建仁3(1203)年
9月1日
「将軍家御病悩の事、祈療共にその験無きが如し。これに依って鎌倉中太だ物騒す。国々の御家人等競い参る。人々相謂う所は、叔姪戚等不知の儀忽ち出来すか。関東の安否、蓋し斯時なりと。」(「吾妻鏡」同日条)。
9月2日
・比企氏事件(比企氏の乱、比企氏の変)
頼家が回復する。比企能員(ひきよしかず)は時政の強引な家督相続を頼家に訴え、頼家は「北条時政追討」を能員に密かに命じる。この一部始終は、頼家の母・政子が聞いていて時政に急ぎ知らせる。能員は逆に法事を名目に時政の邸に呼び出され、殺害。その後、政子の指令により比企一族・源一幡(6)殺害。
〈事件の詳細〉
9月2日朝、能員は、娘の若狭局を通じて病床の頼家に北条氏の専断を訴える。頼家はここで初めて家督譲与のことを知る。
能員は、千幡への地頭職分与は将軍権力の二分につながり、「乱国ノ基ヲ招ク」と説き、実朝の乳母父たる時政一族討減を要請。かねてより北条氏が将軍の権力を押さえつけている事に不満を持つ頼家は能員の訴えに応じ北条氏討伐を命じる。
この密謀を隣室に居た政子が障子越しに聞きつける。政子は、名越の北条邸(名越)に帰宅途中の時政に使いの女房を送り、頼家と能員の密謀を知らせる。
時政は、政子からの連絡を受けるや、政所別当大江広元邸に向かい、広元に対し頼家の病気を利用して逆謀を企てる比企氏の討減を申し入れる。
これに対して広元は、「幕下将軍(頼朝)御時以降、政道を扶(たす)くるの号あり。兵法においでは是非を弁(わきま)えず。誅戮や否や、よろしく賢慮有るべし」(私は、頼朝様以来政道を補佐するものではありますが、兵法のことはよく分かりません。比企氏を討伐するかどうかについては、賢明な判断を下すべきです)と応える。広元は、比企氏追討に賛意を示した訳ではなく、「よろしく賢慮有るべし」と明言を避けている。ところが時政は、この返答を得るやいなや、すぐさま広元邸を出て、天野遠景(とおかげ)・仁田(にった)忠常に能員追討を命じる。
時政は、比企討伐臨むべく政子邸(名越殿)で協議を始め、大江広元も招かれた。
広元は、随行を申し出る家人たちをおしとどめ、飯富宗長一人を伴って政子邸に向かう。宗長は本名を宗季といい、平家方の侍大将源季貞の子であったが、武芸と弓矢作りの技術を頼朝に買われて御家人に列することを許されたという過去を持つ人物。
広元は政子邸に向かう途中、宗長に「世上のていたらく、もっとも怖畏すべきか。重事においては、今朝細砕(さいさい)の評議を凝(こ)らされおわんぬ。しかるにまた恩喚(おんかん)の条、はなはだその意を得がたし。もし不慮の事あらば、汝まず予を害すべし」(世上は不穏で、恐ろしい。今朝十分な協議をしたばかりだとういうのに、また召集されるというのは、誠に納得がいかない。何か不慮の出来事が起きたら、お前はまず私を殺しなさい)と述べたという。なお、北条本『吾妻鏡』原文は「予を害すべし」だが、吉川本では単に「害すべし」となっており、「相手を殺せ」という表現にもとれる。時政との話を終えた後に再び呼び出しを受けたことに、広元は身の危険を感じ取っていた。
頼家は広元の邸で療養していた。その頼家が比企氏の陰謀に関与していたのかどうかを、広元は十分に認識していたにちがいない。景時追放の時と同様に、頼朝の幕府草創を支えた有力武士が軽々しく討伐されることに疑問をいだいていた広元は、北条氏の行動に全面的に同意することができなかったのだろう。比企氏討伐における広元の立場は、北条氏にとってかなり不都合なものだったのであり、それ故に広元は自身の危険な状況を察知していたと考えられる。
時政は、その日のうちに使者を能員のもとに送り、名越の北条邸での薬師如来像の供養会への参列を求める。能員は密謀が北条氏に知られているとは全く気づかず、平服で僅かな供とともに北条邸に入り、天野遠景と仁田忠常に討ち取られる。能員による時政追討計画が露顕したその日のうちに仏像供養を行うとは、かえって時政の行動には綿密な計画性が認められる。
能員謀殺を知った比企一族は、一幡の小御所に入る。尼御台(政子)が病床の将軍代行となり、鎌倉の御家人に比企氏討伐令を出す。午後3時、時政の嫡子義時を大将とする泰時・平賀朝政・畠山重忠らの軍勢が小御所を取り囲み、攻め寄せた。比企一族は一幡と若狭局を守って戦うが、劣勢となり、小御所に火をかけ、比企一族は一幡を囲んで自刃。頼家の外戚として権勢を誇った比企一族は、1日で滅亡。
この時、若狭局が産んだばかりの嬰児(女、のちの媄子(よしこ))は、難を逃れ、政子が誰かに命じてこの娘を養育させた。のち、実朝没後、京都から将軍として迎えた藤原頼経に、この娘を嫁がせる。
比企能員:
養母が頼朝の乳母・比企尼(伊豆流人時代、頼朝に米などの仕送りを続ける)。頼朝の旗揚げ以来、側近として活躍。妻は2代将軍頼家の乳母、娘の若狭局は頼家の妻で、子の一幡を生む。将軍の外戚・能員は北条時政と並ぶ権力者だが、将軍後継ぎ問題に端を発して、時政との不和が表面化。時政は先手を打ち、仏事と偽り能員を自邸に招いて謀殺。能員が時政により殺害されたとの報を受けた比企氏一族郎党は小御所(一幡の館)に篭城し抗戦の構えに出る。これに対して政子は、北条氏が中心の比企氏追討部隊を派遣。一幡・若狭局共々比企氏一党を滅ぼす。更に兵を比企の屋敷(現妙本寺)に差し向け、比企一族を皆殺し。
比企氏の没落は若狭・越前を直撃。能員妹が母の若狭忠季・同腹の兄島津忠久は全所領を没収される。
若狭:守護忠季はその地位を失い、12月22日、今富名・国富荘・前河荘などの遠敷・三方両郡16ヶ所は二階堂行光、太良保・瓜生荘などの遠敷郡9ヶ所は中条家長に与えられる。翌元久元年(1204)8月29日行光の16ヶ所は忠季に返還。家長の9ヶ所は返還されず。守護については不明。いずれにせよ、建久当時の忠季の若狭における圧倒的な立場が崩れたことは間違いない。
越前:守護は交替して大内惟義が就任と推測(惟義の守護在職を示す初見は「天台座主記」建暦3年(1213)5月4日条であるが、補任はこの時期ではないか(後、大内氏に替わって島津忠久が守護となる)。
大内惟義:義光流の源氏の武蔵守義信の子として幕府内で高い地位をもち、相模守・駿河守に補任、摂津・伊賀・伊勢・美濃・丹波の諸国守護を兼ね、在京後家人で検非違使にもなる。
島津家初代当主島津忠久:比企能員の乱に縁座(能員の義姉の子)し、3ヶ国(大隅・薩摩・日向)守護などを罷免。まもなく薩摩守護にのみ復する。
つづく
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