2014年2月21日金曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(62) 「三十四 浅草の「一味の哀愁」」 (その2) 「薄暮淺草に往きオペラ館踊子等と森永に夕餉を食す。薬屋に至るに朝鮮の踊子一座ありて日本の流行唄をうたふ。聲がらに一種の哀愁あり。朝鮮語にて朝鮮の民謡うたはせなば噍ぞよかるべしと思ひてその由を告げしに、公開の場所にて朝鮮語を用ひまた民謡を歌ふことは厳禁せられゐると答へさして憤慨する様子もなし。余は言ひがたき悲痛の感に打たれざるを得ざりき」(昭和16年2月4日)

カワヅザクラ 北の丸公園 2014-02-21
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浅草の平穏は、日米開戦後すら変らない。

昭和16年12月11日
普段と変らない浅草の様子に荷風は驚きを隠さない。
「日米開戦以来世の中火の消えたるやうに物静なり。淺草邊の様子いかゞならむと午後に往きて見る。六區の人出平日と變りなくオペラ館藝人踊子の雑談亦平日の如く、不平もなく感激もなく無事平安なり。余が如き不平家の眼より見れば淺草の人達は堯舜の民の如し」

常民の平常心といえばいいだろうか。
ここには「進め一億火の玉だ」だの「屠れ英米我らの敵」だのといった軍事色はない。エリート軍人も政治家もいない。時局に便乗するような文士もいない。いるのは芸人や水商売の女たちであり、慎ましい生活者たちである。
荷風には、軍事色が日に日に強まるなかで浅草がまるで別天地に見えたことだろう。

「荷風はゆっくりとそのなかに入っていった。群衆にまじって芝居やレヴューを見る。カフェーの女給と除夜の鐘を聞き、観音堂に初詣に出かける。満員の芝居小屋で人情劇を見て感動する。やがてはオペラ館の踊子たちと親しくなり、その楽屋に出入りするようになる。ついには、オペラ館のために上演台本「葛飾惰話」(昭和13年)を書き上げる。日本の社会が戦争に向かって進んでいくなかで、荷風は時代から取り残されたような別天地を発見し、その陋巷のなかへ身をひたして行く。」(川本)

昭和12年12月31日
「晴れて寒し。昏暮淺草に飯しカフヱージャポンに憩ふ。除夜の鐘をきく。女給いち子を拉し観音堂に賽す」

昭和13年2月6日
「晡下睡より覺む。掃塵食事の後電車にて淺草に往きオペラ館に入る。半裸体の踊子の姿老眼を慰むること甚し」

「半裸体の踊子の姿老眼を慰むること甚し」」とはいかにも楽しそうだ。
ここには狷介孤高の気難しい文士の顔はない。気難しい荷風が、別天地の慰みにただ身をまかせている。
オペラ館の楽屋に自由に出入りし、半裸体の踊子たちと親しく付き合うことが出来たのは、オペラ館の楽屋を描いた小品「勲章」(昭和17年)にあるように、荷風の年齢がすでに「耳順」(60歳)に達し、「半裸體の女が幾人となくごろごろ寐轉がつてゐる部屋へ、無断で闖入しても、風紀を紊乱することの出来るやうな體力は既に持合してゐないもの」と見なされていたためだろう。
いわば老いの特権であり、荷風はここでは老いすらも楽しんでいる。踊子たちといっしょに仲見世を歩くときなど、まるで孫を見つめる好々爺の感さえある。

昭和14年10月18日
「夜日本橋に飯して淺草公園の森永茶店に至る。常磐座欒天地の踊子群をなして来るに逢ふ。共に仲店を歩む。踊子の一群婦人用装飾品を陳列せし店頭を過る毎に立止りて物品を手に取りて品評して飽くことなし。余若かりし時吉原の雛妓を引連れ仲店を歩み花簪買ひたりし頃の事を恩起して、露時雨の一際身にしむが如き心地せざるを得ず。世は移りわれは老ひ風俗は一變したれど、東京の町娘の浮きたる心のみむかしに變らず。是亦我をして一味の哀愁を催さしむ」

買物を楽しむ踊子たちの陽気な姿に、昔の東京の「町娘の浮きたる心」を見て、覚えず微笑んでいる。
浅草という別天地が荷風の心をくつろがせている。

荷風の随筆「淺草公園の興行物を見て」(昭和12年)にあるように、この頃の浅草の芝居などまず新聞の批評に取り上げられることも、好事家に語られることもなかった。
だからこそ荷風は一流とはいえないオペラ館のような劇場で上演されるほとんど無名の一幕物に感動した。
ここにも荷風の陋巷趣味、反時局意識が働いている。

荷風はこの随筆のなかで初めてオペラ館の舞台を見て強い印象を受けたことを書いている。
「曲馬の新舞踊に興味をおぼえたので、その夜からわたくしは他の興行物をも一通り見歩く気になって、交番の傍に在るオペラ館に這入った。演劇とレヴューとが交る交る二幕づゝ演じられる。わたくしは初め何の考もなく、即ち何の期待も豫想もなく這入って見たのであるが、其演劇を見て非常に感服した」

興味深いのは荷風が浅草の大衆演劇を覚めるとき、浅草という独特の場との関係で語っていることである。
浅草の興行物がいいのは、それが浅草で演じられているからであると。

「わたくしは淺草の興行物について、オペラ館の演藝のみを絶賞したが、然し此の一座の演藝を其まゝ他の町の劇場に移したなら、恐らく斯くの如き効果を収める事はできまいと思ふ。巴里モンマルトルの俗謡と滑稽劇とが其町より外には存在しない特種の雰囲気の中に発達した事を思へば、淺草名所のオペラ館も亦同じやうな特種な空気の中に在らしめねばならない」

蘆原英了によれば、随筆「淺草公園の興行物を見て」が昭和12年暮、「讀賣新聞」に3日間掲載されたとき、自信をなくしていた芸人たちはこれに鼓舞されたという。
「この一文によって、浅草へ足を再び、或は新に向けた人士は決して少くなかった。それは浅草演芸に対して、起死再生の注射薬のやうな役割を果した」(前出、中央公論社『荷風全集』月報)

昭和12年11月16日
「オペラ館の技藝は曾て高田舞踏團のおさらひを帝國劇場にて見たりし時の如くさして進歩せず。唱歌も帝國劇場に歌劇部ありし頃のものと大差なし。されど丸の内にて不快に思はるゝものも淺草に来りて無智の群集と共にこれを見れば一味の哀愁をおぼへてよし」

丸の内(銀座)で見たら不快に見えるようなものでも、浅草という別天地で「無智の群集」と共に見れば「一味の哀愁」を覚えて感動に値する(「無智の群集」という言葉は荷風にとっては賞め言葉になっていることはいうまでもない)。

高見順が「如何なる星の下で」で書いたと同じように期せずして荷風もまた浅草と銀座を対比させ、陋巷のすがれた情味を持つ浅草のほうに思いを傾けようとする。
気取った銀座に対し、浅草は飾らない町、「一味の哀愁」のある町と対比されていく。踊子や女優たちも心映えがよく思わず肩入れしたくなる。

昭和12年12月23日
「夜既に一時になんなんとす。オペラ館男女の藝人七八人在り。皆近巷に住むものゝ如くジャムトーストを携へかへる女優もあり。人をして可憐の思をなさしむ。余震災前帝國劇場の女優と交り其生活を知れり。彼等は技藝甚拙きに係らず心おごりて愛すベきところ少し。今夜圖らずオペラ館女優の風俗を目撃し、その質素なるを見てますます可憐の思をなしたり」

夜遅くオペラ館から近くの家(アパートだろう)に帰る女優がジャムトーストを持っている姿に思わず「可憐の思」にとらわれる。以前付き合ったことのある帝劇(銀座)の可愛気のない女優よりはるかに好ましい。ここでも浅草は銀座と対比され、その慎ましさゆえに愛される。図式的といえば図式的だが、荷風の思い入れは徹底している。

昭和12年12月12日
やはり、オペラ館の男女の俳優に心惹かれたことが記されている。
夜、浅草を散歩中、荷風は偶然、オペラ館の男女二人が歩いていくのを見て、ひそかにそのあとを尾けてみた。一人は松葉町の裏通りにある貸家へと入っていった。と、すぐに女が走り出て表通の漬物屋に走り、沢庵漬を買って再び家に戻った。
「二人は晝夜三回の演藝をなし家に帰りて初めて夕飯を食ふなるべし。余はいはれなく一味の哀愁をおぼえたり」

「一味の哀愁」は、浅草という陋巷に対する荷風の静かな共感のあらわれであると同時に、しょせん自分は通りすぎる人間でしかないという傍観者的諦念のあらわれでもある。

昭和16年2月4日
「薄暮淺草に往きオペラ館踊子等と森永に夕餉を食す。薬屋に至るに朝鮮の踊子一座ありて日本の流行唄をうたふ。聲がらに一種の哀愁あり。朝鮮語にて朝鮮の民謡うたはせなば噍ぞよかるべしと思ひてその由を告げしに、公開の場所にて朝鮮語を用ひまた民謡を歌ふことは厳禁せられゐると答へさして憤慨する様子もなし。余は言ひがたき悲痛の感に打たれざるを得ざりき」

ここでも荷風は「一種の哀愁」と書く。
「”見る人”として、時代を観察しながらもついに自分はそれ以上に対象に入りこむことは出来ないという醒めた自己認識と諦念がこの「哀愁」に刻印されている。
さらにいえば「日乗」の文体が終始、漢語まじりの硬質な文体で統一されていることは荷風が”見る人”としての自らの立場をつねに自覚し、いたずらに感傷におちいるのを律しようとし続けたからに違いない。」(川本)
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