1891(明治24)年
5月
井上哲次郎「内地雑居続論」(哲学書院)。内地雑居は「日本古来の風俗、習慣、政治、文学、宗教、其の他百般の時々物々をして一時に変動」
5月
北村透谷「蓬莱曲」(養心堂)
5月
東洋協会設立。東洋倶楽部発足。「東洋の覇権を握ってさきだち」になることを目的とする。
5月
大山巌、陸軍大臣辞任。在位11年、日本で5番目の陸軍大将となる。
5月1日
ハンガリー、オロシュハーザで、2日ベーケーシュチャバで、6月21日バットニャで、農業労働者賃上げ・労働条件改善要求デモ。政府は「嵐のコーナー」(ティサ河・マロシュ河合流地点)に軍隊・政府委員派遣。戒厳令しいて鎮圧。
5月2日
石川啄木(5)、学齢より1歳早く、岩手郡渋民尋常小学校(現渋民小学校)に入学。
5月5日
ロシア皇太子一行、長崎発。6日、鹿児島入港。9日、神戸入港、京都へ。前年イギリス女王息子コンノート公爵来日時以上の豪華な歓迎振りに、在日イギリス人には不快感を抱く者あり。皇太子来日は他日日本を侵略するための下見であるとの風説も生れる。強大国ロシアへの恐怖心。また、西郷隆盛が皇太子に同行しているとの風説も生れる(西郷隆盛生還説)。
5月5日
鉄鋼王アンドリュー・カーネギー、音楽用ホール「カーネギーホール」のオープニング・セレモニー、チャイコフスキー招待。
5月6日
松方正義内閣成立。第1次山県内閣は第1回帝国議会(明治23年11月~24年3月)を乗切ったものの、民党の攻撃により予算の大幅削減、多くの重要法案不成立の事態。山県は政治生命温存のため退陣、伊藤に後任指名。伊藤も復帰が得策でないと判断し松方内閣成立となる。
5月6日
ドイツ・オーストリア・イタリア3国同盟、12年期限で更新。
5月8日
井上毅内閣法制局長、依願退職
5月11日
大津事件・
午後1時50分、ロシア皇太子ニコライ・アレキサンドロヴィッチ(22、のちニコライ2世)、琵琶湖見物帰路(京都~大津~三井寺~琵琶湖遊覧~県庁にて昼食~帰路)、警護巡査津田三蔵(滋賀県守山署)、斬付ける。頭部2ヶ所(7cmと9cm)の傷。皇太子は一旦県庁に入り、ロシア艦隊軍医の治療をうけるため特別列車で京都に向う。
津田三蔵:
安政元(1854)年12月29日江戸藤堂藩邸に御殿医に家に誕生。廃藩置県後、家族は伊賀上野に移住。津田は明治5年3月東京鎮台入営、3年後伍長。明治10年2月西南戦争で銃創を負う。本隊復帰後、軍曹昇格・勲7等叙任。明治15年除隊、同11月三重県巡査となる。明治18年8月親睦会席上で同僚を殴打し免職。同12月滋賀県巡査に採用。
津田を取押えた車夫2人(向畑某・北賀市某):ロシア皇帝より勲章・一時金2千5百円・年金1千円が授けられ、あわてて日本も勲8等・年金36円支給とする。向畑はその後身を持ち崩し年金も剥奪、昭和3年74歳で没。北賀市は、田畑を購入、読書きを習い明治3年江沼郡会議員当選、大正3年55歳で没。年金は日露戦争中も支払われ露探と疑われる。
天皇(38)、北白川宮能久親王を名代として現地に派遣。御前会議開催。夜9時5分、西郷従道内相・青木周蔵外相・陸軍軍医総監、特別列車で大津に向う。
膳所監獄にて津田三蔵予審訊問。三浦順太郎・土井庸太郎判事。~15日。
5月11日
ポルトガル、銀行恐慌のため現金支払いが一時停止。
5月12日
午前1時、伊藤博文宮中顧問官、参内。早朝、天皇、京都へ向う。午後9時15分、京都着。13日午前11時、天皇、ロシア皇太子宿泊先常盤ホテル訪問。
日本全国で皇太子の快癒を祈念する行動。ロシアの報復を恐れての行動。宗教・宗派を問わず快癒の祈り、学校休校、帝大などロシア公使館へ見舞い、銀行・会社・取引所の休業も多い、吉原その他遊郭も休業か歌舞音曲を控える。見舞いの電報は1万通超。しかし、ロシアの寛容な対応が明確になるにつれ、国民の反ロシア感情・政府の屈辱への反撥が出始める。
首相官邸、津田処罰問題。山田・後藤・陸奥・黒田・伊藤。農商務相陸奥宗光・大審院長児島惟謙・司法相三好退蔵以外全て(津田を死刑にする法的根拠として)「皇室に対する罰」適用主張。皇太子訪日前、青木外相はロシア公使シェーヴィッチに対して、皇太子に危害を加えた者には日本の皇太子に危害を加えた者と同じく刑法116条によって処罰すると約束していた。
児島惟謙大審院長、北畠治房大坂控訴院長と松方首相訪問。松方、皇室に対する罰主張。
早朝より司法省で山田顕義法相・高等官・御雇外国人の会議。イタリア人顧問パテルノストロが一般謀殺未遂罪適用主張、反対論なし。児島が司法省についた頃、山田顕義法相は刑法第116条適用主張。法相秘書官栗塚省吾・菊池武夫らは適用不可主張。
5月13日
午前、児島ら大審院で議論。全判事、第116条適用反対・一般謀殺未遂罪主張。午後、児島大審院長、山田法相にこれを伝える。この日、大津裁判所長、児島院長に対して、津田の犯行を普通法律に準拠すべきものとして予審着手を報告。児島は「他の干渉を顧みず予審を進行せよ」と返信。
5月14日
検事総長三好退蔵、京都地裁にて話し合い。数名の地裁所長・検事正ら、全て第116条適用不正主張。
5月15日
京都御所で御前会議。犯人死刑と謝罪使節派遣決定(ロシア側より辞退あり、使節はのち取止め)。三好検事総長、第116条適用不当主張するも賛成者なし。伊藤・青木は極刑論主張。三好、適用方針認めさせられる。御前会議終了後、三好検事総長、大津地裁検事局山本検事正に予審中止請求を出させる。
夜、京都地裁所長加太邦憲・司法省参事官倉富勇三郎ら、大津地裁に赴き御前会議で「皇室に対する罰」適用方針決定を伝える。
5月15日
教皇レオ13世(81)、労働問題に関するキリスト教的指針「レムル・ノウァルム」発布。
5月16日
滋賀県知事沖守固(4月9日着任)・滋賀県警部長斉藤秋夫、免官。
ロシア皇太子は神戸への帰途、天皇に寛大な措置を訴える。沖はのち和歌山県知事・貴族議員・男爵。
5月16日
大津事件に関する言論統制のため勅令第46号公布。
5月17日
[露暦5月5日]ペテルブルク、ロシア最初のメーデー。
5月18日
午前、松方首相、児島惟謙を呼出し青木・シューヴィッチ合意を持出し説得、拒否。欧米各国の法律にも、他国の皇太子に危害を加えた者を特別に処罰する法律はないと言明。質問に対して、担当裁判官7名の合議判決には大審院長としても異を唱えることはないと回答。要求により児島は裁判官7名の名を松方に渡す。
午後、大審院判事4名が司法省に呼ばれる。堤正巳には陸奥農商務相が、中定勝には山田法相が、高野真遜には大下喬任枢密院議長が、木下哲三郎には山田法相・栗塚法相秘書官が、説得にあたる。
三好検事総長、大津地裁宛に大審院判事意見一致により予審終了指示。
ロシア皇太子の誕生日の宴、神戸のアゾーヴァ艦上にて。天皇出席。
5月18日
川上音二郎(27)、横須賀の立花座で、21日まで興行。
5月19日
午前8時、法相、大審院特別法廷を大津地裁に開設する旨告示。大審院予審判事を土井大津地裁判事に命じる。
児島惟謙大審院長、「意見書」を松方首相・山田法相に提出し、午後9時50分、5名の判事と共に大津経由大阪に向かう。外国に対する法権・司法の独立。児島は帝国大学法科大学教授穂積陳重教授(35、貴族院勅選議員)に見せ賛成される。
ロシア皇太子一行、神戸発。23日ウラジオストーク着。天皇に感謝を表す電報送る。
5月20日
午後2時30分、児島惟謙、京都着。天皇拝謁。皇室罪適用など具体的指示なし。
21日、大津地裁で大審院特別裁判部会議。25日公判開始を決定。児島は堤判事を自室に招き、変節を難詰、勅語に注意深く触れ、「意見書」を渡す。午後4時、大阪に向う。
5月23日
児島惟謙に同意する判事、7名中5名となる。堤判事から児島に同意との連絡。児島は大津に赴き木下判事を説得同調させる。初めから同意見の安居判事が土師判事を説得、更に児島も説得し同調、意向は強硬な児島同調者となる。
5月23日
子規、高浜虚子と文通始まる。
「五月二十三日(土)、高浜虚子(清)(十八歳)、伊予尋常中学校の級友河東秉五郎(碧梧桐)を介して、初めて正岡子規と文通する。夏、正岡子規松山に帰省中、高浜虚子と河東秉五郎は、俳句を学ぶ。十月二十日(火) の正岡子規からの手紙で、虚子と号す。)」(荒正人、前掲書)
5月24日
午前1時、児島惟謙、三好検事総長と連名で司法大臣宛に「刑法第116条適用不能、止むを得なければ緊急勅令必要」と電報。早朝、閣議で皇室罪適用確認。方針貫徹のため、西郷内相・山田法相、大津出張。法相、三好検事総長に25日開廷延期を指示。判事達は法相指示で開廷延期はできないというが、検事総長は延期を認める。
5月24日
尾崎三良内閣法制局第一部長、前局長井上毅を訪問、共に大津事件の政府対応批判、あと、山田法相を訪問、箕作麟祥司法次官、河津祐之刑事局長と尾崎の3人、緊急勅令反対を山田法相と争う
5月24日
田山花袋、尾崎紅葉宅を訪問。
文壇に打って出たいとの手紙に対して、紅葉から返事をもらった3日後のこと。
「紅葉の第一印象は、とても感じ好かった。「いかにも江戸児らしい快活な城府(じょうふ)を設けない話しぶり、若い文学書生をも別に侮(あなど)りもしない態度、尠(すくな)くとも私の動揺する心を静めるに十分であった」。
西鶴について語り、近松について語り、『読売新聞』に連載中の新作『焼つぎ茶碗』(のち『袖時雨』と改題)について語ると、外国文学に話題を転じた。そうなると、売れっ子作家の前で背伸びをしてみせたい無名の文学青年田山花袋は、紅葉相手に、ユゴーやディッケンズ、サッカレー、デュマなどの文学を論じた。「更に『しがらみ草紙』でやや知りかけたドイツ文学の話までした」。
こんな生半可で青くさい文学青年に、紅葉は、とても誠実に対した。それだけ紅葉は文学に真剣だったのだ。棚の上から一冊の洋書、ゾラの小説を抜き出すと彼は語りはじめた。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))
文中の引用は田山花袋『東京の三十年』による
5月25日
尾崎三良意見書、緊急勅令による遡及処罰は罪刑法定主義に反し憲法違反(法制官僚は刑法第116条適用にも緊急勅令にも反対、判事の判断に委ねる他なし)
5月26日
西郷内相・山田法相、滋賀県庁で児島・三好と会談。物別れ。判事も法相との面談拒否。
5月27日
大津事件大審院特別法廷、大津地裁。一般謀殺未遂とし津田三蔵を無期徒刑。非公開。堤裁判長。
5月27日
西郷内相・山田法相・青木外相、引責辞任。
6月1日、法相に田中不二麿就任(民法典断行を条件)。
5月28日
ミルン一座、完全な「ハムレット」上演。横浜ゲーテ座(明治18年4月完成。現、山手ゲーテ座)。
6月1日、坪内逍遥・北村透谷が観劇(日本人は2人のみ)。逍遥はこの期間中「ヴェニスの商人」も観劇。この時も日本人は1、2人。
5月30日
斎藤緑雨「油地獄」(『国会』連載)
5月31日
ロシア皇太子ニコライ、シベリア鉄道起工式出席、ウラジオストーク。
続く
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