2018年7月7日土曜日

『帝都東京を中国革命で歩く』(潭璐美 白水社)編年体ノート11 (明治44~45年)

皇居東御苑
*
明治44年
梁啓超と辛亥革命
辛亥革命の直前、清朝政府は遅まきながら政治改革の必要性を痛感して、「戊戌政変」で検挙された人々に恩赦を下した。梁啓超は家族を日本に残したまま国内視察に行き、大歓迎された。
翌年、清朝が崩壊して中華民国臨時政府が樹立され、孫文に代わって袁世凱が臨時大総統の地位につくと、国内経済を立て画すために梁啓超は大抜擢される。このとき39歳。

しかし、一度は要請に応じて司法総長、財政総長を歴任したが、すぐに袁世凱の無能無策に気づき、憤懣やるかたなく抗議文を叩きつけて辞職した。
そして、雲南都督の蔡鍔(「東京高等大同学校」の教え子)が起こした袁世凱打倒のための「護法戦争」(第三革命)を積極的に支援した。

その後、「護法戦争」が失敗すると、梁啓超は政界から身を引き、清華大学教授、北京図書館館長などを歴任して、学術研究に後半生を捧げた。
彼は、「世界の三大啓蒙思想家」として日本の福沢諭吉、ロシアのトルストイ、フランスのヴォルテールをあげる一方、マルクス主義には懐疑的であった。そして『清代学術概論』、『中国近三百年学術史』など数々の名著を残して、1929年に没した。

明治44年
宋教仁と辛亥革命
辛亥革命は、宋教仁の戦略が勝ち取った革命であり、外国から遠隔操作で革命を指揮した孫文の手柄ではないともいえる。だが、孫文には名声があり、「アメリカの軍艦に乗り、大金を持って凱旋帰国」した(と噂された)孫文は、上海で熱狂的な出迎えを受け、選挙では圧倒的多数で中華民国臨時政府の臨時大総統に選出された。

宋教仁は、実務能力が高いが、神経質すぎて他人と折り合えない欠点がある。
孫文には英雄の必要条件として、カリスマ性があり、人望があり、金集めができた。

宋教仁は猛烈に働いた。
中国初の憲法「臨時約法」原案を作成した。
弁護士、判事、検察制度を導入すべく、専門家の養成学校を創設した。
日本の法制度を取り入れて二院制の議会を制定し、議員たちを任命した。
国民党を再編して、中国最初の議会選挙で第一党となった。
あとは第一党の実質的党首として、国会での内閣総理大臣指名を待つばかりだった。

明治44年
蒋介石と辛亥革命
明治43年12月、蒋介石は新潟県高田町(現、上越市)の日本陸軍第13師団砲兵第19連隊に二等兵として配属された。
そして、実地訓練も残すところ1ヶ月に迫った頃、明治44年10月10日、武漢で武装蜂起が成功し、独立を宣言したというニュースが飛び込んできた。次いで上海にいる陳其美から「革命成功、すぐ帰れ!」との至急電が届いた。

蒋介石はすぐに上官に対して帰国の意思を示し、出立の準備に取りかかった。二人の軍事留学生も同調した。報告を受けた師団長の長岡外史は、三人を制止せず水盃で出陣を祝ってくれた。
だが、正式許可が出る前に新潟を出発したため、陸軍省の記録には、陸軍大臣・石本新六の署名により、清国派遣の62名の実地訓練生のうち、蒋介石は「逃亡帰国者三名」のひとりとして記されることになった。

明治45年
陸軍総長黄興
この年(1912)年1月、上海で盛大な祝賀会が開かれ、日本から末永節、宮崎滔天、萱野長知らが出席した。彼らは、陸軍総長に就任して立派な軍服を身に着けた黄興の威風堂々とした姿に見とれつつ、『民報』編集部にいた頃のことを思い出した。

「あの頃は、うず高く積まれた雑誌や本の山に囲まれて、汚い着物の縫い目にたかったシラミを潰しつつ、毎日原稿を書いていたのだ。その黄興が今はこれほど立派になったとは・・・・・」と、末永節の感慨もひとしおだった。

明治45年
宗像大社の「黄興の硯」
明治45年5月、福岡玄洋社の頭山満は福岡県宗像市にある宗像大社に「黄興の硯」を奉納した。
この硯は、辛亥革命成功後に行われた上海祝賀会で、黄興が感謝の意を込めて、日本人支援者の代表格であった頭山満に寄贈したものと推測される。
箱入りの硯は大判で、上部に蘇軾(そしょく)の漢詩、左側は黄庭堅の漢詩が彫り込まれた贅沢なもので、中国の富裕層が珍重する「文房四宝」(筆、硯、紙、墨)のひとつ。多分、革命のドサクサ紛れにどこかの金持ちの邸宅から接収してきたものだろう。
頭山満は黄興から贈られた硯を、中国革命の成功を祝し、中華民国臨時政府の前途洋々たることを祈願して、宗像大社に奉納したようだ。宗像大社は「三柱の女神」を祀り、朝鮮半島や中国大陸との海上交通の平安を守護する由緒ある神社であり、中国と縁が深いからである。

(つづく)




0 件のコメント: