2017年9月23日土曜日

大正12年(1923)9月16日 大杉栄・伊藤野枝・甥橘宗一らの虐殺(その3) 暗殺の準備(甘粕麹町憲兵分隊長を兼任する) 軍法会議(10月8日~) 甘粕非難の声と減刑嘆願運動

■甘粕、麹町憲兵分隊長となる(大杉暗殺の準備)
甘粕は、大震災当日の9月1日、渋谷憲兵分隊長でありながら抜擢されて麹町憲兵分隊長との兼務を命じられた。麹町憲兵分隊は、東京憲兵隊本部直轄の近衛師団的存在で、規模も大きく、分隊長には佐官クラスが就くのが通例で、その分隊長に大尉の甘粕が就くのは、2分隊の隊長を兼任することを含め、前例のない人事。甘粕の前任の麹町憲兵分隊長は、後に東京憲兵隊長から少将になる持永浅治で、麹町憲兵分隊長当時は少佐(佐官)である。
人員配置では、東京憲兵隊本部の人員が補助憲兵を含め32名、麹町憲兵分隊の人員は補助憲兵を含め190名となっており、ライン部門の麹町憲兵分隊がスタッフ部門の東京憲兵隊の実働部隊の位置付けとなっている。他に、東宮御所・秩父宮邸を警護する赤坂分隊が36名、渋谷分隊が29名など。

「治安維持の最前線部隊を自任し、社会主義者や無政府主義者、さらには「不逞鮮人」らを何とか検挙しようと手ぐすねをひいていた東京憲兵隊にとって、帝都を揺るがした関東大震災下の戒厳令は彼らを一網打尽にする千載一遇のチャンスだった。
甘粕が”東京憲兵隊の近衛師団”といわれた麹町憲兵分隊のトップを兼務したこの前例のない人事異動は、無政府主義者の巨頭の大杉栄を明らかに視野に入れた、いうなれば”大杉シフト”だった。」(佐野)

甘粕は、名古屋の陸軍幼年学校から陸軍士官学校(24期)に進むが、陸軍戸山学校在学中の大正4年(1915)、膝関節を怪我する不慮の事故に遇い、念願の歩兵への道を諦め、憲兵になることを余儀なくされている。甘粕は千葉刑務所収監中に書いた獄中記で、「私は憲兵になった時もう靖国神社に祀られることがないのかと思ったら淋しい気がした」と記している。
甘粕は、朝鮮の京畿道楊州憲兵分隊長、市川憲兵分隊長を経て、大正11年1月、渋谷憲兵分隊長になっている。この渋谷憲兵分隊長時代に甘粕は朴烈事件を摘発している。
朴烈は、豊多摩郡富ヶ谷で内妻金子文子と同棲中の大正12年8月中旬、所轄の渋谷憲兵分隊に内偵され、これが半月後の大震災下での事前検束に繋がる。

甘粕は、朴烈が大杉と接触し大陰謀を企てているとの情報をつかんだという。
大杉事件の軍法会議での甘粕の陳述。
「大震災の後九月二日の夜中 摂政宮殿下が、潜かに宮城へ御這入りになったという噂が、盛に市民の耳朶を打ったことがありまするが、夫は大杉一派が朴某なる不逞鮮人を煽動して企てた某大逆事件に基因するものであるとの確信を得たのであります」

■甘粕に対する減刑嘆願運動:
早稲田の右翼学生グループの縦横倶楽部や各地の在郷軍人会を中心に全国に広がり、その署名請願者は65万人に達する。

■軍法会議が開かれ(10月8日~)凄惨な犯行が国民の目にさらけ出されるに従って、ジャーナリズム界では、大杉を悼む一方、甘粕を非難する声が高まる。
雑誌「改造」(大正12年11月号)は特集号「大杉栄追想」、「婦人公論」(同年11月・12月合併号)は特集記事「『甘粕と云ふ人間』批判」を組んで、甘粕に非難の集中砲火を浴びせる。

三宅雪嶺「火事場人殺し」
<甘粕が職を辞し、一私人として大杉を殺したならば、己の力の及ぶ限り国家の為めに尽さうとしたものと云ひ得ぬではない。憲兵大尉の職権を以て法律に依らず逮捕して極刑に処するに至つては、単に職権を濫用するのみでなく、憲兵の信用を損じ、併せて広く軍隊に及ぶを遺憾とせねばならぬ。
甘粕は初めから一身を投げ出して居るかどうか、独断専行した処、責任を負うてゐるにしても、死骸を知れぬやうに隠さうとしたのは何の為めか。知れなければ其のまゝ問題にならぬとしたのでないか。子供を殺したのも世間に漏れるのを怖れたのでないか。
その為す処、只管(ひたすら)秘密を保たうとするのであって、秘密結社の陰険手段の最も著しいものに属せぬか。フリーメーゾンに有害の人を Cause to disappear せしむるといふ文句がある。即ち或る手段で行方不明にする事を意味する。
甘粕の行為は、憲兵大尉として、秘密結社の事を敢てするに外ならぬ>

宗教家の高島米峰は、三宅以上に手厳しく甘粕を断罪。
<甘粕大尉の行為は明に、国家の大権を干犯し、陸軍の重法を無視したもので、無政府主義を恐れて居た甘粕大尉自身が、却て無政府主義を実行した事になるのである>

■第1回軍法会議(大正12年10月8日、青山の第1師団司令部)
午前8時30分、開廷。
被告席に軍服姿の甘粕と、共犯とされた東京憲兵隊本部附曹長・森慶治郎。
法務官のうしろの特別傍聴席には、第1師団長石光真臣中将と幕僚、一般傍聴席には、甘粕兄弟や陸士24期の同期生たち。

判士長岩倉正雄(陸軍歩兵大佐)が最初に甘粕を呼ぶ。
原籍、住所、氏名、年齢、叙勲、賞罰など型通りの人定質問、検察官山田喬三郎(陸軍法務官)による公訴事実の朗読、続いて判士小川關治郎(陸軍法務官)の実質審理に移る。

軍法会議の公判記録は散逸しているが、この裁判を傍聴しその様子を書き留めた記録『問題の人甘粕正彦』(山根倬三・小西書店、大正13年出版)された記録がある。
この軍法会議ではは、甘粕は、大杉一家虐殺は自分一己の考えから出たことであり、上からの命令は一切なかったという点で首尾一貫している。
しかし、昭和51(1976)年に発見された大杉一家の「死因鑑定書」は、この甘粕の供述をことごとく覆す結果となった。

この軍法会議で最も見るべきは、殉教者意識の虜になったとしか思えない甘粕の”名演技”ぶりである。

■判士(陸軍法務官)小川關治郎に社会主義者に対する一般的感想を尋ねられた甘粕の陳述
「思想問題については、以前ちょっと研究したことがあります。この頃は特別研究しておりませんが、今日の思想界がほとんど混乱状態に陥り、刻一刻と危機に瀕していることはいまさら申しあげるまでなきことで、国家のため憂慮にたえません。かかる危機的状況を何とかして一日も早く救い、ひいては社会の改善をはかりたい希望をもっておりました。
特にわが帝国は天祐とでも申しましょうか、西洋各国が五、六百年の間に繰り返し繰り返しやっと文明をかたちづくったのに対し、わずか五、六十年の間に建設することができました。この光輝ある帝国に不純なる思想を芽生えさせようとするのは、天と倶に許さざるところであります。
社会主義の根本は、人間が肉体を離れて霊にならなければできないことですが、よしその根本は間違っていても聞くべきものもあります。しかし、無政府主義にいたっては、国家に対し、国体を蠧毒(とどく)し、大和民族の帰結を害うことの甚だしきものであります。
かかる危険思想は、国家を憂える者が決然と起って排斥すると同時に、建国の大本を無視する獅子身中の虫は、天に代わって制裁を加えなければなりません」

■判士と甘粕の応酬
- 震災後の社会主義者の言動について、何か不穏という確証でも得たのか。
「震災後、放火犯人を逮捕して調べたところ、その背後に社会主義者がいて、朝鮮人と連絡をとり、ことを起こそうとしていることを知りました。伊藤野枝が爆弾を懐に、ひそかに活動しているということも聞きました」

- それらの者に対して、いかなる方法をとろうと思っていたのか。
「震災後、人心は非常に動揺しました。私は万一のことを考えて、寝食を忘れてその警戒にあたりました。それというのも、国家が一部人心の動揺のため、危殆に瀕しはしないかと痛感したからであります。しかるに警視庁は、社会主義者の末端は片っ端から検束しているのに、大杉栄のごとき巨頭はそのまま放任していた。これは非常に遺憾なことだと思いました」

- 大杉栄の行動に関して何か確証でも握ったのか。
「一日以来、野枝と一緒に行動していると聞きました」

- 放火犯人や朝鮮人を使嗾した主義者は誰だということだったか。
「ハッキリとはわかりませんが、大杉もむろんその一人だと思いました。特に大杉は検束されていませんでしたから、かかる運動をしているのは大杉らよりほかにないだろうと思ったのです」

ー 大杉の所在を捜索しようと思ったのはいつ頃か。
「九月上旬のことです」

- 所在を知ってどうしようと思ったか。
「捕らえたら殺してやろうと最初から考えていました」
(満員の傍聴席から驚きの声)

- いかなる方法で大杉をヤッツケようとしたのか。
「九月十五日の夕方、森曹長を従え私服で淀橋署に行きますと、大杉は子どもを連れて戸山ケ原を散歩していると聞きましたので、戸山ケ原に大杉がいたら、手で絞殺しよう、万一のときは射殺しようと思い、拳銃を持って行く覚悟を決めました。しかし、大杉は自宅にいることがわかり、その日は目的を果たさず、空しく帰りました」



つづく




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