2024年2月24日土曜日

大杉栄とその時代年表(50) 1891(明治24)年4月18日~30日 漱石、子規の房総旅行の紀行文に感激する 子規、哲学の試験準備が全く手につかない 一葉、桃水より新聞小説(通俗小説)の手ほどきを受ける

 

半井桃水

大杉栄とその時代年表(49) 1891(明治24)年4月1日~15日 大杉栄(6)、新発田の尋常小学校入学 南方熊楠、フロリダに向かう(その後、キューバ~ハイチ~ベネズエラ) 一葉日記(「若葉かげ」)始まる 一葉、半井桃水を訪問、以後頻繁に訪問 より続く

1891(明治24)年

4月18日

子規が房総から帰京後に草した紀行文『かくれみの』(『かくれみの』『隠蓑日記』(漢文)『かくれみの句集』の三篇から成る)に、漱石が短評を書き込む。

4月20日

この日付け漱石の子規宛手紙。


「狂なるかな狂なるかな僕狂にくみせん。君が芳墨を得て始めは其唐突に驚ろきそれから腹を抱へて満案の哺を噴き、終りに手紙を掩ふて泫然(げんぜん)たり。君の詩文を得て此の如く数多(あまた)の感情のこみ上げたるは今が始めてなり。君が心中一点の不平俄然炎上して満脳の大火事となり、余焔筆頭を伝はつて三尺の半切(はんせつ)に百万の火の子を降らせたるは見事にも目ばゆき位なり。平日の文章心を用いざるにあらず、修飾なきにあらず。ただ狂の一字を欠くが故に人をして瞠若(どうじやく)たらしむるに足らず。ただこの一篇狂気爛漫わが衷情を寸断し、わが五尺の身を戦栗せしむ。『七草集』はものかは『隠れみの』も面白からず。ただこの一篇・・・

鳴呼狂なる哉、狂なるかな僕狂にくみせん。僕既に狂なる能はず、甘んじて蓄音器となり、来る二十二日午前九時より文科大学哲学教場において団十郎の仮色おつと陳腐漢の囈語を吐き出さんとす。蓄音器となる事今が始めてにあらず、またこれが終りにてもあるまじけれど五尺にあまる大丈夫が情けなや。何の果報ぞ自ら好んでかかる器械となりはてたる事よ。行く先さも案じられ年来の望みも烟(けぶ)りとなりぬ。梓弓張りつめし心の弦絶えて功名の的射らんとも思はざれば、馬鹿よ白痴と呼ばれて一世を過し、蓄音器となつて紅毛の士に弄ばるるもまた一興ぞかし。

さやうなら。

二十日夜                                      平凸凹

偸花児殿」

*平凸凹 ; たいらのでこぼこ。漱石は、幼時病んだ疱瘡の跡が残っていたので、ときとしてこのように自らを戯称した。

偸花児 ; はなぬすびと。子規の別号の一。

「漱石はこの時、子規に対して、これまで以上に強いシンパシーを感じた。言葉では表わせないぐらい。だからこそ、「僕狂にくみせん」と語り、「腹を抱へて満案の哺を噴き」、つまり、腹の中にあるものすべてを出し、「手紙を掩ふて泫然たり」と、涙を流した。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))

4月28日付け子規の大原恒徳宛ての手紙。


「私先頃中存外丈夫にて、人も称し自分も相許し候処、十日程已前(いぜん)より何となく不穏の兆候を顕し候。病気は脳と肺と同時に来りたるものに候へども、どちらも固より病といふべき程には至らず。畢竟するに其原因は身体の衰弱にあることなればと思ひ、先日より急に養生をはじめ申候。養生と申ても牛乳を呑み(此二ケ月程政費節減の目的を以てやめゐたり)、鶏卵を食する位にて、鰻店肉店西洋料理抔は、先日やつと一度宛(づつ)相のぞき候へども、是等は到底月一度位之割合に非れば行く能はざるは当然に付致し方もなし。・・・

「病気と申てさしたる事もなく、寝る様な事はもとより少しも無御座候得共、脳のわるき時は(脳病、頭痛にあらず)狂に近きことあり、叉衰弱の時は昼夜の別なくたわひもなく寝ることも御座候。又子規病(*肺結核)に関しては、先日一寸痰中に血の一点を見たること有之候。(ほんの一点也大きは〇位也)。其後つづき出る訳にも無之故、服薬も致さず、只其積りで少し用心致居候。

「病気についての一件はおつくうに聞ゆるも計りがたきにより、母様抔には無論御話無御座様奉祈候。

「右の如く少々よわりのきてゐる処に、此頃は試験の為に多少の困難を来し居候


「試験」はお雇い外人教師ルドヴィッヒ・プッセの「哲学総論」(4月22日実施)で、その準備のために、子規は三日ほど向島木母寺の境内にある茶店にこもり、試験勉強に専念しまうとしたが効果があがらず、そのかわりにノートにはいくつかの俳句と短歌が記された。


蓮華草我も一度は子供なり


は多分このときに出来た句である。


随筆集『墨汁一滴』より


明治二十四年の春哲学の試験があるのでこの時も非常に脳を痛めた。ブツセ先生の哲学総論であつたが余にはその哲学が少しも分らない。一例をいふとサブスタンスのレアリテーはあるかないあといふやうな事がいきなり書いてある。レアリテーが何の事だが分らぬにあるあないか分るはずがない。哲学といふ者はこんなに分らぬ者なら余は哲学なんかやりたくないと思ふた。それだから滅多に哲学の講義を聞きにも往かない。けれども試験を受けぬ訳には往かぬから試験前三日といふに哲学のノート(蒟蒻板に摺りたる)と手帳一冊とを携へたまま飄然と下宿を出て向島の木母寺へ往た。


「それから二階へ上つて蒟蒻板のノートを読み始めたが何だか霧がかかつたやうで十分に分らぬ。哲学も分らぬが蒟蒻板も明瞭でない、おまけに頭脳が悪いと来てゐるから分りやうはない。二十頁も読むともういやになって頭がボーとしてしまふから、直に一本の鉛筆と一冊の手帳とを持つて散歩に出る。外へ出ると春の末のうららかな天気で、桜は八重も散つてしまふて、野道にはげんげんが盛りである。何か発句にはなるまいかと思ひながら畦道などをぶらりぶらりと歩行いて居るとその愉快さはまたとはない。脳病なんかは影も留めない。一時間ばかりも散歩するとまた二階へ帰る。しかし帰るとくたびれて居るので直に哲学の勉強などに取り掛る気はない。手帳をひろげで半出来の発句を頻りに作り直して見たりする。この時はまだ発句などは少しも分らぬ頃であるけれどさういふ時の方がかへつて興が多い。つまらない一句が出来ると非常の名句のやうに思ふて無暗に嬉しい時代だ。あるいはくだらない短歌などもひねくつて見る。」


「このエピソードは面白い。子規の中で抽象から具体へ、論理的思考から写実描写へと、その関心が変わっていたことが、というより、もとからの関心が浮び上って来たことが、ありありとわかる。つまりこの時子規は、自分のやりたい何かを発見しつつあったのだ。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))

4月22日

この日、桃水は一葉の持参した最初の原稿について 「余り和文めかしき所多かり、今少し俗調に」と指摘(分量も多く、雅文で書かれているために、新聞小説には向いていないので、通俗文体で書くように指導)

また桃水は、一葉を小宮山桂介(東京朝日新聞主筆、政治小説・翻訳小説作家)に会わせたいと言う。一葉は、「人一度みてよき人も、二度目にはさらぬもあり。うしは先の日ま見え参らせたるより今日は又親しさまきりて、世に有難き人哉とは思ひ寄ぬ」と、桃水への信頼を深める。小説は書き直して桃水へ郵送した翌日、桃水から、小宮山に会わせ、小説のことについても話があるので、翌日にでも神田表神保町の下宿屋に来て欲しいと手紙が届く。翌26日、一葉は母の許しを得て出かけるが、この日は小宮山は来られなくなっていた。桃水は、自身の小説の構想を語り、一葉にはつくりものとしての通俗小説の書き方を教える

桃水は、一葉に対し、自分は一葉を古い友人仲間の青年と考えて話をするので、一葉の方も、自分を同性の友達と考えて、遠慮なく思うことを話してほしいという。桃水は、自身の過去の貧しい生活体験を語り、一葉の貧しさは、まだ貧乏のうちには入らないと言って慰め、「もし差つかゆることもあらば、何にしても言ひおこせよ。我身に応ずることは心の限りなしてん」と言う。

その後、一葉は桃水から与えられた構想の小説に着手し、麹町区平河町2丁目(現、千代田区平河町1)に転居した半井家で、小宮山にも紹介される。

4月23日

セルゲイ・セルゲイヴィチ・プロコフィエフ、ロシア・エカテリノスラブ県に誕生

4月26日

チャイコフスキー、アンドリュー・カーネギーの招きで渡米

4月27日

ロシア皇太子ニコライ・アレキサンドロヴィチ、旗艦アゾーヴァンス以下6隻の軍艦で長崎着(前年11月発)。シベリア鉄道ウラジオストーク~ハバロフスク間起工式。国賓。有栖川宮威仁親王接伴委員長。

4月27日

アフメト・イフサン・ベイ、総合週刊誌「セルヴェティ・フェヌーン」創刊。

4月29日

二宮忠八、プロペラ式模型飛行機の飛行を成功。

4月30日

南方熊楠、3年間を暮したアナバーを去る。シンシナティーを経て、5月2日、フロリダ州ジャクソンヴィルに到着。以降、毎日、菌類・地衣類の採取に出かける。


つづく

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