2017年9月20日水曜日

大正12年(1923)9月16日 大杉栄・伊藤野枝・甥橘宗一ら麹町憲兵隊で虐殺される(犯人とされた憲兵大尉甘粕正彦、懲役10年、3年で仮出獄)。 19日、検察官取り調べ。22項目の甘粕供述。

【増補改定版】 大正12年(1923)9月11日~12日 中国人社会運動家王希天が軍隊に殺害される(王希天、70年の「行方不明」) ソ連の震災救援船「レーニン」号が横浜入港するも退去命じられる スペイン・バルセロナの駐屯地で反乱、軍事独裁政府樹立(~1930)
より続く


大正12年(1923)9月16
・大杉栄・伊藤野枝(28)・甥橘宗一ら虐殺。
憲兵大尉甘粕正彦懲役10年、3年で仮出獄。

憲兵大尉甘粕正彦によって拉致。その日のうちに憲兵隊構内で扼殺。遺体は、畳表で巻かれ古井戸に投げ捨てられる。
1976年(53年後)に発見された死因鑑定書によれば、伊藤・大杉ともに肋骨が何本も骨折、死亡前の激しい暴行が発覚(甘粕らは軍法会議法廷で、被告らは被害者が「苦しまずに死んだ」と陳述)
その後の研究によれば、虐殺命令を憲兵隊上層部(憲兵司令官小泉六一)ないし陸軍上層部(戒厳司令官福田雅太郎大将)が出したと推認。

甘粕事件の発覚は、橘宗一が米国国籍を持っていたため、アメリカ大使館の抗議を受けて狼狽した政府(首相山本権兵衛)の閣議(19日)で問題になったから。
19日朝、布施辰治は、村木源次郎より大杉らの行方不明を聞き警視庁で湯浅倉兵総監を問詰める。
24日、公表。

大杉栄(38)、伊藤野枝(28)。
残された子ら。長女魔子(6)、3女エマ(2歳8ヶ月)、4女ルイズ(1歳8ヶ月)、長男ネストル(2ヶ月弱)。尚、2女エマは、大杉の妹牧野田松枝の養子として大連で育てられている。

以下
『甘粕正彦 乱心の曠野』(佐野眞一)によりこの虐殺事件を見てゆく。

大正12(1953)年9月16日午前9時過ぎ、大杉栄と同棲中の伊藤野枝は、豊多摩郡淀橋町字柏木371番地(現、新宿区北新宿1丁目16番地)の自宅を出た。すぐ隣に住む文芸評論家内田魯庵の妻がそれを見かける。魯庵の家に遊びに来ていた長女の魔子(6歳)によると夫妻は鶴見に行くという。
そして、その日以来、大杉夫妻は姿を見せなくなった。

地震後の混乱に際して、朝鮮人暴動の背後には社会主義者の煽動があるなどの流言が流されており、また検束された社会主義者も出てきている状況なので、大杉の友人はそれとなく注意したが、迫害に慣れている大杉は、「俺を捕まえるには一個師団の兵隊がいる」と大言壮語して一笑に付していた、という。
しかし、実際にはこの時点でまだ拘束を免れていた無政府主義者は大杉だけであった。

大杉は、前年末にフランスに国外脱出し、パリ近郊のメーデー集会で逮捕されラ・サンテ監獄に収監後、国外追放となり、この年7月に、凱旋将軍のように帰朝したばかり。
警察も軍も、日増しに盛名をはせている大杉に対しては、以前にも増して激しい憎悪をつのらせている。

大杉夫妻は、焼け野原のなかを鶴見まで行き、大杉の弟・勇の避難先で甥の橘宗一(6歳、米国籍、大杉の妹あやめが米国で結婚して生んだ子供)を預かり帰路についた。
しかし、その後の3人の行方はそこで途絶えた。

それから2~3日後には、魯庵は、大杉は検挙され留置所に入れられたまま火事で焼け死んだというような不穏な噂を耳にするようになる。

9月14日付け「東京朝日新聞」のコラム「青鉛筆」。
「大杉栄は殺された、社会主義者はやられたと云ふ様な流言が大分行渡って居たが、警視庁に真否を尋ねて見ると、大杉オン大はじめ御連中は極めて安全に私服諸君の保護を受けて自宅に縮こまってゐるさうだ」

9月19日、検察官取り調べ(甘粕の態度はのちの軍法会議と同じ)

■陸軍法務官山田喬三郎による検察官調書
・被告人 陸軍憲兵大尉 甘粕正彦(当年三十三歳 本籍 山形県米沢市門東町上ノ町六九五番地 住所 東京府豊多摩郡渋谷町憲兵分隊長官舎)
・罪名 殺人
・起訴理由 被告人は平素社会主義者の主張に嫌厭たらざるものあり。就中大杉栄は無政府主義者の巨頭なるを以て震災の為め混乱せる場合に軍隊撤退後如何なる不逞行為に出つるやも知れざれば、此際に於て殺害するを国家の為め有利なりと思惟し、麹町憲兵分隊長を兼務せるを幸として其居所を内偵し居りたる所、大正十二年九月十五日府下柏木に居住せること判明したるに依り、翌十六日、同地より大杉栄、伊藤野枝、及当年七才位の男児一名を麹町憲兵分隊に同行し、同日午後八時三十分頃より同九時三十分頃迄での間に同分隊構内建物空室に於て右栄、野枝及男児を順次に絞殺したるものなり。
右は予審に附するを相当なりと思料候也

■甘粕の供述
1.私は本年八月、陸軍の人事大異動以来、渋谷憲兵分隊に勤務しておりましたが、九月一日、同分隊の仕事に携わっているとき震災が起こり、同日から麹町憲兵分隊長として昨日十八日まで勤務しておりました。
(事実は、甘粕が千葉県市川の憲兵分隊長から渋谷憲兵分隊長に栄転したのは大正11年1月。翌大正12年8月6日の陸軍大異動で渋谷憲兵分隊長の身分のまま麹町憲兵分隊長代理との兼務を命じられ、9月1日に正式に渋谷憲兵分隊長兼麹町憲兵分隊長となった)

2.震災後、警視庁始め各警察署に於いて社会主義者の検束につとめており、麹町憲兵分隊に於いても検束に従事していました。しかし、主義者の巨頭の大杉栄は警視庁管内でも検束を受けていません。軍隊の警備中は主義者は何らの行動も起こしませんが、軍隊の撤退後はいかなる行動を起こすかわかりません。とりわけ、大杉栄を検束しないのは遺憾に思い、今月十日頃より捜索をしておりました。しかし、大杉は淀橋方面にいるというだけで、住所をつきとめることができずにいました。
十五日になって、淀橋警察署の特別高等係が案内してくれて、柏木三百八十何番地かに伊藤野枝と一緒に暮らしていることがわかりました。
(大杉夫婦が住んでいたのは柏木三七一番地。
ここでは、警察が大杉のアジトを突きとめる手引きをしていたことが注目される。大杉一家殺害には警察が関与していたのか、軍の単独犯行だったのか。この問題は軍法会議でも取りあげられた。真相究明までにはいたらなかったが、あとあとまで尾を引いた。そもそも大杉事件が露呈するきっかけは、軍と警察の反目にあった。そしてその背景には、内務省と陸軍省のドロドロした暗闘劇が絡んでいた。)

3.淀橋署の特別高等係に大杉の居所を案内してもらったのは、麹町憲兵分隊と同じ建物にある東京憲兵隊本部附憲兵曹長の森慶治郎が、大杉栄の居所を捜索するため十五日の午前中に淀橋署に行き、松元という同署の特別係長から大杉についてこんな相談をされたからです。
その相談というのは、森曹長の話では、淀橋署では大杉の居所はわかっているが、警察ではヤッツケることができないので、憲兵の方でヤッツケてくれないかという話だったそうです。
淀橋署の署長も公然とは言えないが、ヤッツケてもらいたい意思であると話していたとのことでした。
帰隊した森曹長からそれを聞いた私は、森曹長と鴨志田安五郎、本多重雄の両憲兵上等兵を連れて麹町憲兵分隊を出て、午後六時頃、淀橋署に行きました。そして、私と森曹長が淀橋署の案内で大杉栄の家に行きました。いま申し上げたヤッツケてくれというのは、殺してくれという意味です。
(鴨志田、本多の両憲兵上等兵は、森曹長と同じ東京憲兵隊本部に所属し、後述する東京憲兵隊本部の平井利一伍長と前後して第1回軍法会議の終了後自首したため、甘粕、森とともに大杉事件の被告となった。)

4.私と森曹長は淀橋署の案内で大杉栄の居所付近まで行きましたが、そのときは大杉栄を尾行している淀橋署の巡査が見当たらなかったため、大杉栄の所在を確認することはできませんでした。その日は、鴨志田上等兵をその場に残して帰りました。分隊に帰ると、大杉の居所まで案内してくれた淀橋署の者から、電報で大杉を浦和あたりまで連れだし、ヤッツケたらどうかと言ってきましたが、それは難しかろうと思ってやめ、翌十六日あらためて大杉栄の居所に行く約束をしました。

5.翌日は午後二時半頃、森曹長、本多上等兵、平井伍長と一緒に淀橋署に行きました。昨日案内してくれた者と私服の巡査が、私らを大杉の居所まで連れて行ってくれましたが、大杉は不在でした。隣の酒屋で聞くと、南の方に行ったとのことなので、大杉の居所から約二丁離れた二つの街道に手分けして張り込んでおりました。
淀橋署の者に調べてもらうと、大杉は鶴見方面に出かけ、午後五時半頃には帰宅するはずだとのことでした。また、淀橋署の話で、大杉栄が白の背広を着用して中折帽をかぶり、伊藤野枝も洋装だということがわかりました。

6.張り込んでいたところ、午後五時半頃、淀橋署の方面から大杉栄、伊藤野枝が七、八歳の男児を連れて帰ってきました。野枝は私が張り込んでいた家の前の果物屋に入り、梨を買っていました。大杉と子どもは店の外で待っていました。
野枝が買い物を終わって店の外に出てきたとき、森曹長が憲兵隊に同行せよといいました。大杉は一度帰宅させてくれといいましたが、私と森曹長がすぐに来てくれといって、淀橋署まで連行し、同署から自動車に乗せ、三人とも麹町憲兵分隊に連れて帰りました。午後六時半頃のことでした。
(この男児は、大杉の妹あやめの長男の橘宗一。この日、大杉と野枝は、鶴見に避難している大杉の弟の勇のところに震災見舞いに行った。そこに預けられていたのが宗一で、宗一は東京の火事の焼け跡が見たいというので、一緒に連れて帰宅した。)

8.麹町憲兵分隊に連れて帰り、使用していなかった階上の東京憲兵隊本部隊長室に三人を入れて夕食をとらせました。そして午後八時頃、やはり使っていなかった憲兵司令部の応接室に、森曹長が大杉栄だけを連れて行きました。その部屋で森曹長が大杉を取り調べているとき、私が大杉の腰かけている後方から部屋に入り、すぐに右手腕を大杉の咽喉にあて、左手首を右手掌に握らせて後ろに引き倒しました。
大杉は椅子ごと後方に倒れましたので、右膝頭を大杉の背骨にあて、柔道の絞め手で絞殺いたしました。大杉は両手をあげて非常に苦しみ、約十分間くらいで絶命いたしました。そのあと、携えていた細引きを首に巻いてその場に倒しておきました。大杉は如何なるわけか、絞殺するとき、少しも声をあげませんでした。

9.森曹長には同人が調べているときに私が絞殺するということを示してありました。森曹長は、私が絞殺をしはじめるときにはボンヤリして椅子に腰かけていましたが、ほとんど絶命するようになって足をバタバタバタバタいわせていましたので、私が命じてその足を捕えさせたと思います。

10.それから午後九時十五分頃、隊長室に行きますと、伊藤野枝が机に右肘を乗せ、入口の方を背にして椅子に腰かけておりました。私は室内を歩きながら、戒厳令などという馬鹿なことをやったと思っているだろう、と聞いたところ、笑って答えませんでした。兵隊などというものは馬鹿に見えるだろう、と重ねて尋ねますと、この頃は兵隊さんでなければならぬようにいうではありませんか、という答えが返ってきました。
そこで私は、自分らは兵隊で警察官だから、君たちから見れば一番イヤなものだろう、君たちは混乱がさらに続くことを望んでいるのだろう、と尋ねました。すると彼女は、あなたたちとは考え方が違うから仕方がありませんね、と笑いながら答えました。
それを聞いて私は、どうせ君はこんな状況を原稿の材料にするのだろうというと、もう本屋から二、三注文がきている、と笑いながら答えました。そんな会話をしているうち、私は彼女の右横に廻り、大杉に対して行ったのと同じ方法で絞殺いたしました。
伊藤野枝の場合、位置が悪かったため大杉より一層困難で、野枝は二、三回ウーウーという声を出し、私の左手首のところを掻きむしりましたが、同人も約十分くらいで絶命しました。そして携えていた細引きを首に巻き、その場に倒しておきました。

11.私が伊藤野枝と会話しているとき森曹長も部屋に来ており、一、二伊藤野枝と会話していたように記憶しています。私が伊藤野枝を絞殺したときにも森曹長は傍らにいましたが、何も手伝いはさせませんでした。

12.子どもは淀橋警察署から自動車で麹町憲兵分隊に来る途中から、私になつき、分隊に来てからも、付きまとっていました。分隊で誰か引き取って養育してやる者はいないか、と冗談のように言ったほどです。子どもは伊藤野枝を絞殺する前に私のところに来ましたから、隊長室の隣の部屋に入れて戸を閉めておきました。
子どもは隣室で騒いでおりました。私は伊藤野枝を絞殺すると、すぐ隣室に行き、手で咽喉をしめ、その後細引きを首に巻きつけておきました。子どもは絞殺するとき声をあげませんでした。
(この供述には、伊藤野枝との会話のようなリアリティーがほとんど感じられない。宗一の殺害に関しては軍法会議でも大きな争点になった。)

13.大杉栄、伊藤野枝を私が絞殺したときには森曹長が傍らにおり、大杉のときは私の命令で一時足を捕まえさせましたが、部屋には森曹長以外には誰もおりませんでした。

14.大杉栄、伊藤野枝及び子どもの三死体は、午後十時半頃、森曹長、鴨志田、本多、平井の三上等兵に手伝わせて、憲兵隊の火薬庫のそばにある井戸の中に菰に包み、麻縄で縛って投げ込みました。
私は死体を外に運び、わからぬように処置しようと思いましたが、森曹長以下が死体を運び出すことを嫌っていたのと、後日発覚のおそれがあると思い、構内の井戸に投入することにしたのです。

15.死休を投げ込んだ古井戸は全然使用したことがないもので、震災で倒壊した火薬庫の煉瓦で蓋がされていましたので、それを取り除いて投入しました。その上から煉瓦を多数投入して埋めました。翌日人夫が来ていましたので、その人夫に命じて、馬糞や塵芥を投げ入れて井戸を完全に埋めてしまいました。

16.三つの死体とも裸で菰にくるみました。これは、最初外に運び出そうと思っていたからです。

17.三名がそれぞれ身につけていたオペラバッグや帽子、靴下、下駄などは、翌十七日の夕方、築地方面に自動車で巡視に行った際、逓信省の焼け跡の石炭の燃えているなかに投入して焼却しました。

18.大杉栄の捜査検束は憲兵隊長にもまったく報告せず、絞殺することも私一己の考えでやりました。

20.大杉栄を殺害することは、淀橋署が大杉の居所案内に協力してくれたことから考えて、同署も内々で同意しているものだと思っておりました。
しかし、大杉らを殺害した翌日の十七日、森曹長が大杉の捜査協力のお礼を兼ねて淀橋署に行き、大杉らは昨夜帰宅させたのでもはや尾行の必要はないだろうといったところ、同署では大杉の件についてはまだ警視庁に報告していない、二、三日したら行方不明として報告するつもりだ、と言ったとのことでした。
また同日、大杉の件につき隊長の命令で淀橋署に行った本部附の杉田中尉の話によれば、同人が大杉栄方付近を聞き回ったところ、淀橋署は巡査を派遣して大杉栄方に異常はなかったかと隣家に問い合わせていたそうですから、あるいは大杉らの検束について同署は全然関係がないように装ったものかも知れません。

21.大杉らを検束した後、淀橋署で私らの行動を内偵していたかどうかはわかりませんが、大杉らの検束及び殺害について最初に言い出したのは淀橋署だったと思います。なぜなら、森曹長が最初に淀橋署に立ち寄った際、名刺を差し出し、同署ではそれを警視庁に報告したようだからです。私は最初から氏名を告げませんでしたので、警視庁の方でも私がやったことは知らなかったようです。
(淀橋署は憲兵隊によって大杉らが検束されたことを知りながら、偽装工作までやってロをぬぐったらしい。淀橋署からその報告を受けた警視庁でも責任が及ぶことを恐れてそれを握りつぶしたらしい。甘粕はここで、そう疑っている。
ここでも警察の関与問題がむしかえされ、軍と警察の間に暗闘があったことがほのめかされている。
しかし、甘粕は最後に「これはあくまで私一己の考えでやったことであります」と、もう一度述べている。)

22.私が大杉栄を殺害しょうと思ったのは、憲兵分隊長としての職権でやろうとしたのではなく、一個人として国家のため殺害する必要があると信じたからであります。ゆえにその殺害は、私自身が責任を受けるべきものと覚悟いたしております。
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つづく

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