2018年7月13日金曜日

『帝都東京を中国革命で歩く』(潭璐美 白水社)編年体ノート12 (大正2~4年)

日比谷花壇大船フラワーセンター

大正2(1913)年2月
孫文の日本凱旋
大正2(1913)年2月、鉄道大臣・孫文が長崎、神戸、東京へ”凱旋”したとき、長崎では国賓待遇の歓迎式典が開かれ、御用列車にレッドカーペットが用意された。
神戸に一泊したとき盛大な歓迎会が開かれ、列車が東京の新橋駅に到着すると、紋付き袴姿の政治家や財界人たちがホームで出迎えたばかりか、二千人近い人々が手旗を振って熱烈歓迎した。
ところが、日本滞在中の3月に同志の宋教仁が暗殺され、慌てて帰国した。

大正2(1913)年3月
宋教仁暗殺
孫文から臨時大総統の地位をひきついだ袁世凱は専制独裁の野望を抱いていたが、宋教仁が内閣総理大臣に就任した暁には、袁世凱の権限を大幅に狭めると明言していた。袁世凱は密かに刺客を放った。
1913年3月20日午後10時45分頃、北京行きの列車に乗るため向かった上海駅改札口で宋教仁は暴漢に襲われた。黄興ら大勢の国民党員が見送る中で、突如、ピストルを持った男が続けざまに3発の銃弾を放ち、うち1発が宗教仁の臀部に命中した。
宋教仁はただちに近くの鉄道病院に搬送されたが、臀部から入った銃弾は下腹部にとどまり、重症であることが判明。2日間苦しんだ後に、22日午前4時47分、息を引き取った。享年31。

亡くなる前日、宋教仁は黄興の手を固く握り、悲憤の涙を流しながら、郷里に残してきた両親と妻子のことを託した。北京と南京と東京には大量の蔵書があるので、死後はすべてまとめて南京図書館に寄贈したい、とも言い残した。
宋教仁にとって、蔵書は彼自身の「知の宝庫」であり、東京は蔵書を通じて近代科学を授けてくれた「母なる場所」だった。

大正2(1913)年5月
北京における「早稲田同学国会議員倶楽部」設立予備会
1913年5月29日正午、北京市燈市口にある徳富飯店において「早稲田同学国会議員倶楽部」の設立予備会が開かれた。恩師の有賀博士、青柳教授らも東京から招かれた。

先づ張継氏、日本語にて、吾人早稲田同学議員倶楽部は、其党派の如何に係はらず、公明正大なる態度を以て、邦家の為め人道の為めに尽くす所なかるべからざるを説き・・・・・。同倶楽部事務所を北京前門外安徽会館に設くること、母校に在りて、革命等の為めに未だ卒業せざりし議員諸君を校友に推薦せられんことを同倶楽部の名義にて高田学長に申請すること等を議決し、和気靄々の中に散会せり・・・実に上下両院を通じて群鶏の一鶴とも称するに足る人最も多きを以て、同倶楽部完全に成立の暁には有力なる団体となるべきを疑はず。

9月には再び相談会を開いて、正式に発足大会を挙行する予定だったが、張継ら発起人が袁世凱による北京追放の対象者となったため、計画は水泡に帰した。

孫文から中華民国臨時大総統の地位を引き継いだ袁世凱は、態度を豹変させて「帝政」の復活を主張し、自ら「新皇帝」を名乗って独裁政治を打ち出した。約2ヶ月前の1913年3月22日には国民議会の最高実力者で国民党の党首だった宋教仁が暗殺された。袁世凱が黒幕だったことが判明すると、居直った袁世凱は武力で国民党に解散命令を下す一方、国会議員400人を北京から追放して、子飼いの立憲君主勢力で議会を独占しようと図った。「早稲田同学国会議員倶楽部」の発起人を含む議員全員が武力で追われて散り散りになった。

1913年8月
孫文の日本亡命
「第二革命」が失敗し孫文は日本へ亡命しようとしたが、日本政府は手の平を返したように冷たい態度で滞在を許可しなかった。神戸の支援者たちが神戸で足止めを食らった孫文を匿った。孫文は、諏訪山にある常盤花壇別荘に1週間ほど身を隠した後、支援者たちが苦心して用意した船に乗り、横浜へと航行し、闇夜に乗じて富岡海岸に上陸した(京急富岡駅近くの慶珊寺に記念碑「孫文先生上陸之地」がある)。孫文は上陸後、海岸に手配してあった車に乗りこみ、東京の犬養邸へ直行した。ここで孫文はまた起死回生の策を講じることになる。

大正3年
松本亀次郎が東亜高等予備学校を創設
日本で最初にできた日本語学校は、嘉納治五郎が創設した弘文学院であるが、これは明治42年に閉鎖された。昭和20(1945)年の第二次世界大戦終結まで最も長く存続した日本語学校は、松本亀次郎の創設した東亜高等予備学校である。
松本亀次郎は、嘉納治五郎に請われて弘文学院の国語教師になったことで、中国人教育に関心を抱いた。松本は明治42年に弘文学院が閉鎖されると、東京府立第一中学の教師に転身、湖南省留学生の依頼により日本大学や大成館などの部屋を借りて日本語教室を開催した。
この日本語教室には留学生が殺到し、教室のやりくりができなくなり、翌大正3(1914)年、支援者から資金を集めて、神田区中猿楽町5番地に二階建て木造校舎を建てた。文部省の正式認可を申請して許可され、学校名は、曾横海との友情に端を発した学校という意味で「日華同人共立東亜高等予備学校」とした。

大正4年
李漢俊、東京帝国大学土木工学科へ進学
明治35(1902)年、李漢俊(14歳)は実兄李書城の留学に従って来日し、全寮制の暁星学校で6年間を過ごした後、名古屋の第八高等学校を経て、大正4(1915)年、東京帝国大学土木工学科へ進学した。
東京大学に残されている学籍簿に記された住所は、東京牛込区白銀町33番地(現、東京都新宿区白銀町6番。神楽坂の裏手にあたる相生坂の付近)。
大学時代の成績は芳しくなかったようだが、代わりに大量の読書を通じて社会主義思想の知識に精通した。

大正7(1918)年、合計16年を過ごした日本から帰国すると、故郷の湖北省には戻らずに上海の実兄の元へ身を寄せ、積極的に著作活動に励んだ。日本では雑誌『改造』などにも「李人傑」の名でよく寄稿したことから、日本でも中国の代表的な社会主義者として知られるようになった。

(つづく)




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