不参加)。6月、福原遷都で邸を後白河法皇内裏とする。
治承5年閏2月、清盛没で十一面観音継承。
寿永4年3月、壇ノ浦で平経盛と組み合って入水自殺。
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・エルサレム王ボードワン2世、フランス王ルイ6世に娘メリザンドの夫を求めるべく使者2人派遣。エルサレム王はアンジュー伯フルク5世(1120年エルサレム巡礼)を指名、フルク5世は結婚承諾。
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・アンジュー伯フルク5世、息子ジョフロワ(18)にアンジュー伯領を譲位、エルサレム巡礼に出発。アンジュー伯ジョフロワ・ル・ベル、即位(美男、1113~1151、位1128~1151)。

ジョフロワ:
アンジュー・メーヌ・トゥーレーヌを合併した大アンジューを譲位。父同様の戦闘を進めサブレ・アンボワーズ・コンデ・セグレの領主達の謀反を抑え、アンジューの領主達はアンジュー伯の下に団結同調。プランタジネットと仇名される最初の人物。
イングランド・ノルマン王家との関係。
1113年アンジュー伯フルク5世、ヘンリ1世と和解。
1119年ヘンリ1世息子 ウィリアム・エシリングとアンジュー伯フルク5世娘マティルダ結婚。
1120年ヘンリ1世息子ウィリアム・エシリング、白舟号の遭難で没。
1128年ヘンリ1世娘マティルダ(29、皇帝ハインリヒ5世未亡人)と結婚。
1133年ジョフロワとマティルダの息子ヘンリ2世(位1154(21)~1189)、誕生。
1135年12月2日ヘンリ1世、没。スティーブンとマティルダの内戦(1135~1152)。マティルダ夫アンジュー伯ジョフロワはノルマンディ征服に専念。
1136年ジョフロワ、ノルマンディー侵入、リジューまで軍を進めるが、掠奪の為の無意味な戦闘で致命的敗北。
1137年スティーブン、ノルマンディー到着、マティルダ・ジョフロワと停戦締結(実質はマティルダ・ジョフロワの敗北)。
1138年初頭アンジュー伯ジョフロワとマティルダ、停戦破棄、ロバート・オフ・グロスターと同盟締結。ノルマンディー 全地方、マティルダ=アンジュー伯ジョフロワの権威を認める。
1139年9月マティルダとロバート、イングランド上陸。
1141年アンジュー伯ジョフロワ、ノルマンディー征服開始(1141~1144)。最初にバス・ノルマンディ(コンタン半島~クータンス~カン)征服。後、オート・ノルマンディー(ルーアン周辺)征服。
1144年1月19日ルーアン降伏。ノルマンディー公の称号獲得。数ヶ月後、フランス王ルイ7世にノルマンディ公として臣従の誓い。
1144~1150ノルマンディーを賢明な手腕で統治(イングランドの混乱に巻き込まれるのを避け、大陸でのプランタジネット家の強化に専念)。
1150年ノルマンディーを息子ヘンリ2世に譲位。
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・ムラービト朝アミールのアリー・イブン・ユーフス息子ターシュフィーン・イブン・アリー、グラナーダでイスラム・スペイン支配開始(支配期間1128~1138)。トレード攻撃(トレード東オレーハ、南カラトラーバに根拠地、トレードを孤立させようとする)。
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・アラゴン・ナバーラ王アルフォンソ1世、モリーナとカスティルヌエボを征服(サラゴーサ南、モンレアル西)。
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・アラゴン・ナバーラ王アルフォンソ12世、バレンシア包囲、失敗。
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・ポルトガル王アルフォンソ1世、即位(1128~1185)。ポルトガル王国創設。カスティーリャ・レオン女王ウラーカ(位1009~1026)治世の内乱を利用して独立国になる。
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1月14日
・テンプル騎士団、教皇ホノリウス2世に正式「騎士修道会」として認可。
シャンパーニュ伯領首府トロワの会議。正式名称は「キリストとソロモン神殿の貧しい騎士たち」。中心人物はシャンパーニュ関係者、創設者ユーグ・ド・バイヤン(会員9名)、有力後援者シトー会総長ハーディング、クレルボー修道院長ベルナール。
トロワ会議後、テンプル騎士団、欧州各地を廻り会員募集・所領取得活動開始。総長ユーグ・ド・バイヤン、ノルマンジーに赴き滞在中の英王ヘンリー1世と会見、多額の金品を贈られる。英に渡り、ヘンリー1世娘マチルダ(国王代理)よりロンドンのテンプル城館(ロンドンの本拠とする)の寄進を受け、各地の荘園・多額の金品を贈られる。ノルマン系イギリス貴族から多くの修道騎士団を徴募。のち中部フランスを歴遊。
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2月18日
・ダマスカスのアターベク、トゥグティキン、没。宰相アル・マズダガーニはエルサレムと連絡をとり、暗殺教団は暗躍する。
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5月28日
・源為義、新院御所警護の武者所の武士を殺害した犯人を捕らえる。
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6月
・ロゲリウス2世、サレルノとブリンディジを結ぶ線以南の地域を支配下に置く。
「反ロゲリウス2世同盟」、北から侵攻開始、戦闘交える前に解散。
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6月17日
・ヘンリ1世娘マチルダ(26、神聖ローマ皇帝ハインリッヒ5世寡婦)、アンジュー伯ジョフロア・プラタジュネ(16)と再婚。
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6月25日
・ポルトガル、サン・マメーデの戦い。サン・ジョアンの日、故エンリケ・デ・ボルゴーニャとテレサの子アルフォンソ・エンリケス、領内貴族の意向を無視してサンティアゴ大司教と和平を結んだテレサに反発、ポルトカーレ貴族を率いてテレサ軍を破る。
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6月28日
・ザンギー、スルタンよりモースルとアレッポの統治を委ねられ(アターベク)、アレッポに入城。
アレッポの故リドワーン王娘(イルガジとバラクの未亡人)と結婚。
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6月29日
・コンラート3世、イタリア遠征(1128~1129)。
モンツァとミラノでミラノ大司教アンセルムよりイタリア王に戴冠。
ミラノ、ドイツ王ロタール3世のイタリア王自称に憤慨、コンラート3世を友好的に受け入れ。
ミラノ大司教アンセルムは大司教の権利・義務に関して教皇庁と係争中、コンラートのイタリア王即位を歓迎。
イタリア諸都市(パヴィア、ノヴァーラ、ブレシャ、クレモナ、ピアチェンツァ)がミラノへの反感からコンラート3世の敵に廻る。
教皇ホノリウス2世、コンラート3世とミラノ大司教アンセルムを破門。パヴィア教会会議で教皇使者クレマのヨハンがコンラート3世破門を繰り返す。
この時点よりミラノ市民の熱意が減退。欺かれたコンラート3世は少数の供とパルマに向う。
1129年末、コンラート3世は資金不足もありドイツに帰国。
イタリア遠征失敗。
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7月13日
・藤原清衡(73)、没(誕生:天喜4(1056))。藤原3代にわたる栄華の基礎を築く。
嫡子の惟常(基衡とは異母兄)と基衡の間で後継争い。
翌大治4年、双方ので合戦、基衡は惟常を襲撃、これを討ち、藤原氏2代目の統領となる。
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7月27日
・フランドル伯ギョーム・クリトン、没(ノルマンディーのギョーム、位1127~1128)。アルザス家アルザスのティエリー、フランドル伯即位(ティエリー・ダルザス、位1128~1168)。
妻シビル・ダンジュー:アンジュー伯フルク5世と最初の妻アランブルジュ・デュ・メーヌの娘。
1157年、再婚の夫フランドル伯ティエリー・ダルザスとエルサレム巡礼。エルサレムで父フルク5世の思い出に感動、聖ラザロ修道院に入り、夫ティエリーにフランドルに戻ることを拒否。1165年没。
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8月22日
・教皇ホノリウス2世とロゲリウス2世、ベネヴェントで会見。
ロゲリウス2世、アプーリア公の「地位」が公式に認知され公国内の諸侯達への宗主権が合法化、秋迄にアプーリア公国を完全に鎮圧。
教皇ホノリウス2世、ロゲリウス2世の破門を解除、アプーリア公に任命。
ロゲリウス2世、教皇ホノリウス2世に臣従礼と忠誠宣誓、カープア候の独立尊重を誓う。
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8月29日
・西宮広田神社で「西宮歌合」。神祇伯源顕仲が一族を中心に催す歌合。藤原長実や彼の同母弟顕輔、長実の姉妹より生まれた三条公教が参加。
9月21日「南宮歌合」、広田神社の境外摂社・南宮の門妙社で行なわれ、参加者16人中11人は「西宮歌合」の参加者。
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10月21日
・法皇、上皇が石清水八幡宮に行き、一切経を供養する。
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10月22日
・白河法皇の八幡一切経供養願文に殺生禁断のため越前など11ヶ国の土産の魚類をやめるようにとあり。
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12月
・藤原忠通、太政大臣となる。
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大治4年(1129)
この年
・駿河国の御厨(みくりや)供祭(くさい)物押奪によって伊勢神宮が官使・国使(くにのつかい)を訴える事件が起こる。
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・シエナとフィレンツェとの間に最初の戦いが起こる。他方、フィレンツェはピサに接近、海への出口を確保。この同盟により、ピサは背後の憂いを除き、脅威であるミラノに備えることができた。
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・ベルナール、シャロン・スール・マルヌ教会会議に参加
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1月
・源雅兼に越前権守を重任させる。
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1月1日
・崇徳天皇(11)、元服。
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1月6日
・平清盛(12)、元服して間もなくこの日、従五位下に叙任、直後(24日)に左兵衛佐(さひょうえのすけ)に任官。
6日に「斎院の御給」により従五位下(じゅごいのげ)に叙せられた(白河法皇の皇女恂子(じゆんし)内親王の御給の適用によってのこと)。それまでは院の非蔵人であった。
従五位下に叙されたことについては、宗忠の日記『中右記』は当日の記事に載せておらず、父の忠盛が従四位下になったことを特筆している。宗忠にとっては目立つほどのものではなかった。
但し、24日の任官(左兵衛佐)は破格のものであった。

武門の子としては破格の待遇
(武士が衛府に任官(督・佐・尉の3官)する場合、三等官の尉に任官が普通。家格上昇後の平家嫡男重盛でも左衛門尉から始まる。清盛の任官は二等官の佐から)。
藤原宗忠は「この春給爵、十年(ととせ)、傭前守忠盛の男、人、耳目を驚すか」(『中右記』)と記す。春に五位になったばかりで、十歳の若さで左兵衛佐になったことに驚きを示している。通常ならば四等官の兵衛尉から任官が始まるからである。

この年3月16日石清水臨時祭で舞人に選ばれる。この時、清盛乗馬の口取りは白河法皇養子の内大臣源有仁の随身が務める。
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1月9日
・摂政忠通(33)の娘の藤原聖子(8)が崇徳天皇に入内。16日、女御とする。
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3月
・備前守平忠盛、白河法皇院宣により山陽・南海道の海賊追補使に任命、数十艘の船で瀬戸内海を荒らす海賊鎮圧に当たる。
但し、討伐の首尾は不明。一説では、瀬戸内の海賊(在地武士)を自己の勢力下に治める為、海賊の脅威を喧伝し追討院宣を要求したともいわれる。しかし、瀬戸内海の海賊追討使に任命されるほど、忠盛及び平氏勢力が西国一帯に浸透している事実は重要。
忠盛は白河法皇没後も、引き続き鳥羽上皇の近習として奉仕。藤原顕季の孫で鳥羽院第一の寵臣家成との連携を深める。
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3月16日
・石清水の臨時祭。備前守平忠盛の子兵衛佐平清盛(12)が初めて石清水臨時祭の舞人を勤める。
付き従う雑色(蔵人所・院御所・その他武家で雑役をする職)の装束が美しく贅沢で、内大臣源有仁の随身(貴人外出の時、護衛した武官)・府生重近が平清盛の乗る馬の口取りを勤めており人々の耳目を驚かす(「中右記」同日条)。
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4月5日
・藤原長実(55)、参議就任。宮廷行事(賀茂祭=葵祭)に当たり、参議5人の内、服喪中3人・病中1人、更に、参議に次ぐ蔵人頭2人も服喪中のため、散三位(位階は三位だが太政官の職についていない者)から繰り上げ昇進させることになり、長実が就任。
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4月10日
・藤原忠通、太政大臣辞職。
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4月19日
・頼長(10)、白河法皇以下三院に初めて謁す
この日、菖蒲若(あやわか)と称していた頼長(10)は、兄摂政忠通の子として、兄に伴われて白河・鳥羽両院および待賢門院(璋子)に初めて参入し、三院に謁して手本などの贈物を給わった。
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