正治2(1200)年
8月23日
・定家(39)、百首を明日提出するよう下命があり、「卒爾周章」と急なことであわてる。20首ばかり足らないが、父俊成に下見を請う。難はないから「早ク案ジ出シテ、進ズベキナリ」と言われる。
8月24日
・定家(39)、「和歌周章(あわて)テ構ヘ出シ」、兼実・良経に百首の下見を請う。二条院讃岐の百首を見る。
8月25日
・定家、再度、兼実・良経に百首を見せて、「猶、三首許リ甘心(こころよか)ラザルノ由、仰セラル。案ズト雖モ出デ来ズ。又、一二首許リ之ヲ書キ」、やっと「正治初度百首」を後鳥羽院に提出。
定家は生涯で二度父の助けを借りて大事な場面を切り抜けている。一度目が、若い時分に起こした宮中での暴行事件、二度目がこの『正治初度百首』である。この時父の推挙がなければ、その後における歌人としての歩みは大きく変わっていたに違いない。
こうして作った百首歌を8月25日に上皇に進めたが、その一首に次の歌が見える。
君が代にかすみをわけしあしたづのさらに沢べの音をや鳴くべき
後鳥羽天皇の御代に殿上人として交わった私(あしたづ)が、今の土御門天皇の御代になって地下として嘆いたままになるのでしょうか、という内容である。かつて殿上人を解かれた時に父俊成がとりなしてくれた「あしたづの雲路まよひし」の歌を念頭において作ったものである。
定家の歌は上皇に認められ、翌日には内の昇殿も許される。
8月26日
・定家、百首の「地下述懐」に憐憫あって内昇殿が認められる。
昨夜の歌の中に地下述懐の歌(自身の不満を詠んだ歌)があり、院が憐愍の情を持たれたからであろうとし、「今百首を詠進してただちに(昇殿のことを)仰せられたのは、道のため面目幽玄である。後代の美談ともなる」と『明月記』に記す。
「頭弁(資実)、書状ヲ送リテ云フ。内ノ昇殿ノ事、只今仰セ下ス所ナリトイヘリ。此ノ事、凡ソ存外。日来更ニ申シ入レズ。大イニ驚奇ス。夜部(よべ)ノ歌ノ中ニ、地下ノ述懐アリ。忽チニ憐愍(れんびん)アルカ。昇殿ニ於テハ、更ニ驚クベキニアラズ。又懇望ニアラズ。今百首詠進、即チ仰セラルルノ条、道ノタメ面目幽玄ナリ。後代ノ美談タルナリ。自愛極マリナシ。」
8月27日
・定家、故良経室の仏事に参仕。29日も。
8月28日
・定家、今度の百首が叡慮に叶う旨、方々より仄聞する。式子邸に参向。
「今度ノ歌、殊ニ叡慮ニ叶フノ由、方々ヨリ之ヲ聞ク。道ノ面目、本意何事カ之ニ過ギンヤ。」
8月30日
・定家、法性寺殿に参ずると、良経は御墓所というので、追ってそこへ参向。瞼岨を攀じる。しばらくして、山の峯の方を御覧ず。人々騎馬にて参ず。定家の馬、深泥に陥ちて湿損する。兼時、信光等と歩行し、最勝光院に入る
9月2日
・頼家、小壺の海辺を見て廻り、恒例の笠懸のあと、海上に船を出し酒宴。灯ともし頃、鎌倉に帰る。(吾妻鏡)
9月2日
・定家、はじめて昇殿。この日、良輔家作文。兼実の命により粟田口で兼雅の仏事に参仕。
「野剣ヲ帯シ、笏ヲ取り、相向ヒテ還タ昇ル。又還リ来リテ舞踏ス。剣笏ヲ撤シテ昇殿シ、殿上ニ着ク。 - 入道殿ニ参ジ、申シ承リ、午終許リニ退出シ、粟田口ニ向フ」
9月5日
・定家、式子内親王と良経の百首を見る。いずれも、「神妙」「殊勝不可思議」の出来映えと感歎する。定家は自負の強い人であるが、この二人の天才には及ばぬと思っていた。
姉の延寿御前が、女の子を連れて、健御前を訪問する。延寿御前は、同腹の八条院中納言で、民部大輔頼房の妻となり女子を生んでいる。
「九月五日。天晴陰。夜ニ入り、暴風雷雨。巳ノ時、大臣殿ニ参ズ。 - 又退出シテ大炊殿ニ参ズ。御歌ヲ給ハリテ之ヲ見ル。皆以テ神妙ナリ。秉燭ノ程、盧ニ帰リ、又大臣殿ニ参ズ′。又御歌ヲ見ル。殊勝不可思議ナリ。深更ニ退下スルノ後、大雨雷鳴アリ。今日、延寿御前渡ラル(女子ヲ相具セラル)。健御前ニ謁シ、帰ラル。」
9月8日
・定家、隆信と和歌について談ず。後鳥羽院は、定家の詠歌に深く感動されたと語る。異父兄の隆信一家とは、終生親交があった。
「九月八日。天晴。 - 夜ニ入り、隆信朝臣来談セラル。和歌ノ事ナリ。歌、猶以テ殊ニ御感アリト云々。面目卜謂フベシ」
9月9日
・定家、宜秋門院丹後の百首を見て、良経に感想を述べる。丹後も讃岐と同じ旧風である。
式子又重悩、鼻水が出て重悩、両3日発熱という。
この日、定家、法輪寺に参詣、同日帰京。
「九月九日。天晴。 - 丹後ノ歌ヲ給ハリテ見ル。南面ニ召シ入レラル。仰セヲ承り、所存ヲ申シテ退下ス。大炊殿、昨日ヨリ殊ニ重ク悩マセオハシマスト云々。去ル二日ヨリ御鼻垂レ、此ノ両三日、温気卜云々。」
10日、良経の前で丹後の百首を評定。
つづく
0 件のコメント:
コメントを投稿