2020年1月23日木曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月4日(その2)「歩いている人に「これ読め」って朝日とかバットとか敷島とかのタバコを出して。それで日本人でもずいぶんやられたと思うんですけど、バットってことを朝鮮人は言えないんですね。ハットとかなっちゃう。そうすると「コノヤロウ」と言ってダーッと切るんですよ、日本刀ですよ。切り付けてそのまま行っちゃうんです。みんな自警団ですね。」  

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月4日(その1)「〔4日から5日頃〕朝鮮人が上野の方から押しかけてくるっていうんです。それで、15歳以上の者は全部出ろっていう村のおふれがあったんですよ。.....それで千住の柳原というところに朝鮮人がいて、もうそのときは死体になってましたがね。殺されちゃったんです。記憶では3体か4体ありましたね。めった打ちにされてましたですよ、鉄棒かなんかで。」
より続く

大正12年(1923)9月4日
〈1100の証言;板橋区〉
崔承萬(チェスンマン)〔独立運動家、教育家、済州島知事(1951~53)。当時東京朝鮮基督教青年会館総務〕
〔長崎村に震災前日引っ越したばかり。1日〕目白大学を過ぎると、そこから異様な気がした。竹棒・金棒・色々並べて不思議と自分たちの一行を見る。長崎の家へ着くともう真っ暗で、提灯だけが往来するのが見える。何十人という自警団がいて「止まれ!」と言い、並べておいて番号を言わせた。家に入ることもできなかった。妻と娘もいっしょに自警団に連れられて板橋警察署に行った。
4日夜頃、府立一中にあった臨時警察(警視庁)に、自分と学生団体の代表と相愛会総務金を呼びつけて、シャツ1枚の赤池が「すまない」とだけ言った。「流言蜚語でいろんな事件が起こった」と。「すまない」の意味は、自分が流言を流したのだが、自分の思わぬほどの事実が現れたということではないか。つまり「嘘」をついたのであるが、自分がやったとは言えない。だから「すまない」とだけ言った。夜9~10時頃「泊まるなら泊めるが、どうするか」と聞かれ、警視庁の車で警察ひとりつけて送ってくれ、と言ったら「よろしい」というので乗って行った。
途中何回も調べられた。100メートル間隔で提灯を持った自警団が、車のヘッドライトを見て「止まれ」という。軍人は正直だ。半蔵門あたりで捕まったが、警察ということですぐ通した。しかし自警団はいろんな事を聞く。大塚仲町までは行ったが、そこで数万人の自警団が竹棒・金棒を持ち「引っ張り出せ、殺せ」とドアを開けて引きずり出そうとした。刑事が押えながら「警視庁です」と言う。20分位もみあった。運転手が気を利かせてサイレンを鳴らして逃げた。
板橋警察所前100メートルにも2、3千人いて、同じように「朝鮮人を出せ」と引っ張り出そうとした。演武場に入った。竹棒を持った青年3人が門を開けて入り「この人達は拘留ですか」と聞いた。警官が「仮拘留です」と言うと、3人は変な表情をして「あっ、そうですか」と帰った。「保護」と言ったら殺されていたにちがいない。板橋警察署には55人ほど朝鮮人がいた。約1カ月そこにいた。運がよかった。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『韓国での聞き書き』1983年)

〈1100の証言;江戸川区〉
小櫃政男
〔浅草から被服廠へ行き、火傷で亀戸第一小学校に運ばれる。手当てもされず、「行け」と言われ小松川のおじさんの家を目指して電車道を行き、おじさん宅に着く〕夜になりますとみんな普通の住まいのところは寝ないんです。朝鮮人が暴れて来るというんでね。それでお前は火傷をして大変なんだからって、小松川の土手へ行って蚊帳を張って。その中へ寝かせてくれたんです。
そうすると表でドヤドヤと歩く音がするんですよ。何だと思ったら、朝鮮人を検査しているんですね。歩いている人に「これ読め」って朝日とかバットとか敷島とかのタバコを出して。それで日本人でもずいぶんやられたと思うんですけど、バットってことを朝鮮人は言えないんですね。ハットとかなっちゃう。そうすると「コノヤロウ」と言ってダーッと切るんですよ、日本刀ですよ。切り付けてそのまま行っちゃうんです。みんな自警団ですね。私なんか土手にいてその現場を見ていたんですから。恐いしね。寝ているどころじゃあないですよ。
〔略〕朝鮮人の話は、おじさんの家に行ったときですね。9月4日頃じゃあないのでしょうか。私は包帯巻きですから「お前は何だ」「朝鮮人だろう」なんて言われました。伯父さんやなんかがよくかばってくれたんです。ちょうど小松川の土手へ行く手前のところですけど。
(『江戸東京博物館調査報告書第10巻・関東大震災と安政江戸地震』江戸東京博物館、2000年)

須賀福太郎〔当時18歳し尿運搬船の仕事〕
今井橋には習志野の騎兵連隊が戒厳令で来ていた。当時、富士製紙には今の平田組と同じようにパルプを運んだりまきとりをしたりする木下組という運送の下請があって、その飯場に朝鮮人も働いていた。9月4日頃だったか、3人ばかりがひっぱられ軍隊に引渡され、夕方暗くなってから鉄砲で殺されるのを見た。後ろ手にゆわえられたまま川の中に飛びこむのを見た。このときはじめて、鉄砲の威力の恐ろしさをまのあたり知った。
(関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼実行委員会編『関東大震災と朝鮮人虐殺 - 歴史の真実』現代史出版会、1975年)

〈1100の証言;大田区〉
津田光造〔作家、評論家。鎌田で被災〕
一頃○○の暴動が来るという流説が伝えられて、蒲田の辺でも大した騒ぎだった。〔略〕青年団や自警団は抜き身の日本刀や軍刀やら竹槍を携えて警戒するという殺伐たる無警察の社会状態が出現した。ただ頼むものは自分の持っている暴力腕力(全くこの時ほど腕力の必要が身に泌みた事はない)。皆が生を賭して死と面接するような実に愉快な(全く愉快だった - 僕は近頃こんなに愉快な経験をした事がなかった!)実に活発な生活現象だった。僕は人間の道徳がこれ位に厳粛になる社会が来る事を夢想して、退屈な日を過した事はあったが、いまだかつてそれを現実に見た事がなかった! 僕も日本刀があれば持って出る所だったが、生憎持ち合わせなかったので、近所で鉄の棍棒を借りてきて自警団の一人に加わった。暴動、もしそういうものが押し寄せて来るにしても、こんな貧民窟の裏長屋へ来るとは思えなかったが、全く考えてみれば滑稽で仕方がなかったが、そんな知識階級面をした自分が何となく恥られて、何でもかんでも盲ら減法に祖先伝来の隣保団結の精神で結束して起ったものだ。そこには〇〇〇対日本人という変な国民的対立があって、それだけはどこも面白くなかったが、それも歴史的因果関係の存在する事実について考えると、この場合四の五のと理屈を並べ立てている暇がなかった。そんな事をいっている暇に、そこへ手負になった〇〇〇の暴徒がアバレ込んで来そうな気合いだった。近所近辺到る所の警鐘が、けたたましく乱打された。
4、5日というもの、自警団はほとんど寝ずの番だった。しかし、暴動らしい何ものも来なかったので、いささか張合抜けがした。と同時に疲れが出てきた。睡眠不足で頭が変になった。体の組織までも変わってきたかと思われた。戒厳令が布かれて、軍隊の手が回る頃には、もう全く出る勇気がなくなっていた。しかし、何でもない〇〇〇で殺された者には、全く気の毒でならなかった。うっかり〇〇〇の肩を持って目茶目茶に撲られた日本人もあった。僕も実は弱い○○のために弁護しなくてはならなかったが、自然に皆の中からそういう隣愍の情が沸き立つまで、息をころして待たなければならなかった。
(「大震と芸術 - 震災の感銘と印象」『我観』1923年同月15日号、我観社)

〈1100の証言;北区〉
鶴巻三郎〔当時芝浦製作所勤務〕
「不運鮮人射殺さる 荒川堤で200名」
鮮人との争闘は烈しく行われ、荒川堤では200人からの鮮人が射殺されました。ただ私は4日に東京を出ましたが、その頃は大部分の鮮人は郡部の方に逃げていました。
(『北海タイムス』1923年9月7日)

村田富二郎〔工学者。当時7歳〕
〔4日、赤羽で鉄舟の仮橋を渡る時〕 ここで初めて屍体を見た。土左衛門が荒川を流れてきた。〔略〕だれから聞いたのか忘れたが、荒川の死体は朝鮮人として殺された人だと言われた。「として」に注目していただきたい。実際に、朝鮮人だったか否かは不明で、混乱の中で、朝鮮人と誤られて、多くの日本人が殺された。もちろん、「朝鮮人なら殺されてよい」という意味ではない。〔略〕朝鮮人暴動のデマは、早くも2日に流布され、関東一円で10日程度も続く根強いものであった。暴動の警戒に、日暮里の寺では、中学4年の兄までがかり出されたし、「朝鮮人の女は、妊娠をよそおって、腹に爆弾をかくしているから気をつけろ」などの、微に入った指令までが伝達された。〔略〕日本人と朝鮮人の識別に、10まで数えさせ、つかえると朝鮮人にされてしまった。これで殺してしまうのだからむちゃな話であるが、そのむちやが通る混乱期だったのである。
(『技術と人間』1977年3月号、技術と人間)

山口好恵〔記者〕
前夜〔4日夜、赤羽〕停車場構内で捕えられた2人はあれから工兵隊に引渡され、同夜12時頃に又々暴人が出没するというので駅内客車の床下を隈なく捜索してみると、果して1名の暴人がボギー車の床下に逃げ込み、そこの機械等にしがみついて危険を冒しながらも列車と共に身を逃れんとしている所を突きとめられ、自警団の為に惨々殴られ、遂には荒縄を首にくくりつけて引摺回し寺の前でとうとう撲殺したというのである。
今朝まだ死体がそのままになっているというから記者も現場までいって見ると、そこは交番のすぐわきで成る程寺の門前で死体には菰がかけられてあるのでよくも判らぬが、見物の誰やらが菰をつまみ上げているのを一寸盗み見ると5尺豊の痩男で、だぶだぶのズボンに半袖の夏シャツを纏い頬骨の高い如何にも暴人若しくは不逞人に相違い、右頬は泥にまみれその他は蝋細工の様に色が変り、幾分青味を持ちつめたくなり、投げ出されている左手は虚空をつかみ、右手には赤い護謨靴を手拭に結びつけて放さずにいる。水落しから下腹部がぺっこり凹んで、両足は2本共伸びている。付近にはどす黒い血が土ににじんでいるし太い荒縄が首に結びつけたままになっている・・・。(注:暴人・不逞人は朝鮮人をさす - 編者)
(山口好恵編『地震と内閣』共友社、1924年→朝鮮大学校編『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』朝鮮大学校、1963年)

つづく





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