2014年2月18日火曜日

康平5年(1062)7月~10月 前九年の役の終結(小松柵、衣川関、鳥海柵、厨川柵で合戦)。 源頼義、清原氏の協力を得て安倍氏を滅ぼす

北の丸公園 2014-02-14
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康平5年(1062)
7月
・源頼義、出羽山北(でわせんぼく)三郡(雄勝おがち・平鹿ひらか・山本)の俘囚の主、清原光頼(みつより)とその弟武則(たけのり)に財宝を贈って協力をとりつける。
この月、武則1万余が来援。
7月26日、武則軍の陸奥国到着を待って頼義は国府を出陣。
8月、栗原郡営岡(やむろがおか、宮城県栗駒町八幡)で源頼義軍3千と合流。

清原武則:
陸奥の隣国出羽の豪族。
史料上では俘囚とされるが、土着した陸奥権守とされる安倍氏と同様、降伏した蝦夷の子孫というわけではない。
桓武平氏で、将門と戦った貞盛の弟繁盛の系統と密接な関係をもち、武則も平氏一門から迎えられた養子の可能性が強い。
前九年合戦以前から従五位下の位階を有し、中央ともつながりをもった軍事貴族。

清原氏の参陣
前九年合戦は、出羽の俘囚清原一族の参陣で最終局面をむかえる。
黄海合戦での敗北以後、頼義はその建て直しに5年を費やす。
この間、安倍貞任の側は「諸郡に横行、人民を劫略・・・衣川関を出(い)で、使を諸郡に放ち、官物を徴納す」という状況が続き、「将軍制すること能わず」の事態のなかで、頼義は「出羽の山北の俘囚の主、清原真人光頼(きよはらのまひとみつより)、舎弟武則(たけのり)等に説きて、官軍に与力せしむ」との方策に出た。
頼義は、伝統的戦略”夷ヲ以テ夷ヲ制ス”に依存せざるを得ない状況のなかで、清原氏との連携を選択した。
源斉頼の出羽守起用による対応に失敗し、頼義は最後の望みとして清原氏の来援を請うことになった。
「将軍常に贈るに奇珍しきものを以てせり」との贈物攻勢と鎮圧後の恩賞(官職推挙)で、清原氏を口説き落としたようだ。
後年、後三年合戦において、清原千任(ちとう)は、前九年合戦での清原側の来援を請う頼義の低姿勢を「主従の誓い」となじっている。少なくとも清原氏にとって、その助力は頼義への”貸し”と解されていた。

7陣編成の征討連合軍のうち、頼義が指揮する第5陣以外の指揮官はすべて清原一族で占められ、頼義の第5陣も、頼義直属軍・在庁官人軍・武則軍からなっていた。
征討軍の殆ど清原氏の軍勢だった。
これから後の貞任軍との決戦で、坂東武士が活躍する場面はない。
戦闘の主役は清原軍であり、戦争の性格も、謀反追討を名目にした清原氏による安倍氏打倒と奥六郡の乗っ取りに変わっていった。

かつて頼信は、国司軍2千を凌駕する3千騎の平惟基軍の支援を受けて平忠常を屈伏させたが、今回も国司軍を凌駕する地方豪族の支援を得ることになった。

第1陣:清原武貞(武則の子)1500、
第2陣:橘貞頼(武則甥志方太郎)、
第3陣:吉彦秀武(武則甥荒川太郎)1500、
第4陣:橘頼貞(武則弟新方次郎)1500、
第5陣:源頼義2千・清原武則1千・国府側武官1千、
第6陣:吉美候武忠(斑目四郎):1500、
第7陣:清原武道(貝沢三郎)1500。
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8月19日
・源頼義・清原武則連合軍、小松柵に於いて安倍貞任を破る。
小松柵は、衣川関より南に位置し、安倍氏側の防衛の最前線。
連合軍は、松山道(宮城県玉造郡葛岡(岩出山町)~栗原郡栗原(栗原市栗駒)~岩手県磐井郡に通ずる道)を経て磐井郡の萩の馬場(一関市萩荘)に到り、小松柵(安倍良照、一関市上黒沢)に迫る。

まず、安倍軍騎馬隊が出撃。
連合軍第3陣までが破られるが、第4陣が安倍軍の勢いを止め、安倍軍騎馬隊は柵内へ壊走。
連合軍別動隊が柵内を放火し、連合軍が柵内へ殺到、小松柵は落城する。
救援の安部宗任800は、勝ちに乗じた連合軍の攻撃を受けて壊走。
緒戦は連合軍の大勝利。

『陸奥話記』は、頼義配下の平真平(まさひら)・菅原行基(ゆきもと)・源真清(さねきよ)など十数名を列挙し、「皆これ将軍麾下の坂東の精兵なり」と記す。彼らが、第5陣の頼義直属軍の中核(頼義の私兵集団)であった。
「坂東の精兵」たちと清原軍との連携が功を奏し、小松柵は陥落した。
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9月5日
・安倍貞任軍8千が小松柵の官軍(源頼義・清原武則連合軍)を急襲。
秋も深く長雨で厭戦気分が連合軍を襲っていた中での戦いは、武則が頼義に進言したように「これ、天の将軍に福(さいわい)する」戦いともなった。
貞任軍も苦戦をしいられ高梨宿・石坂柵(ともに一関市赤荻付近)を棄て、衣川関(安倍氏の本来の拠点の境、奥六郡の玄関)へ逃走。

翌6日、頼義を中心に武貞・頼貞・武則の各陣が衣川関に通じる諸道から、衣川関を攻撃し、7日、これを打破。安倍貞任は鳥海柵へ退く。
防衛ラインの突破で戦局は急速に動き出す。

『古今著聞集』(橘成季(たちばなのなりすえ)が建長6年(1254)に著した説話集)にある源義家と安倍貞任の歌の名場面は、この衣川関の戦のこと。
義家が敗走する貞任をみて、「衣のたてはほころびにけり」(衣(よろい)の楯と館の掛詞)と歌で呼びかけたところ、貞任がふりかえりつつ 「年を経し糸のみだれのくるしさに」と上句をつけ、その即妙に感じた義家は貞任を逃がしたとの説話である。
武士道を賛美する戦前の教科書には大きく取り上げられていた。

これは「好事者の所為」(『大日本史』)であるが、この歌に含意されているものは象徴的である。
衣川関という最初のそして最大の防衛拠点を失ったことで、この戦いの趨勢はほぼ決定した。
安倍氏のその後は最後の抵抗(厨川の戦い)はあるものの、まことにあっけない。
このあっけなさは、頼朝の奥州合戦における奥州藤原氏の抵抗の脆弱さと同じく、安倍氏の領域支配の弱体に起因している。

9月7日に衣川関を破った連合軍は、奥六郡の内部に突入、胆沢郡白鳥村(奥州市前沢)に到り、11日には鳥海(とりみ)柵を攻略する。
『扶桑略記』にも「鳥海柵を襲う、宗任等城をすて逃げ去り、厨川柵を保つ」とみえ、宗任の鳥海柵放棄、厨川柵への退却のことがわかる。
宗任の拠点だった鳥海柵に足をふみ入れた頼義は、清原武則を前に、「自分は長年の間、鳥海柵の名を聞いてはいたが、この眼で見たことはなかった。これもあなたの力添えのお陰だ」と語ったという。
ここに逗留し、将兵を数日休息させ、14日、連合軍は安倍氏最後の拠点、岩手郡の厨川柵をめざし北上した。
この間、別働隊の清原武則軍は安倍正任の拠点和賀郡の黒沢尻柵〈北上市黒沢尻町)を落とし、さらに北方の鶴脛(つるはぎ、江刺岩谷堂)・比与鳥(ひよどり、江刺稲瀬)の両柵を攻略し、厨川柵に迫る。

厨川合戦と安倍氏の滅亡
9月15日夕方、連合軍は、安倍氏の総帥貞任の拠点、互いに近接した嫗戸(うばこ)・厨川(くりやがわ)の両柵(盛岡市)に迫った。
とりわけ厨川柵の攻防は激しさを極めた。
厨川柵は、安倍館・嫗戸柵が絡んだ集合的な柵。
「件の柵の西北は大なる沢ありて、二の面(おもて)は河を阻(へだ)つ、河の岸は三丈余なり、壁のごとく立ちて途なし」(『陸奥話記』)とある。
柵は、北上川と雫石川の合流する北側に位置し、川・湿地帯に守られ、9mの断崖にある要害であった。
安倍軍は、こうした地に櫓(やぐら)を構え、空濠には刀を逆さまに植え、遠くの軍兵を弩(おおゆみ)で威嚇し、近づく者は石や煮えたぎる湯で阻止した。

中世の防御戦でも投石はごく一般的に見られるが、弩はない。
弩(ボーガン)は、装填手と射手の2人で操作する台座付きの大型兵器で、律令軍制の制式兵器であった。そこから発射される太く長い鉄矢は、攻城軍の楯ぶすまを粉々に突き破る威力がある。鎮守府胆沢城に設置されていた弩が廃城のときに持ち出され、安倍氏の手に帰していたのであろう。

翌16日夜明け、総攻撃。
弩と矢石に悩まされた連合軍は数百人の死者を出す。力攻めとは別に、頼義勢は厨川の孤立化を図ろうとした。

翌17日、頼義勢は近辺の村々の屋舎を壊しこれを濠に埋め、河岸に萱草(かやくさ)を積み上げ火を放つという作戦を展開、これにより難攻をきわめた厨川柵も陥落した。

総攻撃では、清原武則は、追い詰められた安倍氏側に「道を開きて賊の衆を出すべし」とし、柵外に逃げ出す軍勢を討滅する作戦を進言した。
安倍貞任(44)は重傷を負い連合軍側に捕えられたが、頼義と顔を合わせ息絶えたという。6尺(182cm)の威丈夫で「容貌魁偉」と形容されたその風貌は、一族の総帥にふさわしい堂々たる体躯のもち主だったようだ(『扶桑略記』)。

藤原経清も捕らえられ、将軍頼義の前に引き出され、裏切りの代償として鈍刀で首を打たれたという。
12年におよぶ戦いの労苦は経清への憎しみとなって噴出したかのような凄惨な処刑だった。

貞任の息子千世は13歳だったが、その勇敢さのゆえに後難を怖れ殺された。
則任(のりとう、白鳥八郎、ただし「安藤系図」には頼時の兄で法名良昭とする)の妻も3歳の児を抱き深淵に身を投じ、みずからの命を断った。
その他、貞任の弟宗任・家任(官照)や伯父安倍為元らが投降し、戦闘は終わる。

頼義は「夷狄の居はすでに公地となった。叛逆の輩はみな王民になった」と、「征夷」の終結を誇らかに宣言した。

安倍宗任は逃亡後、投降、伊予へ配流。
藤原経清の妻は、子供(4、藤原3代の基礎を築く清衝)を連れて敵方の清原武則の子の武貞と再婚。

こうした経過をたどった前九年の役は、受領・国使を襲撃・殺害するこれまでの反受領闘争とは性格を異にする。
前九年の役は、陸奥守頼義が、安倍氏による奥六郡の自治的支配を解体しようと挑発して始めた侵略戦争であった。
頼義の直接の目的は陸奥守の重任と勲功賞獲得であったが、安倍氏を滅ぼしたあと、奥六郡司職を郎等や在庁宮人に分与して受領による直接支配を実現しようとしていたものと推測できる。

だが途中で清原氏の援助を仰がざるをえなくなってこの戦争の性格は変わり、清原氏が安倍氏王国を吸収して、さらに巨大な自治支配が奥羽に登場することになったのである。

翌康平6年(1063)2月16日、貞任・重任・経清の首が都に運ばれた。
同27日の論功行賞で頼義は正四位下伊予守に、義家は従五位下出羽守に、義綱は左衛門尉に任ぜられた。清原武別は従五位下鎮守府将軍の賞に浴した。

頼義みずからが京都に凱旋したのは、翌康平7年(1064)3月。降人宗任・家任・正任らを伴っていた。
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10月
・アウクスブルク公会議、教皇アレクサンデル2世を教皇として承認。
皇帝摂政ケルン大司教アンノ、最初から「教皇アレクサンデル2世を教皇として承認する」との結論を決めていた。
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10月29日
・源頼義から安倍貞任らを斬首・捕獲したという解文(げぶみ)が政府に届く。
この解文に対し政府では、頼義と貞任との合戦が国家的追討なのか私合戦なのかが問題になった。
しかし頼義勝利の報はすぐさま京中を駆けめぐり、たび重なる内裏・大内裏の焼亡や興福寺・法成寺の焼亡など、末法の沈鬱なムードをかき消すニュースに京内は沸き返った。
後冷泉天皇も戦勝報告に感激し、もはや追討か私合戦かを審査するどころではなかった。
今や頼義は夷狄征討の英雄であり、政府も「忠臣」頼義の奉公と忠節を讃えることによって、「皇威」 の安定ぶりを京内外に示さなければならなくなった。
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