2014年4月28日月曜日

富岡製糸場の保存展示や世界遺産登録運動に関わっている人達は・・・、ここ何年もの間「富岡製糸場に女工哀史は無かった」ということを強調してきた。・・・でもちょっと調べれば「女工哀史は無かった」などといえないことが分かるだろう。 (日本のおカイコさん-2/富岡製糸場への疑問)                 

ブログ「蝉の日和見」
日本のおカイコさん-2/富岡製糸場への疑問

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 富岡製糸場の保存展示や世界遺産登録運動に関わっている人達は(もちろん全てではないが)、ここ何年もの間「富岡製糸場に女工哀史は無かった」ということを強調してきた。おかげで富岡製糸場を紹介する旅行者のブログやサイトには「富岡製糸場に女工哀史は無かったらしい」という記述が数多く見られるようになった。でもちょっと調べれば「女工哀史は無かった」などといえないことが分かるだろう。

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 確認のためここで富岡製糸場の歴史をおさらいしてみたい。
 富岡製糸場の始まりは、工業化による富国強兵を目指す日本政府が、上州富岡に建設した国営の近代製糸工場である。いきなり重工業は無理だから、すでに経験のある繊維手工業の近代化を目指したのはよい発想だったといえる(日本初の大型製鉄所の成功は富岡製糸場の30年後)。
 建設に先立ち横浜に滞在していた若きフランス人技術者ポール・ブリュナに製糸事業のプランニングと工場開設後の管理運営を委託。工員には士族の子女などを集め明治5年に創業を開始した。
 官営工場時代の富岡製糸場は採算を度外視した赤字を生む公共事業であり、特に初期の数年間は生糸を大量生産する工場というより、寄宿制の女子繊維工業専門学校といった方がその役割りを正しく表現しているといえる。労働環境も労働法が整備されたフランス式に整えられていたから、この時期に限っていえば富岡に女工哀史はない。しかしそれは、115年にも及ぶ富岡製糸場の歴史のうち、ごく一部の出来事に過ぎない。

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 富岡市や一部の歴史家が、いくら明治初頭の官営工場のことだけを強調しようとも、現在我々が目にする富岡製糸場は、三井、原、片倉という民間企業の手を経た姿である。また操業停止後長く解体されずこの姿を維持できたのは片倉工業に維持管理費を出せる財力と文化財保護意識があったおかげである。

 現存する30棟ほどの建物のうち、6棟が明治初期のもので、それ以外は民営時代のものである。もちろん現時点では明治の煉瓦造りの建物や洋館が観光の目玉となるのだが、他の建物に価値がない訳では決してない。

 富岡製糸場は明治5年から昭和63年までの、日本の製糸業の姿を総合的に伝える貴重な近代化遺産といえる。つまり、近代日本の輝かしい未来を託した明治の工場遺構であるとともに、労働者と経営者が対立しながら生々しく日本の経済を支えていた繊維産業の遺構でもあり、また、ピークを過ぎて斜陽となった糸偏産業の残骸でもある。これだけの歴史が、あの狭い場所に凝縮されているのだから、大した遺構だと思う。それを活かすには広い視野と、良いことも悪い事も自分達の歴史として受け入れる度量が求められ、富岡は特別で女工哀史は無かったなどと力説してる場合ではないと思うのである。

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