2024年3月25日月曜日

大杉栄とその時代年表(80) 1893(明治26)年2月1日~28日 北村透谷・山路愛山「人生相渉る」論争 子規、『日本』に俳句欄を設ける 時局救済に関する詔勅 「恋はあさましきもの成けれ。」(一葉日記) 一葉(21)「暁月夜」(『都の花』第101号)    

 


大杉栄とその時代年表(79) 1893(明治26)年1月1日~31日 子規と漱石、坪内逍遥を訪問 一葉(21)「雪の日」完成 漱石「英国詩人の天地山川に対する観念」講述(「哲学雑誌」掲載) 「文学界」創刊 日比谷公園開園 より続く

1893(明治26)年

2月

神奈川県議の補欠選挙・再選挙(県政史上「流血の選挙戦」)。高座郡の県議補選(2名)で自由党長谷川彦八・金子小左衛門が当選。選挙に不正があり内務省告示で5月に再選挙。この2回の選挙戦は、自由・改進の両派が総力で対決。長谷川らの支援には、自由党領袖石坂昌孝・村野常右衛門らが三多摩壮士を率いてのり込み、改進党は島田三郎らが陣頭指揮。両派の運動員は夫々紅白の襷をかけ、仕込杖やピストルで武装して相手陣営に殴りこみ、双方に数百名の重軽傷者を出す。

2月

北村透谷「人生に相渉るとは何の謂ぞ」(「文学界」創刊第2号)。「人生相渉る」論争始まる。透谷と山路愛山。


「愛山生が、文章即ち事業なりと宣言したるは善し、然れども文章と事業とを都会の家屋の如く、相接近したるものゝ如く言ひたるは、不可なり。敢て不可といふ。何となれば、聖浄にして犯すべからざる文学の威厳は、「事業」といふ俗界の「神」に近づけられたるを以て損ずぺければなり、八百万(やおよろずづの神々の中に、事業といふ神の位地は甚だ高からず。文学といふ女神は、或は老嬢(オールドミッス)にて世を送ることあるも、卑野なる神に配することを肯(がん)んぜざるぺければなり。」

「中公バックス日本の名著」『徳富蘇峰・山路愛山』編者隅谷三書男は、その解説「明治ナショナリズムの軌跡」で、この論争についてこう書いている。


「愛山にあっては「文学は即ち思想の表皮」であり、思想の表出である事業が文学であったから、文学ほとりもなおさず事業だったのである。だから「思想」が欠けているように批判する透谷の批評は誤解であると同時に、思想=イデーだけが「天涯高く飛び去」る透谷的文学観をかれは容認しえなかったのである。思想が動いて文学となれば、必ず何らかの意味で「人生に相渉」らざるをえない、というのがかれの基本的な考え方であった。」

透谷と愛山は、個人的には親しい友人だった。


「北村透谷は、これを読んだ時、本能的にこれに対する反駁を書かなければならないと感じた。彼と山路愛山との交際は、二十四年の夏から始まって、この時までに約一年半続いていた。愛山は演説が上手で座談においてもよく議論した。しかし透谷は面と向っては愛山の所論に反駁することがあまりなかった。談笑の間に語り尽せないものが彼の内部にあったからである。二人は私交上では仲のよい友人であった。二十五年二月、北村が数寄屋橋のそばの父の家に住んでいた頃、愛山はそこから近い京橋の西紺屋町に下宿していて、二人は行き来した。山路がこの原稿を発表した一月頃、彼は赤坂区仲の町に住んでいた。北村はそこから近い麻布箪笥町に住み、西洋人の牧師からもらった山羊を一頭飼っていた。山路は北村とその辺の坂道を歩きながら、熱して語り、太いステッキで草をなぎ払った。」(『日本文壇史』第3巻)"

2月

内田不知庵訳『罪と罰』第二巻

2月

与謝野鉄幹(20)、落合直文(33)宅に寄食。落合直文が吉祥寺の学寮の路一つ隔てところに転居。

本郷区浅嘉町78番地(現、本駒込3-6-9)。4月、直文は鉄幹の実情を目にして、自宅に招き寄宿する場を与える。直文は、住所にちなんで「淺香社」を起し、和歌・新体詩・新しい國文學等の指導者としての實践活動に入る。鉄幹は直文により「棚草紙」、「日本」、「自由」新聞、「二六新報」、などに紹介され、森鴎外と近づきになり、大町桂月、尾上紫舟(さいしゅう)、金子薫園(かねこくんえん)、久保猪之吉らと交流。直文・弟の鮎貝槐園(あゆがいかいえん)と特に親しくなる。

2月1日

エジソン(45)、活動写真キネトスコープ製作。

2月1日

プッチーニ・オペラ「マノン・レスコー」上演。

2月3日

「国民之友」、政府内の2潮流(「文治派」=「新政派」=「軟派」=伊藤派、「武断派」=「旧政派」=「硬派」=山縣派)について述べ、文治派が民党に譲歩すれば武断派とは分裂し、民党の入閣・「文治派6分民党4分の連立内閣」となると予想。(明治29年4月、板垣、内相として入閣)

2月3日

子規、『日本』に俳句欄を設ける。日本派俳句普及の緒となる。

2月4

一葉の母たきと姉久保木ふじ、寄席へ行く。(菊坂町50の菊坂亭か、東竹町2の若竹亭か)

2月5日

この日付け一葉(21)の日記。

恋はあさましきもの成けれ。心をつくし身をつくして、成りぬべき中ならばこそあらめ。この恋成るまじき物と我からさだめて、さても猶わすれがたく、ぬば玉の夢うつつおもひわづらふらんよ。もとよりその人の目、はな、おとがひ、さては手足の何方におもひつきたりともなく、手かき文つづる類ひ、ものいひ声づかひたてたる心、いづくいづくといふべきにも非らず。ただ其人のこひしきなれば、常に我がおもふにも違ひて、ひとつひとつにいへば恋しき処もあらじかし。」

(恋は何ともみじめなものである。心をつくし身をつくして、成就する恋ならばまだ良いのだが、この恋は成就しないものと自分から決めて、それでもまだ忘れにくく、夜の夢にも覚めている状態の時にも、思い悩むことである。もちろんその人の目・鼻・下顎、あるいは手足のどこかに心惹かれるというのでもなく、字を書いたり文章を作ったりする動作、話したり声を出したりする心持、どこどこと言うことができるわけでもなく、ただその人全体が恋しいのだから、いつも自分が考えることと相違して、一つ一つについていえば、恋しい所がないとも言えるのだ。)

2月6日

一葉(21)、『都の花』に出す小説を書こうとするが、創作は捗らず。

金港堂の注文は、歌よむ人の優美な姿を書けというものであるが、その社会に立ち交ってきた一葉にとっては、歌人といえばねじけた人のように思われて、誠のみやびなどは書きようがなかった。「ひとつ松」と題するその作品は遂に挫折。

著作のことこゝろのままにならず。かしらはたゞいたみに痛みて何事の思慮もみなきえたり。こゝろざすは完全無瑕の一美人をつくらんの外なく、目をとぢて壁にむかひ耳をふさぎて机に寄り、幽玄の間に理想の美人を求めんとすれば天地みなくらく成りて、そのうつくしき花の姿も、その愛らしきびんがの声も、心のかがみにうつりきたらず。からく見とむれば、紫は未をうばひ、白は黒にうつり、表には裏あり、善には悪ともなひ、わが筆によそほひて、世にともなふべきあたひなく、しばしばうれひ、しばしばうらみ、かしこをけづりここをそぎ、ややわが心にみてりと思へば、黒のうせぬる時しろもうせ、悪をしりぞけし時に善も又みえず成りぬ。・・・

おもひおもひて心は天地の間をかけめぐり、身は苦脳の汗しとどに成りぬ。思慮につかれてはひる猶夢の如く、覚めたりとも覚えず睡れりとも覚えず。さしも求むる美の本体、まさしくありぬべきものともなかるべきものとも、定かに見とむるは何時の暁ぞも。我れは営利のために筆をとるか、さらば何が故にかくまでにおもひをこらす。得る所は文字の数四百をもて三十銭にあたひせんのみ。家は貧苦せまりにせまりて口に魚肉をくらはず、身に新衣をつけず。老たる母あり妹あり。一日一夜やすらかなる暇なけれど、こゝろのほかに文をうることのなげかはしさ。いたづらにかみくだく筆のさやの哀れうしやよの中」(「よもぎふにつ記」明26・2・6)

「心をあらひ、めをぬぐひて、誠の天地を見出んことこそ筆とるものゝ本意なれ。いささかの井のうちにひそまりて、これより外に世はなしとさとりがほなるを、人より見んにいか斗をかしからぬ。我もそのたぐひにて我ながらしもをかしきを、此眼ひらきがたきは其ならひ性ら成りしぞかし。やみぬべき哉」(2・9)

2月6日

カナダ、フランスとの通商条約締結。

2月7

一葉、一日机に向かい、日暮から上野の摩利支天にお参りし、荻野竹洲のところで「朝日新聞」を纏めて借りる。夜、「朝日新聞」の小説を読み、桃水の「雪達磨」(1/3~2/8連載の探偵小説)を読む。12時頃就寝。

2月9日

パリ、ムーラン・ルージュ、初のストリップ・ショー。

2月9日

レセップスのパナマ運河会社の役員に罰金刑・禁固刑判決。

2月10日

「時局救済に関する詔勅」。

和衷協同の詔勅(軍艦建造費を捻出するための詔勅。議会と政府の和協を説く)。井上毅のプロデュース。天皇が6年間毎年30万円の軍艦建造費を支出し、官吏俸給1割を献金させるので、議会は予算成立に協力せよ(軍艦建造費の復活)。

初期議会の対立・抗争の転機、自由党は急速に政府に接近。高田早苗や改進党の一部は「公益の為必要なる処分は、法律の定むる所に拠る」(憲法第27条)により「憲法的」でないと批判。

2月10日

一葉、ようやく構想が出来たので、今日から筆をとろうとするが、午前中は用事があった。

2月11日

漱石、子規宅を訪問

2月12日

(或いは19日)、帝国大学文科大学英文学談話会に漱石は出席。子規は欠席。

2月13日

この日より一葉の「よもきふ日記」始まる。署名「樋口夏子)。

2月14日

中川一政、誕生。

2月14日

アメリカ・ハワイ併合条約、調印。

2月15日

朝、風邪気味だった子規、血痰を吐く。陸羯南の紹介で往診した医師宮本仲は、この病気は今根絶しておかないと大患になるから用心するようにと忠告した。

2月15日

一葉(21)、この日記に、自分で「法通妙心信女」という戒名をつける。

「落花枝に返らず破鏡再度てらさず・・・今汝何によりてか此世に執着を止めんや。・・・速に悪念を去りて成仏得脱をとげよ。則汝を法通妙心信女と名付く 喝」 

2月15日

ブラジル、リオ・グランド・ド・スル州で連邦主義者反乱。

2月16日

後のソ連のトハチェフスキー元帥、黒海近くアレクサンドフスコで誕生。1937年6月スターリン粛清にあう。

2月18日

「東京府及神奈川県境域変更に関する法律案」、衆議院に提出。

19日、石阪昌孝、自由党代議士会で東京府及び神奈川県境域変更の件について反対の理由説明。

21日、衆議院、境域変更法案の審議開始。特別委員会(9名)設置、石阪昌孝委員となる。同日、自由党代議士会、境域変更法律案反対を決議。   

2月18日

独、農業者同盟成立

2月19日

この日発行『都の花』第101号に前年12月24日以前に脱稿した一葉(21)「暁月夜」が載る。藤本真(藤陰)は 「歌詠む人の優美なるを出し給へ」と勧めたが、以後制作は難航し、生活は困窮を極める

「表紙は薄紫の紙に桃や桜の絵模様でなかなか良い。私の「暁月夜」が掲載され、富岡永洗の挿絵も美しく、藤陰居士(金港堂の編集人藤本真)の紹介文に私のことが大げさに書かれているのも顔がほてる思いがする。」(『よもぎふ日記』2月22日)


「小林君に金かりに母君ゆく。」(「日記」1月)。


「わが家貧困日ましにせまりて今は何方より金かり出すべき道もなし。」(3月)。

2月20日

漱石、子規に宛てて手紙。文学談話会に病気欠席したことを心配して容体を訪ねる。

2月23日

夜、桃水来訪。『胡砂吹く風』(上下)を贈られる。桃水への思慕続く。「嬉しなどはよのつね、たゞ胸のみおどりぬ」と日記に書く。

桃水の依頼により「胡砂吹く風」に和歌を寄せてくれたお礼と本の贈呈のために来訪。一葉は、「うれしなどはしばし心地さだまりての後こそ、何事も霧の中にさまよふ様なり」と、夢中で迎える。「明ぬれど暮ぬれど嬉しきにも悲しきにも露わすれたるひまなく、夢うつゝ身をはなれぬ人」の訪れである。「いふべき事も覚えず間ふべき事も忘れて、面ほてりのみいと堪がたし」と、桃水への恋情を書く。

桃水への恋情を書く一方で、通俗作家桃水への厳しい批判をも書く。恋心を内面に抑制し、師桃水を乗り越えてより水準の高い文学を志す一葉。


「胡砂ふく風は朝鮮小説にて百五十回の長編なり。桃水うしもとより文章粗にして華麗と幽棲とをかき給へり。又みづからも文に勉むる所なくひたすら趣向意匠をのみ尊び給ふと見えたり。なれども林正元の智勇、香蘭の節操、青揚の苦節ともに、いさゝかもそこなはれたる所なく、見るまゝに喜ぶべきは喜ばれ、欺くべきは只涙こぼれぬ。さるは編中の人物活動するにはあらで、我が心の奥にあやつるものあればなるべし。・・・我が為、生涯の友、これを置て外に何かはあらん。孤灯かげほそく晴雨まどを打つの夜、人しらぬ思ひをこまやかに語りて、はばかる所もなくなげきもし悦びもせんは、うつせみの世に求めて得がたき所ぞかし。此夜此書をひもといて、暁のかねひとり聞けり。・・・」(「よもぎふ日記」明26・2・23)

2月25日

朝韓駐在公使大石正巳、朝鮮政府に防穀令による日本商人の損害として改めて17万余円要求。

2月26日

漱石、帝国大学文科大学英文学談話会に出席。子規は欠席。

2月27日

一葉、三枝信三郎に借金返済が果たせないことへの詫び状を出す。

昼から雪。雪景色を見て、桃水とのことを回想する。

28日、少し雪。一葉、頭痛で一日寝て過ごす。

2月28日

境域変更法律案可決。議会最終日、特別委員会は5対4で法律案を否決した旨の本会議報告。衆議院本会議は採決の投票を行い賛成多数で可決、貴族院でも殆ど論議なく閉会間際に可決。

26~27日、玉川上水羽村取水口の投渡木(なぎ)が何者かに取り払われ、玉川上水の水位が急速に低下、28日それが一斉に新聞報道。投渡木(なぎ)取り払いは、法案反対派の妨害行動とされ、議会は中立派議員を中心に法案賛成に回る。大逆転劇で法案は通過。4月1日で三多摩は東京府へ移管されることが決定。 

石坂昌孝にとり、三多摩東京府移管は大敗北体験。だが、法案通過直後から、管轄復旧のための運動への取り組みを開始し、自由党神奈川支部を武相支部に組織変更し、自由党組織の維持にも力を発揮。


つづく



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