2023年9月2日土曜日

〈100年前の世界051〉大正12(1923)年9月2日 朝鮮人虐殺③ 〈軍隊の出動〉 〈万歳で迎えられた軍隊 すゑられた機関銃 旧四ッ木橋での虐殺〉 〈亀戸地区に進駐した軍隊〉   

 

『風よ鳳仙花の歌をはこべ』

〈100年前の世界050〉大正12(1923)年9月2日 朝鮮人虐殺② 〈公文書による流言の拡大〉 〈9月2日に警官や軍人が流した流言〉 〈朝鮮人虐殺を容認した警察官の発言〉 より続く

大正12(1923)年

9月2日 朝鮮人虐殺②

〈軍隊の出動〉

震災直後の午後1時10分、第一師団長は衛戍司令官代理として、東京在営の近衛・第一師団の各部隊に対して警備区域をきめて出動させた。

警視総監の回想によれば、戒厳令発布を内務大臣に建言したのは午後2時頃で、二転三転ののち条文の一部施行(行政戒厳)として摂政の裁可を得たのは2日午前。これが、東京市と隣接5郡に発布されたのは、資料によってばらつきがあるが2日夕方頃。

軍隊の配備は、これ以前に着々と進んでいた。

はじめ、墨田川より東部に出動したのは、国府台、習志野、下志津(現佐倉)などから。最も早い部隊の到着は1日夜半であった。

この1日夜、南葛西部では流言蜚語が飛び交っていた。1日夕方、吾嬬町の東武線踏切で憲兵がピストルを発射して、「朝鮮人が井戸に毒を入れる」「かようなる朝鮮人は見たら殺せ」と言ったという。こうした流言や煽動は、非難してきた人や町の人を巻き込み、朝鮮人を「敵」として迫害・虐殺が始まった。

更に、旧四ッ木橋周辺では軍隊により機関銃が据えられ大量虐殺に至る。


〈万歳で迎えられた軍隊 すゑられた機関銃 旧四ッ木橋での虐殺〉  『風よ鳳仙花の歌をはこべ』より

軍隊の出動日時ははっきりとは分からない。旧四ッ木橋周辺で言えば、2日ないし3日だったようだ。軍隊の出動によって殺された朝鮮人の数は急激に増える。軍隊は河川敷に機関銃を据えて朝鮮人を殺害した。


「軍隊が来たときは、みんな守りに来てくれたとおもって、『万歳!万歳!』の大歓迎でした」(横田)


「憲兵はあくる日国府台から来ました。あくる日あたりではなかったでしょうか。軍隊が来たのは早かったですよ。四ッ木橋は習志野の騎兵でした。習志野の兵隊は馬で来たので早く来ました。・・・・・それから朝鮮人殺しが始まりました。兵隊が殺したとき、みんな万歳、万歳をやりましたよ。」(高田〔仮名〕)


「軍隊は2日あたりから来ていた。いきなり戒厳令で町角町角に歩哨を立てていて、町を歩いていると『だれか』と言っていた。初年兵ばかりを使っていた。

2日か3日ごろ、軍隊が荒川の葦のところに機関銃を打ちこんで、危なくて近づけなかった。

旧四ツ木橋に兵隊を連れた将校が先達で来て2、3人射殺したという話を聞いた。殺されたのは共産系の人だという話もあった。旧四ツ木橋あたりは死体がゴロゴロしていた。」(長谷川〔仮名〕)


「二二、三人の朝鮮人を機関銃で殺したのは旧四ッ木橋の下流の土手だ。西岸から連れてきた朝鮮人を交番のところから土手下におろすと同時にうしろから撃った。一挺か二挺の機関銃であっというまに殺した。・・・・・朝鮮人を連れてきたのはむこう岸(葛飾側)の人だった。寺島に連れていかれる前に四ッ木橋の土手下で殺された。兵隊は震災から二、三日してきたが、歩きで騎兵ではなかった」(大川[仮名])


「一個小隊くらい、つまり二、三〇人くらいいたね。二列に並ばせて、歩兵が背後から、つまり後ろから銃で撃つんだよ。二列横隊だから二四人だね。その虐殺は二、三日続いたね。・・・・・朝鮮人の死体は河原で焼き捨てちゃったよ。憲兵隊の立ち合いのもとに石油と薪で焼いてしまったんだよ。それは何回にもおよんでやった。だから四ッ木橋ところを掘っても骨は出ないですよ。」(田中[仮名])

「四ッ木橋の下手の墨田区側の河原では、一〇人ぐらいずつ朝鮮人をしばって並べ、軍隊が機関銃でうち殺したんです。まだ死んでない人間を、トロッコの線路の上に並べて石油をかけて焼いたですね。・・・・・

(略)

兵隊がトラックに積んで、たくさんの朝鮮人を殺したのを持ってきました。そう、河原でころしたのもいます。ふつうのなんでもない朝鮮人です。・・・・・むこうを向かせておいて背中から撃ったね。軍隊が機関銃で撃ち殺し、まだ死なない人は、あとでピストルで撃ってました。」(浅岡重蔵)

南葛西部の3警察署に「保護収容」された朝鮮人(9月1日夜~)

寺島警察署236人(署内で殺害された朝鮮人は、「吉野作造調査」13人、「金承学調査」で14人とされる)、亀戸警察署250人、小松川警察署400人(5日に習志野に移送)


亀戸地区には習志野騎兵隊などが9月2日午後には進駐していた。

騎兵隊第13連隊機関銃隊の殊勲行動記録によれば、機関銃隊の岩田文三大尉ほか52名は2日夜7字頃に亀戸駅に到着した。一旦亀戸に着き日比谷に行きまた戻って来た。駅周辺は真っ暗闇で避難民が集まり非常な混乱状態であり、このような状態の時に朝鮮人が襲ってくるとの流言が生じた。

「殆ど狂的に昂奮せる住民は良否の区別なく鮮人い対し暴行するのみならず、或は警鐘を乱打し或は小銃を発射するものあり」という有様であった。この夜、機関銃隊は一睡も出来なかった。

この時点では、軍隊も警察も朝鮮人暴動の流言を信じ込んでいたため、この夜に朝鮮人を殺傷したのは一般民衆だけだったとは考えにくい。

後出する崔承萬氏は亀戸警察署内での朝鮮人虐殺を証言している。

また更に後出する全虎岩氏も亀戸警察署内での収容された朝鮮人の虐殺と南葛労働会の川合義虎殺害を示唆する証言を行っている。

習志野騎兵連隊に属した越中谷利一氏は、9月2日に軍隊が亀戸駅周辺で起こした行動を記録している(後出)。

習志野には近衛師団騎兵第1旅団(第13,14連隊)と第1師団騎兵第2旅団(第15,16連隊)などがあった。兵営は総武線津田沼の近く。慌ただしく招集され、実弾をこめた銃を背負い、市川から小松川橋を渡る。2日午後2時頃、部隊が亀戸に到着するや、まずはじめの行動は将校を先頭とする朝鮮人の殺害だった。

「・・・・・直ちに活動の手始めとして先ず列車改め、と云うのが行われた。数名の将校が抜剣して発車間際の列車の内外を調べるのである。と、機関車に積まれてある石炭の上に蠅のように群がりたかった中から果たして一名の××人が引摺り下ろされた。憐れむべし、数千の避難民環視(ママ)の中で、安然秩序の名の下に、逃れようとするのを背後ろから×××××××××××仆れたのである。と、避難民の中から、思わず湧き起こる嵐のような万歳歓喜の声。(国賊!×××××××××××!)

これを以て劈頭の××とした連隊は、其日の夕方から夜に這入るに随(したがっ)ていよいよ素晴らしいことを行(や)り出したのである。兵隊の斬ったのは多く此の夜である」

騎兵第15連隊にいた田島完一氏は、9月1日夜中の12時頃非常呼集があり、実弾30発を持たされ出動し、江戸側下流の下江戸川橋(今井橋)に約1週間駐屯した。この橋では、9月2日、4日に計3回、合わせて8名の朝鮮人が騎兵第15連隊の坂本軍曹らによって殺害された。これらの殺害は、衛戍勤務令によって正当な行為として認められた。"

この頃、国府台の第1師団野戦重砲兵第3旅団でも隷下の野戦重砲兵第1連隊、第7連隊、騎砲兵大隊に出動準備をさせていた。

野銃第1連隊からは、2日や半までに6次の救援隊が出動した。第1救援隊高梨少尉以下31名は1日夜半、亀戸天神近くの天神橋辺りに到着する。この橋は、本所区、深川区と南葛飾郡の境となる横十間川に架かる橋で、本所からの重要な避難路である。2日午前1時、第1救援隊は天神橋守備隊とその他地区守備隊とに分け、地区守備隊は押上から報恩寺橋に進み、2日午前9時には新たに到着した救援隊と共に吾嬬町に進む。その他、1日夜から、野重第7連隊は大島町新開橋と天神橋付近に、騎砲兵大隊は小菅刑務所から墨田川左岸地区へ出動している。

その他の兵隊の動きを総合すると、2日午後から夜にかけて、隅田川と荒川放水路に挟まれた地域に配置された部隊は、、、

総武線北側;騎兵第13連隊(近衛師団・習志野)、野重第4連隊(近衛・下志津)、野重第7連隊・騎砲兵大隊(第1師団・国府台)

総武線南側;騎兵第14連隊(近衛、習志野)、野重第1連隊(第1・国府台)

であった。

この配置は3日夜までには、

総武線北側;騎兵第13連隊、歩兵第1連隊(近衛、北の丸)

総武線南側;騎兵第14連隊、野重第1連隊、歩兵第3連隊(第1・麻布)

に改められる。

これらの軍隊により、2日から3日にかけて、100名(総武線以北、野重第4連隊)、300名(深川方面・野重第1連隊)、170名(小松川付近・同前)の朝鮮人が「保護検束」されている。


つづく

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