大正12(1923)年
9月2日 朝鮮人虐殺㉓
〈1100の証言;港区/赤坂・青山・六本木・霞町〉
林正夫
当時、渋谷常盤松にあった農大に籍があった私が被災したのは、霞町のほうによった高樹館という下宿の一部屋。
不安のうちに明けた翌2日、町内に住んでいた某予備役の陸軍少将が、早朝から仲間といた私たちのほうへやってきて、「きみら若い連中は、さあ、これをぶら下げてそのへんを警戒し、朝鮮人とみれば片っ端からたたき切ってしまえ!」と数本のドス、日本刀を指すのでした。
〔略。2日夜〕暗くなりかかった霞町の角を、私が二ノ橋のほうに渡ろうとした途端、いきなり2、3メートル先の路地からふたつの黒い影が飛び出してきた。夜目にも、それとわかる労働者風の朝鮮人たちです。はっと身構えようとした私の目前で、〔略〕彼らの背後をつけてきた2名の兵士が、グサリ、背中から銃剣を突き刺したのでした。兵士たちは、なにひとつなかったような表情で私の立ち止まっているまえを通り過ぎて行きました。(談)
(「目の前の惨劇」『湖』1971年6月号、潮出版社)
「赤坂区震災誌」
2日となりたるに誰人がいい触らしたりとはなく、朝鮮人に対するあられもなき取沙汰、それよりそれへと伝えられ、疑惧の間に自警団の出現を見るに至りたれば、人心次第に緊張し来りたる時も時3日の午後4時頃、何者か自動車2台、自転車1台を連ねて、朝鮮人2千名三田方面より暴行しつつ押寄せ来れりと、宣伝しつつ乃木坂付近を疾走せり、これと相前後して1名の身装卑からざる婦人、3名の女中に扶けられつつ乃木坂派出所に来り、唯今2千名の朝鮮人六本木方面に押寄せ来りたりと、訴え出でしかば居合せたる警官大に驚き、直に六本木方面に赴き偵察したるに、右は全く虚報にして1名の朝鮮人を認めたる歩哨が、これを呼止め取調をなさんとせしに、朝鮮人はいち早くその姿を隠したるより、2、3名の歩哨が荐(しきり)にその行衛を捜索し居たる折柄、その事実が早くも2千名襲来と、誇張申告せられたるものと明瞭したり。
(港区編『新修・港区史』港区、1979年)
〈1100の証言;港区/麻布〉
青柳杢太郎
〔2日、麻布で〕その夕べだった、例の〇〇〇〇〇〇が持ち上がったのは。頼りない提灯の火が暗黒の街をわずかに照らしている中を、町内の青年団が声をからして、婦女子は麻布一連隊へ逃げよ、男子は〇〇〇〇〇〇〇〇と呼わりまわった。例の考察力に乏しい連中や、小心の婦女子は尼港の惨虐を連想して、今にも銃剣が横腹へ来るものと震え上がり、算を乱して或は一連隊の方向へ、或は倒れかけた屋内に逃げこみ、馬車道には日本民衆独特の武器たる竹槍をひっさげだ男子がいずれも極度の興奮を見せて仁王立ちに突っ立っているのみだった。目黒方面から一連隊の方へ絶えず避難民が走り来り走り去る。○○の数或は2千といい、或は200というも、誰も目撃したという者は一人もなく、徒におびえ、従に逃げまどうて来るに過ぎなかった。
その夜の半ば頃から○○の噂は○○と変り、井戸へ〇〇〇〇と変じ、○○に対抗するために立った竹槍組は、放火その他の変事を予防するために町内警戒の任に当った。
下町一帯にわたる大火は3日頃からようやく下火となり、余震の度数もようやく減じたが、流言蜚語は日を迫って猛烈となり、夜毎夜毎に自警団に当る職人や仕事師の類は公然兇器を提げて往来の公衆を誰何し、自動車を止め、日頃下げつめている頭をいやが上にももたげて溜飲をグイグイ下げた。震災のために精神に異常を呈した待合の主人が川に投身したのを、○○が追いつめられて川中に逃げこんだものと早合点して、伝来の名刀を振りかざして矢鱈に切りつけた勇敢なあわてものもこの自警団から出た。
(『石油時報』1923年10月号、石油時報社)
荻原井泉水〔俳人。宮村町(現・元麻布)で被災〕
〔2日〕その夕方の事であった。「この辺に〇〇人があばれて来る」という飛報が伝った。その噂によると、この地震を機会として〇〇人の反逆が起った、彼等は平生用意して置いた○○を以て要所の家々に放火した、地震と共に随所に火を生じたのは全く彼等の仕業なのだ、而して彼等の仲間の近県にいる者は、大挙して東京へ急行しつつある、火に残された山手地方を焼尽そうというのが、彼等に残された目的だというのであった。今の場合、警察カは全く用をなしていない。各自を護るものは各自の外にない。日本刀を提げて来る者もあった。小人数ではいけない。手分けをしなければならない。義勇軍というようなものが、しぜんと作られた。この時も在郷軍人である清潔屋さんと人造石屋さんとが、しぜんに指揮者の形となった。
(略)
「朝鮮人が300人押し寄せて来た、今、櫻田町通りで交戦中だ」という声が立った。女達は悲鳴を挙げた。「ここにいちゃ危ない、逃げろ」 「いや、散り散りになっては危ない、ここにかたまっている方がいい」「提灯は消せ、而してひっそりしていなくちやいけない」 「提灯はなるべく多くつけて大勢いるように見せた方がいい」。指揮する者の説もまちまちだった。その説の違うたびに人々は動揺した。
(略)
「狸坂の下で一人刺された」という報があった。それは朝鮮人と誤られた八百屋さんだという事だ。警戒している者が誰何した時、八百屋さんは答えずに逃げようとしたので(恐らくはこちらで対者を鮮人と思って逃げようとしだのであろう)、気早にも刺されたのだという。そんな話も人々の気をとげとげしく悪く尖らした。早く夜が明ければいい、と人々は念じた。東の空は夜明前の朝焼のように赤らんでいたが、それは遠く本所深川の辺に、まだ燃えている火が映っているので、黎明が来るには時間があった。
〔略。3日〕朝鮮人襲来の噂は、やはり人の心を騒がした。前夜は日比谷公園に露営していた人が、朝鮮人のために斬られたという説がある。今しがた、裏の山の草叢の中に懐中竃灯をつけて潜んでいる奴があるという者がある。義勇軍の人達は前夜と同じく、鉄棒を引きならして、警戒に当っていた。蒼い稲妻がすさまじく閃く夜であった。
(「大震雑記」『層雲』1923年11月〜12月号、層雲社)
高見順〔作家。麻布で被災〕
〔2日〕噂話というだけでは済まされない流言蜚語がやがて次々に乱れ飛んだ。その中で最も私の忘れ難いものは朝鮮人が暴動をおこしたというデマであった。
(略)
朝鮮人と見ると有無を言わせず寄ってたかって嬲り殺しにするという非道の残虐が東京全市にわたって行われたらしいが、私の家の近所ではそうした暴民の私設検問所といったものが三の橋の裾に、誰が言い出したともなく作られて、こいつ臭いぞと見られた通行人は片ッ端から腕をとられて、
「おい、ガギグゲゴと言ってみろ」
あるいは、十月十五日というのを早口に言ってみろと迫られる。濁音がすらすら言えないと、そら、朝鮮人だとみなされたらしい。らしいと言うのは、私はその場に立ち合わなかったからだが、一度はその私も仲間入りをすすめられた。
「ぶった切ってやる。おい角間君。来い」
と私を誘ったのは、裏の長屋の住人の、しかし普段はおとなしく家で製図板に向っている男だった。おッとり刀のその姿は、高田の馬場へ駆けつける安兵衛みたいで、毛脛もあらわの尻ばしょりは勇ましかったが、浴衣の腕をたくしあげたその腕が変に生白いのはいけなかった。彼はそうして誰彼の区別なく誘っていたのか、それとも特に私だけに、私を乾分にでもする腹か何かでそう呼びかけたのか。いずれにせよ、中学生の私は急に大人扱いされた感じでどぎまぎした。まるで私自身がぶった切ってやると言われたかのようにどぎまぎした。
(略)
「戒厳令と言えば軍隊のカはなんと言っても大したものですな。軍隊の出動がなかったら、東京の秩序は到底保てなかったでしょう」
「警察だけでは駄目だったでしょうな。わたしは軍縮論者、いや軍隊無用論者だったが、今度は軍隊を見直した」
私は大人たちの間に一人前の顔を突き込んで、その会話に耳を傾けていた。大人たちの軍隊讃美に同感だった私は、いや、恐らくその大人たちも、この関東大震災の際の軍隊の威力なるものが、のちの軍閥台頭の因を成し、やがてそれが無謀な戦争へと導かれて行ったことに、その時は少しも気がつかなかったのである。
(「わが胸の底のここには」『人間』1950年9月号、目黒書房)
萩原つう〔当時15歳。恵比寿で被災〕
火事よりも、朝鮮人騒ぎのほうがひどかったね。その晩に「朝鮮人がくる」っていうんで、急いでおふろの中に隠れたんだ。でもそれじゃダメだというので麻布の第三連隊まで避難したよ。
翌朝帰宅してから、兄が鎌倉の親類に荷物を送ることになった。ちゃんと区役所の証明書をもらって、こっちの住所と行き先を書いた旗を立ててね。そしたら多摩川のところで、「朝鮮人が待ち構えているから帰れ」というんで追い返されてきた。
それから数日後かねェ、麻布の山下の交番前で、朝鮮人をトラックに詰めて、先をノミのように削った竹で外からブスブスと突き刺しているのを見たよ。どうなったか知らないけど、あれじゃ死んじまうよ。ほんとうに戦争みたいだった。
(『週刊読売』1975年9月6日号、読売新聞社)
藤村謙〔当時陸軍技術本部重砲班。麻布富士見町で被災〕
〔2日か〕あまつさえ流言蜚語は飛び、朝鮮人は井戸に毒薬を撒布したとか或は多摩川方面から隊を組んで襲来するとか人心兢々たるものがあった。これが為め町では各々自衛隊を作り日本刀や猟銃を携行して集った。要所要所には番兵を立てて怪しいものはこれを殺害した。誠に物騒な世の中となった。
(『変転せる我が人生 - 明治・大正・昭和・戦記と随想』日本文化連合会、1973年)
つづく
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