正治2(1200)年
6月16日
・大江広元、京の蹴鞠者を自邸の「後山麓」に新造した屋(『吾妻鏡』には「山水あり。立石あり。納涼逍遥の地なり」と表現されている)に呼び寄せ、頼家を招いて勧盃管弦(げんぱいかんげん)の儀と蹴鞠が行なわれる。
6月21日
・「岡崎四郎平の義實法師(年八十九)卒す。三浦庄司義継四男と。」(「吾妻鏡」同日条)。
6月28日
・中宮任子(兼実の娘)への「宜秋門院(ぎしゅうもんいん)」の院号宣下される。再入内の可能性はなくなる。
6月29日
・政子、梶原景高(景時の子)の妻(かつて政子に仕え、「御寵愛比類ナシ」といわれていた女性)への所領(尾張国の野間・内海など)を安堵。
「故梶原平次左衛門の尉景高妻(野三刑部の丞成綱女)は尼御台所の官女、御寵愛比類無し。且つは女性たりと雖も、その仁たるに依って、故将軍の御時、尾張の国野間内海以下所々を拝領すと雖も、夫誅戮の後一切隠居し、頗る恐怖の思いを成すと。仍ってその沙汰有り。領所等相違有るべからざるの旨、今日仰せを蒙り安堵せしむと。」 (「吾妻鏡」同日条)。
7月1日
・頼家、鵜船を観るために相模河に行く。畠山重忠・葛西清重らが供奉。8日、鎌倉に戻る。
7月1日
・定家(39)、静快より護身を受けるが、平快もつかの間、この月下旬まで病む
7月2日
・定家(39)、日吉社に参詣。
7月5日
・定家、父の指示により某氏に「単衣重ネ二領、紅袴二腰、生(すずし)ノ小袖、二領」を賄賂として送らなければならない。翌日、その某氏から令状がきて「本意ト謂フベシ」となる。
7月6日
・尼御台所(政子)は京都で描かせた十六羅漢像が鎌倉に届く。政子が確認した上で寿福寺の送る。
15日、開眼供養。
7月6日
・~8日(3日間)藤原定家、為家を中宮御所へ、7月23,24日には兼実のところに連れて行く。
7月9日
・定家(39)、嵯峨に、年々見たいと思っていた稲刈を見に病を扶けて出かける。ここ西郊は、庭に秋の草花が咲き、薄も穂を出している。翌日帰京。
「七月九日。天晴。早旦、密々嵯峨ニ向フ。心神殊ニ悩ム。長途堰へ難シト雖モ、年々障、有リテ、秋稼ノ時ヲ見ズ。昨年、木守丸来タリ、已ニ獲メント欲スノ由ヲ告グ。仍テ、強ヒテ行キ向フ所ナリ。庭花已ニ綻ビ、秋盛ニ異ラズ。薄ノ色又以テ同前。是レ西郊ノ験カ。尤モ珍トナス。今日田ヲ刈ル。人云フ。今日、京中騒動。武士、六波羅ニ集マルト云々。其ノ由ヲ知ラズ。」
7月9日
・佐々木経高、京都に兵を集めて騒擾。
8月2日、淡路・阿波・土佐3ヶ国守護職を没収される。朝廷が罷免要求し、幕府がこれに応じる(「吾妻鏡」8月2日条)。
「人云く、今日京中騒動す。武士六波羅に集まると。その由を知らず。」
10日「武士の事実事有るに似ると。その由を知らず。但し大略天魔の所為か。生躰無しと。」(「明月記」同日条)。
「六波羅の書状等到来す。佐々木中務の丞経高、帝都警衛の人数たりながら、朝威の條々を軽ろじ奉るなり。これ洛中に於いて強盗人を生虜ると称し、その次いでを以て近隣の民居等を追捕す。しかのみならず淡路の国を守護せしむの間、国司の命を蔑如し国務を妨げるの上、去る九日淡路・阿波・土佐等の国の軍勢を催し聚め、各々甲冑を着し騒がしめ給い、殆ど天聴を驚かし奉る。濫觴を尋ね問わるるの処、敵の為に襲われんと欲するの由これを申すと雖も、更に実證無し。所行の企て奇怪一に非ず。早く関東に達すべきの旨勅命に及ぶと。上皇頻りに逆鱗すと。」 (「吾妻鏡」7月27日条)。
「昨日、佐々木中務入道(経蓮)、子息高重を以て一通の疑状(去る月二十一日の状)を捧ぐ。今日遠州善信を以て彼の状を披露せしめ給う。これ身に於いて所犯無しと雖も、傍人の讒に依って御気色を蒙るの條、愁訴を含むと。その旨趣、初めに科無きの旨を謝し、後に数度の勲功を載す。去年七月用心を致す事、大和の国の賊首等謀叛を企て王城に群集するの由、諸方の告げに就いて、淡路・阿波・土佐三箇国の御家人等を召し聚む。頗る忠節と謂うべきか。随って彼の時に当たり、圓識法師と号する者叛逆を巧み、縡露顕するの間、伊賀の新平内が為に生虜らる。経蓮が用心を怖畏せしめ、宿望を達せざるの條掲焉なりと。勲功と謂うは、関東草創の最初大夫の尉(兼隆)を誅せしめ給うの時、経蓮兄弟四人、討手の人数に列なりしより以降、世静謐に属くの今に至るまで、度々身を忘れ命を棄て敵陣を破ると。爰に評議の淵源を究められ、免せらると。但し所領等に於いては、只今は返し付けられずと。」 (「吾妻鏡」翌建仁元年5月6日条)。
7月11日
・良経の室(34,能保女)が出産した。健御前、病悩のため、聖尊阿聞梨の護身を受けているが、定家も病気にて、見舞うことが出来ない。
7月13日
・良経の室、産後に絶え入ると。驚いて忠弘をもって見舞うと、人々周章の気ありといえども、例に復されたと帰って来て告げる。去る6日から赤痢に躍り、御食事なく、御産以後重態であると。再び忠弘が参上すると、遂に逝去。
良経室は、建久2年6月の結婚、10年の配偶、7人の子をのこして、34歳の若さで逝去した。九条家には、何かの祟りがあり、七度目の御産は、いつも危いということで、春より万事慎んでいたところだった。良経は、兄良通につづき、最愛の妻を喪った。
「無常ノ理、驚クベカラズト雖モ、時ニ臨ミ、心神無キガ如シ。折柄籠居、旁々嘆キトナス。抑々此ノ一家ノ滅亡、別ノ祟リアルカ。連年此ノ事アリ。誠ニ然ルベキ事カ。御年卅四。建久二年六月配合。今十年ノ中、誕生ノ男女、今度相加へテ七人(彼ノ御辺、第七度ノ産、必ズ事アリト云々。之ニ依り殊ニ御憤ミアルノ由、春以後之ヲ聞ク。誠ニ厳重カ)。伝へ聞ク、殿下頻リニ南殿ニ渡ラシメ給フベキ由ヲ仰セラル。御便、上下十余度往反。其ノ御返事無シト云々。或ハ云フ、昏ニ臨ミ、明日渡ルベキノ由、申サンメ給フト云々。又御葬儀光明院ノ由、粗々其ノ聞エアリ。未ダニ一定アラズト云々。左大丞、使者ヲ送リ、大臣殿二申スベキ事等ヲ相示ス。所労籠居ノ由、答へ了ンヌ。今日、心神聊カ宜シ。仍チ念誦ス。」
つづく
0 件のコメント:
コメントを投稿