2017年10月2日月曜日

大正12年(1923)9月16日 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一らの虐殺(その9) 「死因鑑定書」と甘粕供述の相違(甘粕のウソを暴く) 遺体引取りから荼毘に付すまで

大正12年(1923)9月16日 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一らの虐殺

■「死因鑑定書」(陸軍衛戍病院の外科に勤務していた田中隆一軍医(大尉)の作成)
田中軍医は昭和14年に中国で戦死したが、夫人はそれを戦後もずっと持っていた。
衛戍病院で田中軍医の後輩だった医師・安田耕一氏が、自費出版を予定していた本のなかで田中軍医の思い出を書くため、田中未亡人に問い合わせたところ、田中軍医が作成した「死因鑑定書」が、いまも夫人の手元にあることがわかった。田中夫人も安田医師もすでに亡くなり、「死因鑑定書」は現在、横浜でクリニックを開業する田中軍医の息子の田中隆夫氏が保管している。

解剖が行われたのは、大正12年9月20日
遺体を古井戸から引き上げるところから立ち会い、およそ20時間かけて解剖した。
解剖の状況は、田中軍医の後輩の安田耕一が書いた自費出版本(『舎久と道久保』)に詳しい。

〈(田中)軍医は武装兵一個小隊が古井戸の周囲を警戒する中で、死体の発掘に立会ったが、子供の死体をみてさらに暗然たるものを感じたとのことだった。この三死体を乾草の満載されている馬車に積んで隠して、兵隊護衛のもとに三宅坂の陸軍病院に向った〉

解剖は9月20日午後3時30分に始まり、終わったのは翌21日午前11時26分だった。

青い罫線入りの縦書き用箋23枚
原籍・現住所不詳、推定年齢を記したあと、現場所見。

〈死体ハ三体共前記東京憲兵隊本部構内東北隅弾薬庫北側中央ニシテ弾薬庫ノ土台石ヲ去ル四尺ノ地点ニアル廃井戸中ニアリ〉
〈井水ハ甚ダ不潔ナル濁水ナリ、井戸ノ上部ヨリ見ルニ附図ノ如キ位置ニ於テ畳表ニテ包ミ麻縄ニテ縛セル三個ノ死体アリ〉
巻末の附図には、三つの遺体が入った麻縄で縛られた菰袋の絵が描かれている。
男性屍を包んだ米俵のような菰袋のなかから大杉の足が出ている図は目をそむけるほど生々しい。

遺体の外観の記述のあと、解剖検査記録は詳細を極めている。

注目すべき箇所
〈男女二屍ノ前胸部ノ受傷ハ頗ル強大ナル外力(蹴ル、踏ミツケル等)ニ依ルモノナルコトハ明白ナルモ前ニ説述セル如キ理由ニ依リ此ハ絶命前ノ受傷ニシテ又死ノ直接原因ニ非ズ、然レ共死ヲ容易ナラシメタルハ確実ナリ〉

甘相は軍法会議で、大杉も野枝も絞殺した、二人ともほとんど暴れることなく、10分ほどで絶命したと述べている。
しかし、大杉も野枝も、明らかに寄ってたかって殴る蹴るの暴行を受けている。そして虫の息になったところを一気に絞殺された。
「死因鑑定書」が語っているのは、甘粕供述とはあまりにもかけはなれた集団暴行による嬲(なぶ)り殺しの実態である
この箇所を読むと、憲兵隊本部の屋上に大杉が両手両足を厳重に縛られ、コンクリートの上に筵を敷いて座らされていた、そばには野枝と子どももいた、という前述した赤坂憲兵分隊長・服部守次の証言がリアリティーを帯びてくる

9月25日、遺体引取りから荼毘に付すまで
時事新報記者の吉井顥存「大杉殺し事件の曝露されるまで」(「婦人公論」大正12年11月・12月合併号)
大正12年9月25日、吉井は大杉ら3人の遺体を引き取りにきた伊藤野枝の叔父の代準介や大杉の友人の安成二郎、村木源次郎、弁護士山崎今朝弥らと、死体が安置されている三宅坂の陸軍衛戍病院に行った。
吉井は、検死解剖された3人の遺体が遺族に渡されるまで、遺族の代準介が死体の置かれた部屋の様子を村木源次郎らに語りかけた会話を書きとめている。
「白木の寝棺で、三つとも同じ大きさです。粗末なテーブルを並べた上にそれを横たえて、白布で覆い、枕元には鉄の火鉢を仮の線香立てにしていました。棺の上には白木の戒名のない位牌が三つ、味気なく乗っていました。
死体はもう死後十何日かたって臭気が鼻につき、ほとんど男女の区別さえつかないほど腐敗しています。おまけに解剖したまま洗いもしなかったとみえ、防腐用の石灰が血にまみれて青黒くにじんでいました。まったくお話のほかです」

吉井はそこから、大杉らの遺体が茶毘に付された落合の火葬場まで同行している。

〈間もなく星光章を染出した陸軍用の幌の貨物自動車が何処からともなく差廻された。三個の棺は掛引のない貨物同様の扱ひを受けて、そのトラックに積上げられた。白布を蔽うたはよいが、その上に三つの位牌を立て並べられた光景は寂しかつた。同乗者は、村木、安成の両氏。他の人々はそこから柏木に引揚げることになった。
都(*都新聞)の柴田君が感慨深かさうにいふ。
- 『大杉君も終りありといつていゝね。軍人の子に生れて、幼年学校に学んで、憲兵に殺されて、軍用自動車に積まれて、陸軍の費用で火葬になる - ハゝゝゝゝ』
その笑ひ声は却て一同をしんみりさせた。
淀橋町の狭い街路を駈けぬけて、中野を廻って、落合の火葬場に着いたのは三時半。火葬場のあたりは武蔵野の風物早や秋の色を湛へて、夕暮るゝ気氳(きうん)冷やかであった。
自分達は半ば崩れかかった赤煉瓦の煙突を背景に入れて、先づこの異様な枢車をカメラに納めた。それから村木君が手が足りぬから手伝へといふので、三つの枢を火葬場の後庭まで運ぶ助勢をした。宗一の棺は幼児だけに軽かつたが、大杉伊藤両氏の枢は重かつた。その棺の底には血糊が黒く腐つてべつとりと滲み出てゐた。それが掌底に粘りついた。
折悪しく火葬場は過ぐる地震で倒壊して用をなさぬ上に、震災横死者の死骸は続々と運ばれて来る。そこら辺りには、何某、何女と墨痕鮮かに姓氏を書きつけた白木の立棺、或は荒縄がけの寝棺三々五々積重られてあつた。
煉瓦の崩れた火葬場の裏、三四十坪の空地一面に仮設された焼竈からは熾に青い煙を颺(あ)げてゐた。うぢやつこい、酸いやうな臭気が強く鼻柱を襲つて来た。折柄薄暮が遠くから武蔵野を裹(つつ)んで来ると見えて、唐蜀や大豆の畑を滑つて秋風がざは々々と吹いて来る。
そのしんみりした光景に背を向けて、安成氏は三つの棺板にそれ々々三人の名を記入した。
野枝、栄、宗一。やはりその父親や妹の枢を送つて来た人達であらう、見知らぬ五六人の群れが立囲んで珍らしさうにそれに瞶(み)いつてゐた〉


つづく

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