1893(明治26)年
1月
自由党主催演説会。星亨、伊藤内閣へ「政費節減・民力休養」での譲歩を要求すると同時に、自由党にも要求をある程度引き下げることを求める。
「・・・物には順序がある、一遍には取れない。・・・取れない時は、少しでも取るがよろしい」。
1月
北村透谷「宿魂鏡」(「国民之友」) 評論「『罪と罰』の殺人罪」(「女學雜誌」)
1月
二葉亭四迷、つた(20)との婚姻届を出す。翌月、長男誕生。この月17日、飼い犬(「浮雲」にはマル、「平凡」にはポチの実名で登場)、行方不明となる。「犬うせて世は木がらしの吹くのみぞ」。
1月
子規、俳句の革新を「日本」俳壇で實践し始める。
1月
東京日本同盟倶楽部発会式。帰国中の石坂公歴出席。
石坂公歴:
明治22年サクラメント大平原ウォナッツグローヴ東方ニュー・ホープに入植。同24年日本人労働者70人を連れ、ホイットランドのフィスト・ブラザー農園でホップス摘採に従事。事業に失敗(?)。同25年帰国、父昌孝より資産分与受け再渡米。同40年父の病を聞き帰国、父没。この頃石坂家は完全に没落、同志にも見捨てられる状況。大正年間には一時カリフォルニア州ローディに在住。昭和18年5月5日付け書簡が最後。消息不明。
1月
愛国同盟中堅菅原伝ら、ハワイ王国革命を聞きハワイに転出。サンフランシスコの同盟本部は自然消滅。
1月
加州日本人靴工同盟会,正式発足
1月1日
川上音二郎、単身渡仏。
1月1日
子規、母妹とともに一家を構えて初めての正月を迎える。陸羯南、久松邸など年賀、日本新聞社出社。『日本』に日記「獺祭書屋日記」の連載をはじめる(~9月23日)。
1月1日
一葉(21)一家、のどかな年明け。早朝、芦沢芳太郎(母たきの弟夘助の子、一葉の従弟)が陸軍からもらった正月料理を携えて来訪。一日遊び3時頃帰隊。昔は、正月3日間は年始客のもてなしで羽根つきをする暇もないほどだったが、今は殆ど客もない。野尻理作、穴沢小三郎(西村釧之助の弟)、山下信忠(父則義の友人)から年賀状。こちらからは15軒ばかり出した。
2日、三枝信三郎、藤林房蔵、山下次郎、安達盛貞、兄の虎之助、稲葉正明が来訪。姉の久保木ふじを呼び、夜はかるた遊び。
3日、田中みの子が来訪。
4日、大嶋もどり子が来訪。
8日、年始廻り。下二番町の三宅龍子を訪ね暫く話す。「文学界」の小説執筆を依頼される。
昨年のこの日、桃水を訪ねて会えなかった思い出が甦り、胸が苦しくなる。
1月3日
子規と漱石、坪内逍遥を訪問。
1月8日
石阪昌孝、加住村の新年会(留所学校)に自由党員数名と参加。
1月12日
福沢諭吉、民党の攻勢に対する政府の消極的態度を批判し、「軍艦建造費の否決には緊急勅令を以て実現せよ」(「時事」)と示唆。
1月13日
山路愛山の評論「頼襄を論ず」(民友社の雑誌『国民之友』178号)。
「文章すなわち事業なり。文士筆をふるふ、なお英雄剣をふるふごとし。ともに空を撃つがためにあらず、なすところあるがためなり。万の弾丸、千の剣芒(けんぼう)、もし世を益せずんば空の空なるのみ。華麗の辞、美妙の文、幾百巻をのこして天地間に止まるも、人生に相わたらずんばこれもまた空の空なるのみ。文章は専業なるがゆえに崇(とうと)むべし、吾人が頼嚢を論ずる、すなわちかれの事業を論ずるなり。」
1月13日
夜、一葉の許に、5年前に上海に行った宮塚ふじ(父則義の旧知の次女)が来訪。宮塚が17歳の頃、一緒に羽根つきをした思い出と共に、懐旧の思いがこみあげ自らの落魄を思う。
1月13日
ジェームズ・ケア・ハーディ(37)、世界初本格的労働者政党・独立労働党結成。
1月14日
一葉、萩の舎の稽古始め、点取りの競争に時を過ごし、日が暮れてから帰宅。
1月15日
子規、鳴雪・松宇・古白らと句会(「根岸庵小集の記」)。
1月17日
一葉のもとに、三宅龍子から「文学界」の小説の最速の便り。とても憂鬱。
1月17日
ハワイ女王リリウオカラニ(55)、民族的な新憲法制定狙うがアメリカ人の脅迫で退位。王政廃止、米国保護領に。
1月18日
韓国、東学2代目教主崔時亭、大集会。初代の無実訴え。
1月18日
三多摩移管に関して、枢密院が法案の一部修正をはかった上で可決。
1月18日
一葉(21)、兄の虎之助に議会の傍聴券について便りを出す。26年度予算に関する衆議院での攻防に関心を向ける。政情不安でここ3日間、市中警戒も厳しい。(民党が政府予算案に対して軍備拡張費を削る修正案を出したが、政府は同意せず5日間の休会となった)
20日、西村釧之助を通して入手した23日の議会傍聴券を兄・虎之助に送る。
1月20日
一葉(21)、星野天知の依頼の「雪の日」が完成し、翌21日、原稿を田邊花圃(三宅龍子)に郵送。
慕っていた小学校の教師桂木との仲に「浮名」をたてられ、無理矢理引き離されるが、ある雪の日、桂木に身をまかせ、故郷を捨てて東京で同棲している15歳の薄井珠の悔恨を描く。究極において桃水を信ぜず、桃水と生活することに幸福を考え得なかった一葉の心境でもある。
1月21日
一葉(21)、午前から萩の舎稽古。不在の中島歌子に代って習字を教えるなどして日暮頃に帰宅。
1月22日
河竹黙阿弥、没。
1月23日
一葉(21)の母たきが小林好慶に借金にゆく。家でとっている「改進新聞」号外によれば、議会が内閣弾劾案を提出したのに対し、政府が15日間の議会停会を決定した。
1月28日
酒田の相馬屋で、町長らが芸妓に宮中官女の装束で接待させ問題となる
1月29日
漱石、英文学談話会で「英国詩人の天地山川に対する観念」を講述、「哲学雑誌」(3~6月)に掲載。
「彼がここで論ずる「自然主義」は、題名のとおりイギリス文人の天然自然に関する評論であって、まもなく日本で流行する田山花袋流の写実主義ではない。彼の言葉で言えば、「人間の自然と山川の自然」、つまり「虚礼虚飾を棄て天賦の本性に従ふ」生き方、あるいは「功利功名の念を抛つて」丘や谷間で隠者の心を楽しむ生活が自然主義なのである。
その先駆けとしてはポープ、アディソン、サミュエル・ジョンソンなど多数の名が挙がるが、到達点として示されるのはバーンズ(Burns, Robert 1759-96)と、イングランドの湖水地方出身のワーズワース(Wordsworth, William 1770-1850)の二人である。
前者バーンズの「自然」は彼に対して喜怒哀楽の情を見せ、しかも人間のように相手を傷つける心配がない。バーンズは同輩に対するように自然万物に呼びかける。一方、後者ワーズワースの詩には「其内部に一種命名すべからざる高尚純潔の霊気」が充満している。バーンズは自然の内に「活気」を認めたけれども、それが「人間と気を同ふする」とは考えなかった。そこでは「外界の死物を個々別々に活動せしめ」る姿勢があるが、ワーズワースは「凡百の死物と活物を貫くに無形の霊気を以てす」というのが漱石の説明の要約である。後者の例として引用されている ""My heart leaps up when i behold a rainbow in the sky"" に始まる詩は、「私の心は虹を見ると躍る 小さい時もそうだった」の訳で広まった。」(岩波新書『夏目漱石』)
講演は好評で、大塚保治・藤代禎輔ら哲学会の書記をしている級友のすすめで、「哲学雑誌」3~6月号に連載された。それ以前に漱石は同誌にオーガスタス・ウッドの『詩伯「テニソン」』の翻訳を連載している。また、前年10月号には『文壇に於ける平等主義の代表者「ウォルト、ホイツトマン」 Walt Whitman の詩について』を書いている。
当日、漱石は子規が聴きに来るものと期待していたが、子規の姿は聴衆のなかに見出せなかった。心配した漱石は、その後も音沙汰のない子規に宛てて手紙を書く。
談話会のあった日は大雪であった。子規は出席するつもりで会場に向かったが、10銭の会費を持たないことに気がついて途中で引き返したらしい。
1月29日
本格的な積雪。一葉、雪に思う。
「庭もまがきもただしろがねの砂子をしきたるやうにきらきら敷、見渡しの右京山、ただここもとに浮出たらん様にて、夜目ともいはずいとしるく見ゆるは、月に成ぬる成るべし。ここら思ふことをみながら捨てて有無の境をはなれんと思ふ身に、猶しのびがたきは此雪のけしき也。とざまかうざまに思ひつづくるほど、胸のうち熱して堪えがたければ、やをらをりて、雪をたなぞこにすくはんとすれば、我がかげ落てありありと見ゆ。月はわが軒の上にのぼりて、閨(ネヤ)ながらは見えざりしぞかし。・・・
降る雪にうもれもやらでみし人の
おもかげうかぶ月ぞかなしき 」
1月31日
「文学界」創刊。~明治31年1月。創刊号1,500部は発売当日に全部売り尽し、すぐに1,000部増刷、これも1週間で売り切れた。
執筆者は主宰者星野天知、明治女学校校長巌本善治、北村透谷(25)、古藤庵無声(島崎藤村)、平田禿木。「女文欄は原稿の到着不十分に付き本号には之を欠きたり」と書かれている。期待通りには女性の書き手は現れてこなかった様子。冒頭に掲げられている「発行緒言」の最後に、「本誌の為めに特に力を尽さんとせらる、諸君大略左の如し」とあり、その第1項に「若松、花圃、一葉の諸名嬢は袂を連ねて清婉優雅なる作に筆を染め」と、一葉を若松賤子、三宅花圃と並べて扱っている。北村透谷「富嶽の詩神を思ふ」。
萩の舎で学んだ和歌と王朝文学の教養を基礎とし、江戸文学や現代文学を吸収するようになった一葉が、時代への批判と西欧的な近代精神を日本文学に吹きこんだ『文学界』の潮流に交わることで、その文学を大きく変えることになる。
「明治十八年十月に、高輪台町教会の牧師木村熊二の妻木村鐙が、麹町区飯田町一丁目七番地に、キリスト教思想を中心とする新しい女子教育の塾、明治女学校を創立した。そして、明治十六年に木村熊二牧師によって洗礼を受け、キリスト教宣教活動に従事していた『女学雑誌』主宰者巌本善治を教頭に招いた。校長の木村鐙はその頃から病みがちで、学校の事務は二十三歳の巌本に全面的にまかせられた。
木村鐙は翌十九年八月十八日に死去し、厳本が後を継いだが、厳木は、創立間もなく亡くなった鐙を尊重して、いつまでも校長の席を空け、自ら教頭と称していた。
明治女学校は明治二十年十一月、九段中坂上の飯田町三丁目三十二番地に校舎を新築した。
しかし明治二十三年八月にはまた下六番町六番地へ移っている。その明治二十三年に、厳木善治のもとで『女学雑誌』の編集主任をしていた星野天知が教務主任となった。そして島崎藤村が明治二十五年の一年間と、二十七年から翌年にかけて、北村透谷が二十六年から翌年まで、戸川秋骨がやはり二十六年から翌年まで教鞭をとった。これらの若き文学者たちが、明治二十六年一月、女学雑誌社から『文学界』を創刊したのである。」(巌谷大四『東京文壇事始』「明治女学校と巌本善治」)
北村透谷、馬場孤蝶、戸川秋骨、島崎藤村、平田禿木ら「七人の旋毛曲り」よりハーフジェネレーション(5歳ほど)若い世代が登場する。舞台は、明治期の有名なキリスト教伝道者巌本善治が教頭をつとめる明治女学校や彼の主宰する雑誌『女学雑誌』である。
「こういうパンクな「怒れる若者たち」を脅威に感じていたのは、徳富蘇峰をはじめとする民友社の人々よりも、むしろ、年の近い、尾崎紅葉ら硯友社の作家たちだった。・・・・・
(略)
この『文学界』の「怒れる若者たち」に、紅葉と対照的な態度を示したのが、斎藤緑雨である。緑雨は彼らと積極的に付き合おうとした。・・・・・
(略)
そして緑雨は、『文学界』の若者たちと共に、その頃の文学の「新しい潮流」、例えば樋口一葉に近づいて行くのである。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))
1月31日
日比谷練兵場跡を公園にする。総面積14万5,618㎡。日比谷公園と称す。
つづく
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