2017年3月4日土曜日

明治39年(1906)7月1日~31日 谷中村・藤岡村合併強行、法制上の谷中村は消滅 啄木、「雲は天才である」「面影」執筆始める 陸軍大尉ドレフュスの名誉回復 児玉源太郎(54)急没

浜離宮庭園 2017-03-03
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明治39年(1906)7月
・横浜正金銀行、中国の安東県に出張所設置。
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・梅屋庄吉、エム(M)・パテー商会を創立。仏パテー作品を携えてシンガポールより帰国していた。
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・シェークスピア、坪内逍遙訳、戯曲「ヱ゛ニスの商人」(「早稲田文学」)
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・水野葉舟、窪田空穂「明暗」(「金曜社」)7
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・二葉亭四迷、エスペラント独習書「世界語」出版。
8月ザメンホフ「世界語読本」出版。
明治35年~、沿海州、満州、北京へと旅したとき、ウラジオストクでエスペランティストと出会い、意気に感じて約束を果たそうと、この年はエスペラント語著書の出版に熱中。
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・武者小路実篤(21)、学習院高等科3年を卒業、成績がビリから4番。
9月、東京帝国大学哲学科社会学専修に入学。大学の授業にあきたらず、小説・詩・対話・戯曲・感想など、形式にこだわらず創作をこころみる。
この頃、メーテルリンク「智慧と運命」(ドイツ語訳)を読んだことや、ドイツの理想派の画家クリンゲル等の影響を受け、トルストイの禁欲的傾向から自己の解放を図る。  
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・新聞社が相次いで夏目漱石に寄稿依頼。
新聞「日本」から夏目家へ記者がやって来て、時々短文を「日本」に発表する気はないかと言った。「日本」は正岡子規が長年席を置いたところであり、夏目とは間接に緑のある新聞であった。夏目はそれにすぐ応じはしなかったが、それを機会に彼は、新聞から定期的に入る収入をあてにして学校の勤務を減らせるのではないか、と考えはじめた。
またこの頃、「報知新聞」、「国民新聞」からも同様の依頼があり、「読売新聞」がそれに続いた。
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・堺利彦「社会主義研究」第4号(7月1日)は、殆ど全面をエンゲルス著・堺利彦訳「科学的社会主義の発展」(「空想から科学への社会主義の発展」)で埋める。
翌月の第5号(8月1日)は、マックス・ベーア「総同盟罷工の歴史及意義」、アウグスト・べーベル「政治的総同盟罷工論」(1906年イエナのドイツ社会民主党第16回大会における演説、べーベルはこの演説で総同盟罷工を採用すべき旨の決議案を提出し、それを説明した)を訳載し、また志津野又郎が、1904年のアムステルダムにおける第6回万国社会党大会(第2インタナショナル)で討議されたブルジョア政府への参加問題、ゼネストの問題を、2派の代表弁士であったジョーレス、べーベルの演説の大要を「社会党硬軟二派の主張」と題して訳載。
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・三重紡績、津島紡績を合併。
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・富士製紙、北海紙料会社買収。
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・イラン立憲革命。
数千人のテヘラン住民、テヘランの英公使館敷地内に避難して抗議スト(一斉封鎖)。
イラン国王モザッファロッ・ディーン・シャー、大臣アイノッ・ドーラを解任し、国民議会(マジュリス)開設に合意(8月5日)。
10月7日、初議会を開き、自由憲法起草。
国王は12月30日、草案に署名し翌日死亡。
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・メキシコ、フアン・サラビア,自由党綱領を著す。
アリアガらに配慮し自由主義を基調としながら労働保護、土地改革、反帝民族主義なども盛り込む。17年憲法の精神となる。
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7月1日
・日本、京釜・京仁鉄道買収。統監府管理下に置く。
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7月1日
・谷中村村長職務管掌鈴木豊三、村会決議を無視して同村を藤岡村に合併。
この月、田中正造、谷中村管掌村長鈴木豊三に対する官吏侮辱罪により栃木未決監に拘留。宇都宮裁判所での一審有罪。
明治40年6月、東京控訴院、無罪。
明治38年12月、谷中村村会が田中与四郎を村長に選出するにもかかわらず、県は郡官吏鈴木豊三を管掌村長に任命。
39年3月、谷中村3小学校を廃校。4月、谷中村・藤岡村合併提案。村会はこれを否決するも、7月1日、合併強行。法制上の谷中村は消滅。
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7月1日
・大阪砲兵工廠の職工500人、解雇に反対し、暴行。
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7月2日
・宮禁令改変。王宮警護を韓国官憲から日本官憲へ移譲。
6日、更に、宮禁令一部変更。韓国人の出入りは大韓政府の許可要。韓国宮廷を粛正。
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7月2日
この日付の漱石の高浜虚子宛手紙。
少々ひまになったから余計な事を書くと断り、昔はこんな事を考えた時期がある、として、

正しい人が汚名をきて罪に処せられる程非惨な事はあるまいと。今の考は全く別であります。どうかそんな人になって見たい。世界総体を相手にしてハリツケにでもなってハリツケの上から下を見て此馬鹿野郎と心のうちで軽蔑して死んで見たい。
尤も僕は臆病だから、本当のハリツケは少々恐れ入る。絞罪位な所でいゝなら進んで願ひたい。

と、昔とは生きる価値観が違ってきたことの自白、生きる決意、その覚悟を述べる。
また、同月17日付小宮豊隆宛手紙では、
「来月は講義をかゝなければならん。講義を作るのは死ぬよりいやだ、それを考へると大学は辞職仕りたい」。
大学の講義にたいする本音を述べている。
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7月3日
・啄木、帰郷後のこの日から小説家をめざして「雲は天才である」「面影」を書く。
「七月になった。三日の夕から予は愈々小説をかき出した。『雲は天才である。』といふのだ。これは鬱勃たる革命的精神のまだ混沌として青年の胸に渦巻いてるのを書くのだ」

『雲は天才である』は、啄木自身そのままに月給8円の代用教員新田耕助が主人公。
彼は、「云はゞ校歌といった様な性質の一歌詞を作り、そして作曲」する。この歌を高等科の生徒たちが高吟する。「昼休みの際などは、誰先立つとなく運動場に一蛇のポロデージ行進が始つて居た。彼是百人近くはあつたらう、尤も野次馬の一群も立交つて居たが、口々に歌つて居るのが乃ち斯く申す新田耕助先生新作の校友歌であつたのである」。
当然、校長・古参教員から注意を受ける。教頭格の古参教師は小学校教授細目を盾にとって叱責する。ところが、生徒たちが新入りの代用教員を支援する。円陣を作って再び歌う。

啄木の日記同様にナルシスティックな青年教師像がいたる所に顔を出す。
作品は、漱石の『坊っちゃん』の影響を受けている。校長を「泥鰻(どぜう)金蔵閣下」とし、古参教師を「立枯になつた朴の木」と揶揄する。
啄木は、『雲は天才である』を書き始める前、『坊っちゃん』の読後感として、「夏目氏は驚くべき文才を持つて居る。しかし『偉大』がない」と日記に書いている。

一方、啄木の島崎藤村への評価は高い。
啄木は、「島崎氏も充分望みがある。『破戒』は確かに群を抜いて居る。しかし天才ではない」とする。藤村『破戒』は、この年(明治39)3月25円に自費出版された。

『破戒』もまた社会の圧迫と理念の狭間に悩む青年教師が主人公である。未解放部落出身、それを隠せという父親の戒めを守り生きてきた瀬川丑松は、長野の師範学校を卒業後、教師となるが、思想家猪子蓮太郎の生き方に触れ、周囲の噂にも耐えきれず、ついに生徒の前で出自について告白する。
被差別部落に対する藤村の理解は不徹底であったとの『破戒』への批判はあるが、藤村は、『破戒』によって近代日本の社会構造を真正面から取り上げた。被差別部落の問題のみならず、いまだ残存する閉塞した村意識、教育界の腐敗、宗教家の堕落などの問題が織り込まれている。
この問題意識は『坊っちゃん』『雲は天才である』とも共通する。三作が青年教師を主人公としたのは、それぞれの作者に教師の体験があるためである。

この年のほぼ同時期に、青年教師を主人公とした小説が、漱石、藤村、啄木によって書かれた。
しかし、三作の結末は異なる。

『雲は天才である』では、学校の小使いが「乞食」と呼ぶ男が主人公を訪ねてくる。彼は主人公が兄とも慕う旧友からの紹介状を持参する。その男から、八戸で教職に就いていた旧友が、校長と対立し免職となったことを聞く。旧友はなけなしの財産を男の汽車賃に替え、自分は無一文となって旅立つ。
「雲は天才である」という主題は、旧友の生き方に共鳴し、啄木自身も教職を辞し、雲のごとく生きる未来が暗示されている。

一方、『破戒』の主人公は、生徒とも恋人とも別れ、テキサスの新天地で生きようとする。

学校の体制でさえ崩すこともならなかった青年の失望と苛立ちの反転として、啄木と藤村は青年に希望を託している。
『坊っちゃん』の場合は、この心情は共通するものの、坊ちゃんは学校、世の中のすべてに苛立ち、腹を立て、その結末は淋しい。『雲は天才である』『破戒』の主人公が抱くような、明確な希望がない。
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7月 4日
・東北地方の飢饉救済に関して、天皇がセオドア・ルーズベルト米大統領に感謝の親書を発す。
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7月4日
・エチオピアに関して、英仏伊間で協定締結。
エチオピアの領土保全・独立を承認。3ヵ国はエチオピアを3分割してそれぞれ勢力下に。
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7月5日
・湖北羅田の張金正ら、「輔清滅洋」を掲げ、安徽霍山の教会を破壊。
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7月6日
・戦地軍隊における傷者及病者の状態改善に関する条約及最終議定書調印。
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7月7日
・幸徳秋水、妻千代子と共に郷里中村町に帰省。
8月3日中村町で、7日入野村で、26日後川村岩田で演説会。
この間、慢性腸カタルで下痢が続く。
8月31日午前7時、中村町発、帰京の途につく。
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7月7日
・墺・ハンガリーとセルビア、関税戦争「豚戦争」開始。
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7月9日
・3月11日に市電値上げ反対の東京市民大会を開催した西川光二郎、大杉栄、山口義三らに無罪判決。
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7月10日
・日比谷焼打ち事件群集の判決、有罪87人。
一方、民衆に斬りつけて起訴された警官3人は有罪1人(9月5日、放火犯と間違えて市民を負傷させた本所警察署巡査)のみ。
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7月12日
・仏破毀院、ユダヤ人の陸軍大尉ドレフュスの名誉回復。1894年の反逆罪嫌疑は事実無根と判断。21日、ドレフュスはレジョン・ド・ヌール勲章を授与、彼の面前を軍隊が行進。
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7月13日
・南満州鉄道株式会社設立に関し、総参謀長児玉源太郎を委員長とする設立委員会、設置。80人。
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7月17日
・東京市、市区改正速成事業などのため、ロンドンで150万ポンド5分利付東京市債発行決定。
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7月20日
・(露暦7/7)セント・ペテルブルク、合法的ボリシェヴィキ雑誌「エホー」、レーニン「・・・我々は世界革命を望んでいる…」。
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7月20日
・フィンランド、新憲法制定。一院制、婦人参政権、比例選挙。
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7月20日
・グアテマラ、エルサルバドル及びホンジュラスと講和条約締結。5月以来の3ヵ国間の戦争終結。
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7月21日
・慶應義塾教師向軍治、多数の死者を出した旅順戦を批判。問題となる。
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7月21日
・(露暦7月8日)4月27日に開会したドゥーマ、急進派の諸政党にボイコットされ解散。
獄中のトロツキー、この問題についてパンフレット「憲法制定議会のための闘争におけるわれわれの戦術」を執筆。レーニンによりボルシェヴィキ出版社から出版。更に、この頃「1905年労働者代表ソヴィエトの歴史」執筆、出版。

■この頃のツァーリ(ニコライ2世)の日記(トロツキー『ロシア革命史』1)
「七月七日。金曜日。きわめて多忙な朝。将校のための朝食会に三〇分遅刻・・・雷雨があった、ひどく蒸し暑い。いっしょに散歩した。ゴレムーィキンを引見。ドゥーマ解散の勅令に署名!オーリガとペーチャのところで昼食。一晩じゅう読んだ。」
・・・
解散させられたドゥーマの議員たちは国民に納税と兵役義務の遂行を拒否するように呼びかけた。一連の軍隊の反乱が起こった。スヴェアボールク〔バルト海艦隊の基地で、のちのフィンランドのスオメソリンナ市〕で、クロンシタットで、艦船で、陸軍部隊で。高官にたいする革命テロが空前の規模で復活した。ツァーリは記す。「七月九日。日曜日。実現した!ドゥーマはきょう解散。ミサ後の朝食時、呆然とした顔をしている者が多かった・・・天気はすばらしかった。散歩のとき、きのうガーッチナから来たミ-シャおじに会った。昼食まで、また、晩じゅう静かに仕事をした。カヌーを漕いだ。」・・・。
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「七月一四日。着替えをして、自転車で海水浴場に出かけ、海で楽しく泳いだ。」
「七月一五日。二度泳いだ。とても暑かった。二人で昼食。雷雨があった。」
「七月一九日。朝、泳いだ。農園で引見。叔父のヴラヂーミルとチャーギンが朝食。」・・・。
「朝九時半にカスピ連隊に出かけた・・・長いことぶらついた。天気はずばらしかった。海で泳いだ。お茶のあとリヴォーフとグチコーフを引見した。」 二人の自由主義者の引見はきわめて異例なことだが、ストルーィピンが野党政治家を自分の内閣にひきいれようとしたためにその引見がおこなわれたという事実には一言もふれない。未来の臨時政府首班、リヴォ-フ公爵は当時、ツァーリのその引見についてこう語っていた。「私は、悲しみにくれるツァーリの姿を眼にするものと予期していたが、かわりに私のところへあらわれたのは、暗赤色のシャツを着た陽気で活発な青年であった。」」
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7月22日
・西園寺首相、台湾総督府民政局長後藤新平に満鉄総裁就任要請。拒否。
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7月23日
・煙草専売局製造煙草の種類公示。
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7月24日
・児玉源太郎(54)、脳卒中で急没。
8月1日、台湾総督府民政局長後藤新平が「満鉄」総裁を引受ける。後藤は前日7月31日、山縣元帥に手紙を書き、8月8日には大島都督・寺内陸相に建白書を提出。
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7月23日
・露、ゴレムイキン首相、辞任。後任に内相兼任のままストルイピン就任。反動強化。
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7月23日
・第3回汎米会議開催(リオデジャネイロ)。
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7月26日
・清国、京師督学局開設。
*7月26日
・湖北蘄(キ)州で反乱。
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7月27日
・南方熊楠(40)、松枝(28)と結婚。
翌年7月、長男熊弥、誕生。周辺の植物採集を続ける。
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7月28日
・清国、教育会章程制定。
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7月31日
・露、代議員が多数の逃亡者がフィンランドに向かう前に、市民的不服従を呼びかける宣言を出す。
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