2023年4月19日水曜日

〈藤原定家の時代335〉正治2(1200)年7月15日~29日 定家、後鳥羽上皇が企画した『正治初度百首』作者に漏れる 就業に出る慈円について良経も出奔を企てる 定家の心神不快続く 「暁以後、腹病忽チ発ル。苦痛為方無シ。痢、数度ニ及ブ。又心身甚ダ悩ム。頭病ミ。手足傷ム。、、、心中殊ニ違乱ス。」    

 


〈藤原定家の時代334〉正治2(1200)年6月16日~7月13日 中宮任子へ宜秋門院の院号宣下 佐々木経高、京都に兵を集めて騒擾 3ヶ国守護職を没収 良経の室、産後に没 より続く

正治2(1200)年

7月15日

・後鳥羽上皇(21)が百首歌を企画し(「正治初度百首」)、義弟(妻の弟、藤原実宗の異母弟、宰相中将)西園寺公経より定家(39)を推薦したとの話が伝わる。「其ノ作者ニ入レラルベキノ由、頻リニ執リ申スノ由ナリ。若シ実事タラバ、極メテ面目本望タリ。執奏ノ条、返ス返ス畏リ申スノ由、返答シ了ンヌ。」。しかし、内大臣源通親が人選に介入、「老者(40歳以上)」を選ぶ事になり定家は撰に漏れる。

8月9日俊成(87)が院へ直訴し、定家は100首の作者に選ばれる。10日家隆・隆房、15日宜秋門院丹後もまた選ばれる。

25日定家、100首歌を提出。26日、解かれていた内の昇殿を許される。

7月16日

・慈円が、修行に出立。良経も共に車で山崎に向う。兼実に止められ、途中から家来に引きもどされる。良経室の無常に感じてのことであろうか。良経の逐電、さらに連れもどされた事について、定家は「此ノ事、頗ル由無キ事ニ似タリカ。世ノ風聞、穏便ナラザルカ。但シ此ノ聞エ出デ来ル後、京ニ帰ル。彼ノタメ二、見苦シカルベキカ。止メラルべカラザルカ。如何。余ノ事ヲ聞カズ、門ヲ閉ズ」。と記し、良経の悲嘆を思い、出奔を止められた事がよかったかどうか、判断に迷う。

7月17日

・定家(39)、病を扶けて、良経の許に参向。御前に在って、御墓所の事などを申す。御墓所は、法性寺の山上にて、御葬送は20日と。定家は病中にて、御墓所参籠の人数から除かれたが、志あらば葬送せよとのことであった。当時七条殿に留まる女房4人の中に、姉高倉局があった。しばらくして北の殿に参じ、女房に謁したが、八条院三位の局が参られていたので、所存を申し入れることが出来ず、女房に伝言した。仰せのごとく定家は、参籠し伺候する志である。定家は、まだ行歩ままならず、弱々しい。

7月18日

・定家(39)、後鳥羽院百首のことにつき、相公羽林公経に消息する。はじめ院は、定家を入れようとされたが、通親が妨げ、この度は老者のみ撰ぶという。古今、歌の堪能に老人を撰ぶことは未聞。ひとえに御子左家の定家を疎外する企てである。季経・経家は、六条家の人であるから定家も止むを得ないと思う。この日もまた、心神不快により籠居。健御前も物の怪に襲われた。

「七月十八日。天晴。早旦、内供来臨ス。請フニ依りテナリ。院、百首作者ノ事、相公羽林ニ相尋ネンガタメナリ。昨日、消息ヲ以テ之ヲ示ス。返事ニ云フ、事ノ始メ、御気色甚ダ快シ。而ルニ内府沙汰スル間、事忽チ変改。只老者ヲ択ビテ此ノ事ニ預ルト云々。古今、和歌ノ堪能ニ老ヲ択バルル事、未ダ聞カザル事ナリ。是レ偏ヘニ季経ガ賄ヲ盻(み)テ、予ヲ捨テ置カンガタメニ結構スル所ナリ。季経・経家ハ、彼ノ家ノ人ナリ。全ク遺恨ニアラズ。更ニ望ムベカラズ。但シ子細ヲ密々ニ注シ、相公ノ許ニ送リ了ンヌ。漸々披露ノタメナリ。存知スベキノ由、返事アリ。心神猶不快。指シ出デズ。」

7月20日

・良経室の葬送。定家(39)、病により供できず。青侍等に様子を見に行かせた。不忠なるかと嘆息。

「今夜出現セザル人、定メテ不忠ニ処スルカ。病患術無キノ間、已ニ計略無シ」

7月21日

・定家(39)、この日も暁以後、腹痛が発る。下痢数度に及び、頭痛、手足も痛み、終日不食。無力殊に甚だしい。荘園の伊勢の小阿射賀の沙汰をする者が来て、地頭不当を告げる。

「廿一日。天晴ル。暁以後、腹病忽チ発(おこ)ル。苦痛為方(せんかた)無シ。痢、数度ニ及ブ。又心身甚ダ悩ム。頭病ミ。手足傷ム。温気アルヲ以テナリ。但シ身殊ニ温カラズト云々。心中殊ニ違乱ス。」

7月22日

・定家(39)、歌仙覚盛が来訪するが、病と称して会わず。

7月25日

・定家(39)、やっと小康、式子を訪問、夜半ばかりに退出。

「権京兆(隆信)来臨ス。百首ノ事ヲ示シ合スタメナリ。棄テ置カルルノ身、更ニ其ノ沙汰ニ及バザルカ。」

7月26日

・定家(39)、法性寺の良経室の二七日の仏事に参向。宰相中将の許に行き、委しく後鳥羽院の御気色の趣を聞く。思う所を述べて辞す。

「此ノ百首ノ事、凡テ叡慮ノ択ニアラズト云々。只、権門ノ物狂ヒナリ。弾指スベシ」と、通親の専横を憤る。

7月26日

・この日以後8月8日までに、俊成「正治二年和字奏状」を書く

7月27日

・定家(39)、嵯峨に行き、萩を見る。旱天のため、近辺の井水出ず、ここも又乏少と。8月1日帰京。

7月29日

・九条家と宜秋門院の女房たちが、広隆寺・栖霞寺に詣でたついでに同乗して、定家の山荘に立寄る。定家もともに舟で法輪寺に参詣、また山荘に帰り、小浴の後、日没に帰った。山荘には、女房たちが、気楽に立寄れるような雰囲気があったのであろう。

「七月二十九日。天晴。午終許リニ、女房一車ニテ来臨ス(九条殿ニ、丹州・越中。女院、濃・備・筑等ノ五人卜云々)。広隆・栖霞寺ニ参詣卜云々。小時アリテ相伴ヒ、法輪ニ参ズ。舟ヲ以テ之ヲ渡ル。礼仏ノ後、又還り入ル。小浴ノ後、帰路ニ赴ク。即チ、日入り了ンヌ。」


つづく

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