2023年4月22日土曜日

〈藤原定家の時代338〉正治2(1200)年9月11日~30日 定家、院の御所二条殿に招かれ歌合に出席 定家と後鳥羽院との和歌を通じての交流始まる

 


〈藤原定家の時代337〉正治2(1200)年8月23日~9月10日 定家、父俊成・兼実・良経の下見のあと「正治初度百首」を後鳥羽院に提出 翌日、内昇殿を許される より続く

正治2(1200)年

9月11日

・後鳥羽院の第四皇子雅成親王、誕生。母は重子。

9月11日

・定家、故良経室月忌仏事に参仕。13日の御月忌、日次宜しからず、今日御仏事を修される。良経の許に参じ、御墓所に車で御供する。院で誰か女房の御産が有った由。勿論、後鳥羽院の御子である

又丹後の歌を見る。三度も見たところをみると、良経と、定家が添削したか。

健御前を坊門の宅に送る。日吉参詣の精進をはじめるので、世間を忌むためである。

御墓所に参じようとすると、途中で還御の良経に逢い、御供して法性寺に行く。御仏事あり。終って御前に参ずる。歌の沙汰などあるの間、慈円の消息あり。七仏薬師、日中の時御加持の間、無事皇子誕生とのこと。深更に退下。

9月12日

・定家、十首歌の詠進を命じられる。

9月13日

・定家、『仙洞住人歌合』のための十首を披露。披講は23日以降。式子邸に参向。

9月14日

・定家、道誉より歌を求められる。

9月16日

・定家、御堂の懺法に参仕

9月17日

・定家、式子邸に参向。今日、良経、御心地殊にむつかしくおわしますと。日来、御灸のただれある由。しかも御足の腫れ、事の外に痛み給うと。

9月19日

・定家、良輔家作文。御堂の例講に参仕

9月20日

・定家、良経邸南殿に参上。女房の言によれば、昨夜、今朝殊にむつかしくおわしますと。為家を相具して、東殿に参じて退下。又良経より召しによって、申の時許りに参ずるの間、慈円御堂にあり、隆信も参会。

亥の時許りに、頭弁・隆雅・忠行朝臣等と相共に和歌を講ず。今夜、殊に人なし。北面の者等、わずかに両三名。例に似ぬ事である。公卿歌を送る。只一人なり(経家)。披講終って連歌(五色を賦す)。百句了りて退出。「狂事数奇なり」。夜明けに家に帰る。

9月21日

・定家、南殿に参向。良経の百首の歌を給わり、俊成の許に持参する。日没、西六角に俊成がいるので赴く。能州来りて合す。良経の百首歌の事を委しく申す。

9月22日

・定家、小阿射賀荘の厨官等、例の地頭、昨日上洛したので、文義を以てこれを召し問う。

9月23日

・定家、良輔家作文。式子訪問。

9月26日

・定家、十首の歌を後鳥羽の命により院に参り付け進める。式子邸に参向。

9月27日

・良経、今日歌を院に詠進する。

百首の清書、色紙は、打ったものであるが、わざとうちたると見えぬほどに、打ちやわらげた黄色の紙である。仰せにより、一反これを見る。僻言(ひがごと)なし。「しろたえ」とあるを「しろたへ」とやいう由申す。これを巻く。今一枚、礼紙を巻いて、その上に同じ色紙を細く切り、封じて墨を引いて、檀紙につつみ、立文のようにて、「シリガシラ」はひねらずに押し折りて、一つつみ。

十首は、普通の「タケタカ檀紙」に清書。叉檀紙に懸紙を切って封し、二枚をもって百首の如くつつむ。兼実に見せて後、兼時をもって、院に奉られる卿典侍に付けられる。十首は長房に付けられる。各々題を献ぜられた。

詠進の書式がよくわかる記録である。

定家、良経詠進の百首、十種を見る。

9月28日

・定家、歌合をするということで頭中将源通具の歌一巻に判をして、注を付けて返す。その歌も七つともよろし。その室俊成卿女が詠んだのであろう。

9月30日

・この日、定家、院の御所二条殿に招かれ歌合(『院当座歌合』判者俊成)に出席。俊成も参向。鴨長明も参着。二条院讃岐に迎えの車を給う。俊成仰せによりて題を献ず。定家、歌を書く。作者を付け持参する。良経が読み上げ、終って退下する。

定家と後鳥羽院との和歌を通じての交流始まる

「今夜ノ歌、荒無ノ上、評定等区々ナリ。二首負ケ、一首持。旁々以テ恐レ恥ヂ了ンヌ。但シ、歌ハ遺恨ニアラズ。予、賛詞ヲ加へズ。人又挙ゲズ。御製伺ヒ知ラザルノ間、歌毎ニ怖畏ス。毎事ニ還リテ興無キモノナリ。即チ鶏鳴ニ退出ス。」


つづく


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