2023年9月23日土曜日

〈100年前の世界072〉大正12(1923)年9月2日 朝鮮人虐殺㉔ 〈1100の証言;港区/芝・赤羽橘・一之橋、白金台・三田・田町・芝浦、高輪・泉岳寺〉 「古川沿岸地帯にはたくさんの荷馬車業者があった。その荷馬車屋に住み込み夫婦で働いていた若い朝鮮人がいた。.....朝鮮人騒ぎで恐怖に怯えたのは荷馬車屋で働いていた朝鮮人労働者だったのでしょう。身の危険を感じ、いち早く姿をくらまし、ほとぼりのさめる頃まで、どこかへ逃亡したのでしょうが、留守を守る妻君はそうはいかなかったにちがいありません。たけりたち、気狂いじみた自警団幹部は、この若い妻君を見のがさなかったのです。どこへ逃がした! かくしたところを言え!・・・といって彼女をら致してゆくのを私は目撃したのです。そして、ただあ然と眺めるだけでした。哀号! 哀号と泣きさけぶ声が少年の私に強烈な印象感覚を与えました。古川沿岸に沿う雑木林に連れて行ってしまったのです。」   

 

皇居前の広場(大芝生の上に被災者のバラックが立ち並んでいる)

〈100年前の世界071〉大正12(1923)年9月2日 朝鮮人虐殺㉓ 〈1100の証言;港区/赤坂・青山・六本木・霞町、麻布〉 「私が二ノ橋のほうに渡ろうとした途端、いきなり2、3メートル先の路地からふたつの黒い影が飛び出してきた。夜目にも、それとわかる労働者風の朝鮮人たちです。はっと身構えようとした私の目前で、〔略〕彼らの背後をつけてきた2名の兵士が、グサリ、背中から銃剣を突き刺したのでした。兵士たちは、なにひとつなかったような表情で私の立ち止まっているまえを通り過ぎて行きました。」 より続く

大正12(1923)年

9月2日 朝鮮人虐殺㉔

〈1100の証言;港区/芝・赤羽橘・一之橋〉

荒井虎之〔当時警視庁警戒本部員〕

筆者は2日夜課長の命を受けて、芝公園増上寺内、愛宕警察仮本部に署長弘田警視を訪ね、「仙台坂の鮮人が攻め込まぬよう管内の関門を固めるよう」本部命令を伝達した。〔略。弘田警視は〕「そんな馬鹿なことがあるものか」と一笑に付した。

(「恐ろしき流言飛語と群集心理の体験」『捜査研究』1962年3月号、東京法令出版)


井上

「避難民を虐ぐ暴漢を拘束す 生と死の現状を見、死線を越えて帰洛した井上氏の実見談」

戒厳令が布かれたのはこの夜〔2日〕からで、芝四国町即ち東海道筋では既に青年団、在郷軍人などと暴徒の間に争闘が演ぜられ、警備はいよいよ厳重になって来ました。日本人は闇の夜にも敵味方を知るために白鉢巻に腕章をつけ誰でも一々誰何して行く先を詰問し、何等の返事がない時は相当な処置をとったのです。

(『京都日出新聞』1923年9月6日)


後藤順一郎

当時14歳の少年工にすぎなかった私は、いやおうに拘らず竹やりを持って古川沿岸地帯の警備を命せられたのを覚えています。「9月2日」の昼すぎ頃からどこともなく伝わってきた不逞鮮人の暴動のデマであったり、あるいは井戸に毒薬を投げ込んだので飲むな! といったことが広くつたわってきました。町の自警団組織を強化するため仕組んだものか? 自警団自体が警察と共同作戦を指揮していたようでした。自警団があらゆる武器を持っていたし、警官があご紐をかけ、抜剣し、異常きわまる興奮状態をひそかに眺め、いささかびっくりしたのを覚えています。

古川沿岸地帯は震災による火災をまぬがれたのが反って朝鮮人暴動のデマにまんまとのせられる感情興奮ばかりでなく、ふだんの軽蔑感を煽ることになった感じでした。故に、そうした軽蔑感情に呼応するが如く、9月2日の夕刻近く、当時はめずらしいオートバイ(ハーレー)3台ぐらいに分乗した屈強な若者たちが、「目黒方面から、あるいは五反田方面から手に手に爆弾を持って朝鮮人が押しかけてくる」。その数は千人2千人とも、怒号しながら駆けぬけてゆく光景を私は目撃した。しかし朝鮮人は一人もあらわれなかった。むしろ、自警団や警察官の方が手に手に武器を持って朝鮮人狩りを始めたのである。

そのとき、どんな行動を私はしただろうか? まず、自警団の幹部から朝鮮人か、日本人かを見分ける判別を教えられた。それが発音の語尾のアクセントによって確かめ「アイウエオ」を正しく発音しない者を朝鮮人と見なせ? というきわめて乱暴なやり方だった。

故に、ふだん顔見知りの朝鮮人といえど有無をいわさずら致していく方針を自警団は決めていた。当時、古川沿岸地帯にはたくさんの荷馬車業者があった。その荷馬車屋に住み込み夫婦で働いていた若い朝鮮人がいた。当然のことながら荷馬車屋の主人も自分の家で働いている朝鮮人が不逞鮮人と思っていなかっただろうが、黙して語らずで自警団に参加していたことだろうと思います。ところが、朝鮮人騒ぎで恐怖に怯えたのは荷馬車屋で働いていた朝鮮人労働者だったのでしょう。身の危険を感じ、いち早く姿をくらまし、ほとぼりのさめる頃まで、どこかへ逃亡したのでしょうが、留守を守る妻君はそうはいかなかったにちがいありません。たけりたち、気狂いじみた自警団幹部は、この若い妻君を見のがさなかったのです。どこへ逃がした! かくしたところを言え!・・・といって彼女をら致してゆくのを私は目撃したのです。そして、ただあ然と眺めるだけでした。哀号! 哀号と泣きさけぶ声が少年の私に強烈な印象感覚を与えました。古川沿岸に沿う雑木林に連れて行ってしまったのです。少年といえども、なぜ勇気を揮って若い妻君をかばってやれなかったのか? その痛恨ざんきは朝鮮人虐殺に私は加担したことになるのです。階級的な思想や政治感で日本民衆大衆の犯罪を朝鮮人民に謝罪することはたやすいことだと思いますが、一方、人間感情の通路としては深くて底なしの感じがします。その感情通路の亀裂させ溝をつくる感情媒体の根深い遺恨をつくり出した日本人民大衆の「どしがたい」感情閉塞を作り出している根本を掘り下げ、震災問題を通じて問い返されるときであろうと思います。

〔略〕2日の夜、10時過ぎ、馬車屋に夫婦で雇われていた私の知りあいの朝鮮人の奥さんの方が、近くの雑木林の中で凌辱を加えられ虐殺されたということを聞いて知っています。私といっしょに警備していた人間に、おまえの知っているかみさんがあそこでやられているから見てこいと言われ、とても行く気になれなかったのが当時の私の実感でした。

(九・一関東大震災虐殺事件を考える会編『抗はぬ朝鮮人に打ち落ろす鳶口の血に夕陽照りにき ー 九・一関東大震災朝鮮人虐殺事件六○周年に際して』九・一関東大震災虐殺事件を考える会、1983年)


坂東啓三〔実業家。当時19歳。赤坂で被災、京橋区霊岸島の坂田商店に戻り、宮城へ避難〕

品川をめざして2日夕〕ところが赤羽橋の所までくると、警官や自警団やらが大勢立ち騒いでいて、それより先、品川方面には通してくれません。というのは、そっちの方面で、朝鮮人が暴動を起こしているらしいということです。仕方がないから迂回して麻布一の橋にある主人の親戚の家に立ち寄り、そこで様子を見ようということになりました。ようやくその親戚の家まで来た時は、すでに辺りは真っ暗で、物騒なデマが飛び交う中を品川まで行くには危険すぎました。

〔略〕その家の裏手に古川という川が流れていましたが、その中を朝鮮人と思われる人たちが、自警団らしい男たちに追われて逃げまどっていたのを私は覚えています。それ以外は静かなものでした。

(坂東啓三『私の歩いた道 - 負けず 挫けず 諦めず』日刊工業新聞社、1980年)


〈1100の証言;港区/白金台・三田・田町・芝浦〉

芝三田警察署

管内は市内焼残地として避難者の輻輳(ふくそう)せるが上に、横浜方面の罹災者の管内を通過して、他に流動する者また少なからず、これに於て流言の伝播自ら繁く、9月2日午後5時頃に至りては「鮮人3千余名、横浜方面に於て、放火・掠薄を行える後、蒲田・大森を騒がし、今や将に帝都に人らんとす」など言える蜚語各所に流布せられ、遂に自警団の粗暴なる行動を見るに至れり。本署は未だ事の真相を詳(つまびらか)にせず、一時警戒を厳にしたれども、幾もなく流言に過ぎざるを知るに及び、その信ずべからざる所以を宣伝して民衆の疑惑を解かんとしたりしが、容易に耳を傾けざるのみならず、狂暴更に甚しきものあるを以て、遂にその取締を励行せんとし、3、4日の交、署長自ら署員60名を率い、夜半俄に3台の自動車に分乗し、自警団員の集合地を歴訪して多数の戎・兇器を押収せし。

(『大正大震火災誌』警視庁、1925年) 

〈1100の証言;港区/高輪・泉岳寺〉

芝高輪警察署

管内に行われたる流言は、鮮人に関するものと、大本教に関するものとの2種あり。鮮人に関するものは、9月2日午後4時30分頃始めて伝わりしものにして、「不逞鮮人等大挙して大崎方面より襲来せんとす」と称し、民心これが為に動揺せり。即ちその真相を究めんが為に、各方面の警戒と偵察とに当りしが、同5時頃小林某は、鮮人と誤解せられ、白金台町に於て群集の為まさに危害を加えられんとするを知り、その鮮人にあらざるを戒諭してこれを救護せり。

なお6時30分頃、大崎署管内戸越巡査派出所付近の空家内に弾薬の迫害を受けたる47名の鮮人が蟄伏せるを発見し、直にこれを検束して保護を加えしが、會ゝ(いよいよ)品川駅長の警告なりとて「社会主義者と不逞鮮人とは相共謀して井戸に毒薬を投入せり」と伝うるものあり、依りて更に警戒を厳にすると共に鮮人の動静を監視せし。

〔略〕又大本教に関する流言は、9月7日に至りて起りしが、這(ママ)は牛乳配達掃除夫等が心覚えの符号を各所の板塀、家屋等に記し置きたるを見て、同志に示さんが為の暗号なりと誤解し、遂に大本教に陰謀ありとの流言を生ぜしものにして、けだし数年前に於ける同数の疑獄に対する記憶が、非常時に際して復活すると共に、動揺せる民心の反影としてかかる錯覚を来せるものなるべし。しかれどもただ一時の現象に留り、鮮人暴動説の如く多大の刺戟を民衆に及ぼす事なかりき。

(『大正大震火災誌』警視庁、1925年) 

〈1100の証言;目黒区〉

『東京日日新聞』(1923年9月3日)

「鮮人いたる所めったきりを働く 200名抜刀して集合 警官隊と衝突す」

政府当局でも急に2日午後6時を以て戒厳令をくだし、同時に200名の鮮人抜刀して目黒競馬場に集合せんとして警官隊と衝突し双方数十名の負傷者を出したとの飛報警視庁に達し〔略〕。


つづく



0 件のコメント: