1891(明治24)年
6月
中村正直(敬宇)、没。主宰する「同人社」立ち行かなくなり、講師を務める福田友作、帰郷。
6月
『千紫万紅』創刊。
「この雑誌は、「会員組織にして出した者で、硯友社の機関と云ふのではなく、青年作家の為であったから、社名も別に盛(ママ、成)春社として、私(紅葉のこと - 引用者註)の楽(たのしみ)半分に発行した」(尾崎紅葉「硯友社の沿革」)。・・・・・成春社すなわち『千紫万紅』からデビューし、売れっ子となった作家に、例えば小栗風葉(代表作に『青春』があり、紅葉の没後『金色夜叉』を完結させる)がいる。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))
6月
子規、軽井沢・長野・松本・木曽に旅し、その足で松山に帰省。学年試験を放棄。
「『墨汁一滴』で彼は、こう語っている。
明治二十四年の学年試験が始まつたが段々頭脳が悪くなつて堪へられぬやうになつたから遂に試験を残して六月の末帰国した。
子規は、直接にではなく、木曾路をまわってから松山へ帰省した。わざわざ木曾路を旅したのは、その頃子規がもっとも強く心動かされていた小説の影響があったのかもしれない。
その小説とは幸田露伴の『風流仏』である。・・・・・雑誌『ホトトギス』の明治三十三年九月二十日号に寄せられたインタビュー「天王寺畔の蝸牛盧」で、子規はこう語っている。
新著百種の第五編であつたか、露伴の風流仏が出た。同室の友人はその風流仏をかりて来て、予の傍で読んで居たが、予は前にいつたやうに已に小説界を見くびつて居たのであるから、名も知らぬ人の小説が出ても別に驚きもしなかつた。友人は其小説の文章のむづかしいことゝ且つ面白いことゝを予に説いたけれ共、予はフンといふ返辞で簡単にそれをあしらつて仕舞ふた。
それから一年も後のことであつたらう。ある夏の夜本郷の夜店をひやかして居たらば風流仏が出て居つたので、それを買ふて帰つた。わけはどうかといふと、予は嘗て友人が之を読んで居つた時に傍らで少し聞いて居つたが、何分文章がひねくれて居つて聞いて居てもよくわからなんだといふ事だけは予の頭脳にとまつて居たのである。善かれ悪かれ兎に角人に解し難いやうな文章を書くものは尋常でないといふことが始終気になつて居つた為めに頭から見くびつて置きながら、風流仏だけは今一度自分の手にとつて読んで見たいと思ふて居たのであった。そこでその風流仏を買ふて来て読んで見ると、果して冒頭文から非常に読みにくゝて殆ど解することが出来なかった。尤も其時紅葉露伴などゝいふ人は既に西鶴の本を読んで居て西鶴調をまねたのであつたが、予の趣味は尚は馬琴流の七五調を十分に脱する事が出来なかつたのである。それは雅俗折衷と称する坪内氏にあつても尚ほ多少この旧套を脱する事が出来ないので、妹と背鏡などの中には慥(たしか)に七五調の処もあつたやうに記憶して居る。所が、この西鶴調の読みにくいのもいく度も読み返すうちに自然にわかるやうになつた許りでなく、その西鶴調の処が却て非常に趣味があるやうに思はれて、今度は反対に文章の極致は西鶴調にありと思ふた位であつた。元来風流仏の趣向は西洋的のものをうまく日本化したのであつて、今日でさへ兎角世評のある純粋の裸体美人を憶面なく現はしたのであるけれ共、この小説を読んでも毫も淫猥などという感じを起す事なく、却て非常な高尚な感じに釣り込まれて仕舞ふて、殆ど天上に住んで居るやうな感じを起した。そこで今迄は書生気質風の小説の外は天下に小説はないと思ふて居つた予の考へは一転して、遂に風流仏は小説の尤も高尚なるものである、若し小説を書くならば風流仏の如く書かねばならぬといふ事になって仕舞ふた。
・・・・・『風流仏』は、仏師である主人公の珠運が木曾路を旅した時に須原の宿で出会っ美しや花漬売りの娘お辰との悲恋を描いた小説だ。デビュー作『露団々』の原稿料を手にし、明治二十一年暮から翌二十二年正月にかけて木曾路を旅した時の実体験をもとに、露伴は、この小説を書いた。子規も、木曾路を旅すればお辰のような娘と出会える、と考えていたのあもしれない。いや、それより何より、子規はこの頃、『風流仏』をまねた、ある作品 - 彼の処女小説 - を構想していた。・・・・・。
子規のこの木曾路行は、「かけはしの記」という紀行文にまとめられている。『風流仏』の舞台となった須原にも、もちろん立ち寄り、花漬をちゃんと晴入している。明治二十四年六月三十日のことだ。
此日は朝より道々覆盆子桑の実に腹を肥したれば昼餉もせず。やうやう五六里を行きて須原に宿る。名物なればと強ひられて花漬二箱を購ふ。余りのうつくしさにあすの山路に肩の痛さを増さんことを忘れたるもおぞまし。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))
〈旅の行程〉
6月25日、子規は学校の試験を途中で放棄し、草鞋ばきに菅笠をかぶって旅をする。軽井沢から善光寺に入り、松本街道から木曽路を巡る旅で、木曽路は、子規が熱中していた露伴『風流仏』の舞台であった。
上野から汽車で横川に行き、馬車で笛吹嶺を通り、千仞の谷を抜け、大樹が聳える森を通り、つづら折りの山路を渡って軽井沢に向かう。
26日、汽車を使って善光寺に参詣。寺院や辺りの家も火事で焼けていたが、本堂だけは無事だった。川中島、篠ノ井まで行き、稲荷山で雨が降り出す。
27日、雨は上がっていた。松本街道には路々に芭蕉塚が建っている。山路は険しく、馬場嶺を登る途中、木いちごがこぼれるばかりに実っています。「さてもくるしやと休む足もとに誰がうえしか珊瑚なす覆盆子、旅人も取らねばやこぼるるばかりなり(『かけはしの記』)」。夜は乱橋に泊まる。
28日、早朝に出発。爪さきあがりの立峠で馬に乗る。松本で昼食をとり、写真館で旅姿を撮影する。原新田まで馬車に乗って洗馬に着き、本山の「玉木屋」に泊まる。
6月29日、子規は本山の宿を出て、桜沢を過ぎ、木曾路に入る。木曽第一の難所・鳥井峠の麓にある奈良井まで来て茶店に休む。そこから馬に乗り、鳥井峠を登り、峠の頂で馬を降り、歩いて山を下って薮原の駅に着く。子規は、ここでお六櫛を買いう。持病の頭痛に悩む村娘・お六が、御嶽山に治癒を祈ると、「みねばり」の木から櫛をつくり、髪をとかすという御告げ通りにすると頭痛が治癒したという伝承がある。
ついで、木曾川に沿って徳音寺へ詣で、この夜は「福島」という繁盛宿に泊まりる。
30日は、朝から雨。木曽の桟に着くと、五月雨で水かさが増している。眼下に松尾芭蕉の石碑がある。ここは芭蕉が『更科紀行』で「桟やいのちを絡む蔦かづら」と詠んだところ。
上松を過ぎ、寝覚の里に着く。寝覚の床で名物の蕎麦をすすめられるが、お腹がいっぱいでとても食べられない。5里程歩いて須原で宿をとり、名物の「花漬(桜の蕾を塩漬けにしたもの)」2箱買う。「花漬」は、幸田露伴の『風流仏』に登場する漬け物。
7月1日、小雨の中、須原を発って野尻を過ぎ、昼ごろに三留野に着き、「松屋」という店で昼食をとる。妻籠を過ぎ、馬籠の麓まで来て、馬で峠を越えようとしますが馬が見つからず、草鞋を履き直して、山を越える。雨が強くなってきてあわてて馬籠の宿に泊まる。
2日、雨が止まず、合羽を買って馬籠を下る。この日は、余戸に泊まる。
3日、晴れ。御嵩を過ぎ、松縄手に出てしばらく休んでいたら、突然の夕立。この夜は伏見に泊まる。
4日、朝まだ暗いうちに舟で発ち、木曽川を下る。犬山城の下を過ぎ、木曽川停車場に着き、茶店で昼食。休んでいると汽車が来たので、急いで乗る。
『かけはしの記』はここで終わる。
6月
一葉の日記。
「母君はいといたく名を好みたまふ質にておはしませば、児賤業をいとなめば我死すともよし我をやしなはんとならば、人めみぐるしからぬ業をせよとなんの給ふ。それもことわりぞかし。我両方ははやく志をたて給ひてこの府にのぼり給ひしも名をのぞみ給へば成けめ。」
にわか士族であるが故に、譜代の士族よりもいっそう武家の誇りと自意識の働いた家風を形成していった。
6月
稲垣満次郎「東方策」。ロシアの侵略の危機を強調、日本が「東洋の大舞台にその雄図を策す」ために海軍拡張が急務と提唱。空前の売行き。
6月
佐佐木信綱、竹柏会創立。
6月初旬
チャイコフスキー、アメリカから帰国。「くるみ割り人形」作曲再開、7月全幕草稿完成。
6月4日
1890年1月31日、渋沢栄一・原善三郎・茂木惣兵衛らの売込商を含む横浜船渠会社創立委員は、船渠築造設計の修正と水面使用料の申告を神奈川県知事あてに申請、翌91年6月4日に設立許可を得る。岩崎弥太郎を中心とした三菱汽船(後の日本郵船)会社は外国商船会社との競争に勝ったものの、その保有船舶の修理は大問題であり、横浜港修築と関連してようやく念願を達する。
6月8日
ゴーギャン(43)、タヒチ到着。夏、首都パペーテから45kmのマタイエアに住む。第1回目、2年間
6月9日
山際七司(43)、脾臓肥大症により没。
山際七司:嘉永2(1849)年1月2日、西蒲原郡木場村に誕生(天正年間代々庄屋の家柄)。明治3(1870)年10月父没後、庄屋に就任。幕末維新期、幕府側で戊辰戦争従軍。明治3年、村替え反対運動に関わり入牢。この年、父を継ぎ大河津分水工事用弁掛になる(分水工事は信濃川沿岸住民の悲願に拘わらず8年3月廃止)。8年、戸長に就任。9年9月に「新潟汽船会社」を開業(資金不足・汽船整備不良により燕~新潟間の汽船会社経営は失敗)。
11年、民権結社「自立社」の創立に関わる。12年に県会議員に選出。県会を通じて、その後行動を共にする小柳卯三郎(西蒲原郡東中村)と親密になる。13年4月「国会開設懇望協議会」を開催、国会開設建白(2回)、「東洋自由新聞」創刊、「越佐共致会」結成、馬場辰猪・板垣退助の遊説招致、自由党の結成、「北辰自由党」結成なに関わる。17年10月の自由党解党に際して反対電報を打つ。20年9月、大阪事件を無罪出獄。後藤象二郎遊説招致、東北十五州委員会開会、越佐同盟会結成、第1回衆議院選挙当選。23年8月、立憲自由党結成から党運営の主導権をめぐって反主流派を形成、10月除名。国民自由党入党。
6月10日
尾崎三良内閣法制局第一部長(49)、局長昇格。
6月10日
与謝野鉄幹(18)、安藤秀乗養子離縁、安養寺から離籍、与謝野姓に戻る。
6月16日
大井憲太郎(48)、横浜・蔦座での自由党政談演説会で「東洋政略」を演説、弁士中止となる。7月5日、勇座でも演説。
6月17日
桃水の働きかけにも拘らず、編集会議で一葉の作品が採用される機会はついに無く、6月17日、作品についての苦言を言われ、新聞掲載不都合と言い渡され失望。またこの日、折から半井家に寄宿していた鶴田民子の妊娠を知ったことも重なって、失望した彼女は6月17日以降10月末まで桃水を訪ねなかった。7月、鶴田民子は桃水の弟浩の子を出産。
6月16日、桃水から話があるから来るようにとの手紙が届く。一葉は、小説の採用についての不安と期待で眠れない夜を過ごす。
「例の小説の事なるべしとおもふにも胸つぶつぶと鳴こゝちす。何となく心にかゝりて夜一夜いもねず」
翌17日、桃水を訪ねた日記には小説の採否については明瞭に書かれていない。
「もの語りどもいと多かり。小宮山ぬしの深き御慮(オモンバカ)り、例のうしの情深さなどかたじけなしともかたじけなし」のみ記す。
日没近く平河町の桃水宅を出て、半蔵堀~千鳥ケ淵~九段上へといつもと違う道をとって帰る。
小宮山は、小説についての基礎的な勉強に時間をかけ、確かなものが書けるよう備えるべきであるという根本の問題を桃水に指摘し、それを桃水が一葉を傷つけぬように配慮しながら、かみくだいて語り聞かせたと思われる。萩の舎での和歌・王朝文学が教養の中心であった一葉に、桃水の親切があったにしろ、短期間の指導で新聞小説を即席に書くことは無理であった。
「暇乞申して出る頃、日はやうや西にかたぶく頃成し。今日は道かへて湟端(ホリハタ)を帰る。夕風少し冷かに吹て、みほりの水の面(オモ)て薄暗く、・・・み返れば西の山のはに日は入りて、赤き雲の色はたてなどいふにや、細く棚引たるも哀(アワレ)也。・・・堤の柳の糸長くたれてなびくは、人もかく世の風にしたがへとにや、いとうとまし。引かへて松のひゞきのたうたうとなるは高きいさざよき操のしるべ覚えて、沈みし心も引起すべくなん。秋の夕暮ならねど、思ふことある身には、みる物聞ものはらわたを断ぬはなく、ともすれば身をさへあらぬさまにもなさまほしけれど、親はらからなどの上を思ひ初(ソム)れば、我身一ツにてはあらざりけりと思ひもかへしつぺし。」
風に身を任せる柳のような生き方を拒み、風を受けて立つ松の高潔さに励まされる一葉は、苦しい心をかかえ、死をも思う一方で、厳しさにうち勝とうとしている。
自信の強い一葉は、作品が商品になりにくいと言われて、前途に光を見失い、ふと自殺の誘惑に引かれる。しかし、その後は気を取り直し、近世文学や現代小説の素養を身につけるべくせっせと上野の図書館に通う。
6月20日
川上音二郎座長書生演劇。浅草中村座。「板垣君遭難実記」など。幕間オッペケペ、歌舞伎批判。
6月23日
大槻文彦の『言海』完成を祝し、高崎正風その他、紅葉館(芝公園内)に宴会を催す。
6月23日
岸田劉生、誕生。
6月27日
中江兆民、小樽に赴き小樽の「北門新報」の主筆となる(同年4月21日創刊、社長金子元三郎)。~翌年秋。以降、小樽を去り、彼の「実業家時代」となる。
6月29日
アルゼンチン、市民同盟,ミトレらの保守派とアレムの非妥協派に分裂。アレム,急進市民同盟(UCR)結成。甥イポリト・イリゴーエンが幹部。
0 件のコメント:
コメントを投稿