1907(明治40)年
〈谷崎潤一郎と精養軒〉
明治40(1907)年11月25日に上田敏の洋行送別会が行われた上野精養軒ホテルは、当時の東京の代表的なホテル兼レストランであった。
日本人の手で最初に出来たホテルとしては、慶応3年に幕府の外国奉行が計画し、明治元年8月に完成した東京築地ホテルがあった。このホテルは木造瓦葺4階建で、延1600余坪、収容能力100人の規模であったは、明治5年の京橋銀座の大火で焼失した。
明治10年頃、上野に精養軒ホテルができた当時は、経営実態は幼稚なもので、客として来た在留外人のベアやベルツなどが献立の仕方、寝台の整え方を教えるほどであった。しかし、その経営は次第に安定し、上流階級・知識人階級は社交の場としてここを利用するようになった。
明治16年、鹿鳴館が日比谷に設けられたのと前後して、洋風のホテルやレストランの数も増し、明治20年に東京ホテル、22年にホテル愛宕館、23年には渋沢栄一、大倉喜八郎等が発起となって帝国ホテルが日比谷に建築ざれた。ホテル業界の先駆者であった精養軒は上野と築地にホテル兼レストランを営み、宮中の宴会を請負うことなどもあって繁栄した。
明治40年、精養軒の当主は北村重昌でまだ30歳そこそこであった。この4年前、明治36年6月、谷崎潤一郎が家庭教師兼書生としてこの家に住み込んだ。北村家の邸宅は、歌舞伎座の向いの築地精養軒ホテル、食料品を売る精養軒西店、精養軒のパン工場の3つの建物の間にあった。
谷崎潤一郎は、明治19年(1886年)7月24日、日本橋区蠣殻町二丁目十四番地に、父倉五郎、母関の長男として生れた。父倉五郎は、神田万世橋の北側にあった玉川屋という大きな酒屋の次男に生れたが、少年時代に父母を失い、家は没落した。兄の英之助が谷崎久右衛門という米穀相場の速報を出版していた印刷屋の長女花の婿になった縁で、弟の倉五郎も花の妹関の婿となり、谷崎を名乗り分家した。
英之助は谷崎久兵衛と名を変え、米穀仲買人として成功した。倉五郎は、舅から分け与えられた資産によって、はじめ洋酒屋を営み次に街灯の掃除と点火を業とする点灯社を経営し、次に兄を見習って米穀仲買人となったが、実直な好人物に過ぎたので、そのいずれにも失敗した。潤一郎が生れた当時はまだ生計が豊かであったが、失敗するに従って倉五郎は転々と家を変え、次第に生活が苦しくなった。明治23年、潤一郎5歳のとき、弟精二が生れた。
純一郎は、数え年7歳で日本橋区の坂本小学校に入学したが、金持の総領息子として父母や乳母に甘やかされていたので、学校でも乳母が見える所にいないと泣き叫ぶのか常であった。そのため彼は1年生で落第したが、その次の年には一番で2年生になった。彼を落第させた稲葉清吉という教師が、潤一郎が高等科1年になったとき、また受け持ち教師となった。
稲葉清吉は師範学校出身の独身であった。彼は、主に哲学宗教関係の書物を読んでいたが、中国や日本の古典についても教養があり、熱意をもって生徒に教えた。高等小学校の4年間稲葉訓導の指導を受けて、潤一郎は漢詩や和歌の感銘の深い作品を読み味う方法を体得した。
潤一郎の同級の小学生たちは、回覧雑誌「学生倶楽部」を出して、彼は高等科2年生になった13歳頃から誘われてそれに参加し、花月散士、笑谷居士という筆名で文章を書きはじめた。
高等科は4年制であり、その2年を終えたものは中学校に入る資格があった。潤一郎は中学校に入りたかったが、その頃父が米穀仲買人として失敗し、家計が逼迫していたので、4年を終るまで小学校にいなければならなか
明治34年春、数え16歳で小学校を卒業したが、父は彼を上級の学校へ入れようとしなかった。しかし、稲築訓導や親戚の者の助言で父を承諾させ、4月、潤一郎は日比谷桜田門前の府立第一中学校に入学した。
彼の家の家計はいよいよ窮迫し、2年生になった春、彼は父から学校をやめるよう言い渡された。しかし、彼は父の再三の要求にかかわらず中学校をやめるという気持ちになれず、父と学校との間で話し合いがもたれた。潤一郎は東京の秀才の集りと言われた府立一中の中でも目立った秀才であったので、学校は何とか解決策を見出そうと努力した。特に国語担当の渡辺盛衛という教諭が彼を惜しんで学資の出る道を探した結果、明治35年4月、潤一郎(数え17歳)は父に連れられて、麹町中六番町の貴族院議員原保太郎を訪ねた。原は長州出身で、維新の際、上州の領地に引き籠っていた小栗上野介を斬首した官軍の隊長であった。また明治28年春、講和談判のため下関に来た李鴻章が上陸しようとしたところを小山六之助が拳銃で狙撃した時、山口県知事をしていた。その後は北海道庁事長官にもなった内務官僚である。
潤一郎は、原の屋敷の書生になると思っていたが、谷崎親子を居間に通した原は、紹介状を書いて渡し、築地の精養軒へ行かせた。
潤一郎が教えるのは、この家の幼い二人の少年と、中学校へ入ろうとしている主人の弟たちであった。玄関を入った左側に、琉球畳を敷いた六畳間があって、雑用をするもう一人の次郎さんという書生と、一緒に彼はそこに寝起きすることになった。子供たちは勉強のときにはそこへ来るのであった。
晩の食事のときは彼は、台所の戸棚と竈(かまど)の間の板の間に坐り、「戴きます」と挨拶して、その書生と向い合って食べた。この家には二人の書生の外に女中が三人いた。
その晩彼は床へ入ってから、自分も小学生の頃はここの家の子供たちのように「坊っちゃん」と呼ばれ、家にも多くの奉公人がいて何不足なく暮したことを考え、悲しくなって涙を流した。
潤一郎は家庭教師という名目で傭われたのだったが、日が経つに従って、子供たちを教えていないときは、家庭の用事を何でも言いつけられ、書生として働かされていた。
学校にいるときの潤一郎には、暗いいじけた所が全く見えず、傲然とした態度で級友たちに臨んでいた。北村家に住み込んで5ヵ月ほどして、9月の新学期に、2年生の彼は3年生に飛び級した。飛び級は、明治の秀才に許された特別待遇であった。
純一郎は、1年から3年まで首席を通した。彼が飛び級で3年となったとき同級になった吉井勇は、目立たない存在で、学年末の明治36年4月に落第し、それを機に退学したので、純一郎と間には交際がなかった。
3年生の潤一郎は4年生の土岐善麿、5年生の黒田朋信と三人で文芸部の委員をしていた。純一郎は1年生の時から「学友会雑誌」に漢詩や美文や文芸評論を発表していて、そのいずれもが、中学生の手になるとは思えないほど辞句が華麗で才気の迸るような文章であり、全校の注目のまとであった。
明治36年3月、潤一郎(数え19歳)は府立第一中学校を卒業し、7月、第一高等学校入学試験に通って英法科に入学した。一高に入ってからも潤一郎は北村家の家庭教師兼書生をしていたが、その翌年、数え20歳で2年生になった明治40年、彼は「校友会雑誌」に小説らしい文章を発表しはじめた。即ち、3月20日発行の第165号に「狆(ちん)の葬式」を、6月10日発行の第168号に「うろ覚え」を書き、その外に「死火山」というのも発表した。
これ等の作品を発表した頃、潤一郎は、箱根塔の沢の宿屋の娘で行儀見習のため北村家へ小間使いとして住み込んでいたふく子という娘が好きになった。二人の間にはある程度の交際があった。ふく子は少し前に北村家をやめて郷里へ帰っていた。そのふく子から谷崎あてに来た手紙を、朋輩の女中が盗み読みしたところ、「どうぞ私のことは思ひ切って下さい」という文句があった。そのことを女中は北村家の妻君に告げ口した。妻君は、その文句がある以上、二人の間に関係があったと推定した。
北村家から呼び出され、父倉五郎が精養軒の事務室へ出かけると、北村重昌は、婦人関係のことで間違いがあっては大事な息子さんを預っていて申しあけかない、という理由で、即座に潤一郎を連れ帰らせた。
父に連れられて家へ帰る途中、潤一郎はふく子とのいきさつを話した。倉五郎は「ふん、ふん」と耳を傾けてうなずき、潤一郎を答めることはなかった。
家では母の関は「あたしゃお前が大怪我でもして、呼びに来られたんじゃをいかと思って、飛んだ心配をしちまったよ」と言っただけであった。
純一郎はこの事件を機会に、文士として世に立つことを決心し、英法科から英文科に移った。
(『日本文壇史』より)
つづく

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