2014年4月28日月曜日

治暦5年/延久元(1069) 後三条天皇の延久の荘園整理令 記録荘園券契所(記録所)設置 大江匡房らを登用 頼通の平等院領は温存される

北の丸公園 2014-04-25
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治暦5年/延久元(1069)
この年
・イギリス王ウィリアム王の本拠の大陸領で争乱。
この年、メイヌ伯領ル・マンス市が反乱、独立。フランドル伯領でも反乱、
ロベールがフランドル伯に収まりウィリアムから離反。
ル・マンス市は近隣のアンジュー伯フルクに援助を頼み、アンジュー伯はこれを機にル・マンス市を自領に組み入れ、ノルマンディー公領を窺う。
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・フランス王フィリップ1世、フルク4世ル・レシャンのアンジュー伯即位承認、代償としてル・レシャンよりガティネ伯を取り上げる。
ブロワ伯、同じやり方でトゥーレーヌに対するアンジューの臣従の誓いを取り付ける。
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・セビーリャ王国(後ウマイヤ朝後継諸国家(ターイファ王国)の中で最も強力な国家)アッバード朝ムータディド、没(位1042~1069)。
都市裁判官アブー・アル・カースィム・イブン・アッバードが市会の指導者となり、セビーリャ国王となる
(彼と息子ムータディド、孫ムータミドがアンダルスでの反ベルベル党派を率い、グラナーダのベルベル人ズィーリー朝に対抗)。
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・この頃迄には、ドイツでの「知行世襲制」定着。
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・トスカナ伯ゴットフリート(髭)、没(オーバーロートリンゲン大公1044~1047、ニーダーロートリンゲン大公1065~1069)。
トスカナ伯継承権者マティルダ(23、1046~1115)、教皇庁最大の実力者ヒルデブラントの仲人でゴッフレード(マチルダ義父ゴッフレード先妻の息子、ロレーヌ公継承者)と結婚。夫婦仲は最初から最悪、1076年離婚。
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・ハインリヒ4世、性交渉不成立を理由にベルタ(18)との離婚を求めるが、ペトルス・ダミアーニの説得で取り下げ。
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・イングランド、マーシア伯エドウィン、没。
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1月
・この年初、ウイリアム任命のノーサンブリア伯ロベール(フランドル人)が北部に到着するや、再度反乱。
スコットランド王マルカム3世、デンマーク王スヴェン2世も来寇。
反乱鎮圧1071年。
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2月5日
・法隆寺の仏師円快、聖徳太子像を作る。
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2月23日
・後三条天皇、延久の荘園整理令。
1045年以後の荘園を停止、それ以前の荘園も国務に妨げがあり、証拠不明の荘園も停止。
10月11日、記録荘園券契所(記録所)を太政官朝所に設置、荘園領主の文書を調査し、基準に合わない荘園を停止。
職員には摂関家に反発する源経長等の貴族や大江匡房等の学識者を登用、国司任せではなく朝廷が、荘園領主と国司と両方の主張を裁決。
石清水八幡宮の34ヶ所の荘園のうち13ヶ所の権利が停止される。
更に、国司の重任禁止などの政治改革も実行。
しかし、後三条天皇は在位4年で子・白河天皇に譲位、5ヶ月後に没。

「二月廿三日、寛徳二年以後の新立庄園を停止すべし。縦い彼の年以徃と雖も、立券文明ならず、国務に妨げ有るにおいては、同じく停止するの由宣下す。…閏十月十一日、始めて記録庄園券契所を置く」(「百練抄」)。

後三条の兄後冷泉天皇は即位の年1045年「寛徳(かんとく)の荘園整理令」を出し、この年以後の新立荘園を認めないと決定。
更に1055年「天喜(てんぎ)の荘園整理令」、1065年「治暦(じりゃく)の荘園整理令」を出し、1045年以降の新立荘園を認めないとする。
最大の荘園所有者が摂政・関白藤原氏のため実効あがらず。

後三条天皇は、諸国の国司に国内の全荘園の名前・数・成立時期・広さを報告させ、荘園領主にはどの国にどのような経緯でどのくらいの規模の荘園を得たのかを証拠文書を揃えて提出させ、記録荘園券契所で荘園整理の作業を行わせる。
荘園整理で没収した荘園は公地にせず天皇家の私領(荘園)に加え、これが後の院政の経済的基盤となる。
しかし、没収されなかった荘園は、国家承認の荘園として地位が認められることにもなる。

荘園(私有地):
律令制度(公地公民と班田収授法)に真っ向から対立する存在。

藤原氏らの荘園も対象となり、頼通の荘園も記録所に文書を提出、規定外の荘園は没収される(孫・師通の日記『後二条師通記』)。
但し、頼通の荘園の中核である平等院領の9ヶ所は、全く手をつけられなかった。
頼通が、後冷泉天皇が没する前に得ていた平等院領の太政官符・太政官牒は、太政官符・太政官牒を持たない荘園を停廃するという延久の荘園整理令をもっては無効にすることはできなかった。
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2月26日
・ [北宋の煕寧2年2月3日]宋の神宗、王安石を参知政事に任命。
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4月7日
・故右大臣頼宗の娘昭子、女御となる。
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4月13日
・「延久」に改元。
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4月28日
・貞仁親王(父は後三条天皇、母は藤原能信の娘藤原茂子)、皇太子となる。
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5月13日
・陣定で越前守源某の条文、若狭国司源信房の上申する2ヶ条(某荘園のこと、近江木津で勘過料と称し調物を抑留すること)などについて評議(「土右記」)。
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7月
・博多の華僑王則貞、大宰府観音寺十一面観音像施主のトップに名を連ねる。
8月29日、「図師」(土地測量技術者)として大宰府の係官と共に管内観音寺領荘園の検注にあたる。
海商として日本・高麗国を往復し、高麗国王のメッセンジャーに起用されるほと高麗政府の信任を得る。
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7月3日
・女御馨子内親王を中宮とする。
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8月
・イングランド、デンマーク艦隊がケント沿岸に現れ、イギリス艦隊を破り、沿岸地帯を荒らし回り、北上してヨークシャーでエドガー軍と合流。
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9月21日
・イングランド、エドガー・デンマーク連合軍、ヨークでノルマン人守備隊を破り、ヨークを占領。
同時期、西部一帯で大規模な反乱が発生、反乱軍はウェールズの蛮勇者エリックの軍と合流。
イギリス王ウィリアム、まず西へ向かいウェールズとの国境スタフォードで反乱軍を破り、ヨークへ戻り、デンマーク人を買収して帰還させ、ヨークを徹底的に攻撃、廃墟にする。
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閏10月11日
・後三条天皇、記録荘園券契所、初めて太政官朝所に設置。大江匡房などを抜擢。
「寛徳二年以後新立の荘園、永く停止すべし。・・・往古の荘園といえども、券契明らかならず、国務の妨げあるものは、厳に禁制を加え、同じく以て停止すべし」(「東南院文書」延久元年閏十月十一日条)。

「後三条院位ノ御時、…延久ノ記録所トテハジメテヲカレタリケルハ、諸国七道ノ所領ノ宣旨・官附モナクテ公田ヲカスムル事、一天四海ノ巨害ナリトキコシメシツメテアリケルハ、スナハチ宇治殿ノ時、一ノ所ノ御領々々トノミ云テ、庄園諸国ニミチテ受領ノツトメタヘガタシナド云ヲ、キコソメシモチタリケルニコソ。サテ宣旨ヲ下サレテ、諸人領知ノ庄園ノ文書ヲメサレケルニ、宇治殿ヘ仰セラレタリケル御返事ニ、『皆、サ心得ラレタリケルニヤ、五十余年君ノ御ウシロミヲツカウマツリテ候シ間、所領モチテ候者ノ強縁ニセンナンド思ヒツツヨセタビ候ヒシカバ、サニコソナンド申シタルバカリニテマカリスギ候キ。ナンデウ文書カハ候ベキ。タヾソレガシガ領ト申候ハン所ノ、シカルベカラズ、タシカナラズ聞シメサレ候ハンヲバ、イサヽカノ御ハバカリ候ベキ事ニモ候ハズ。カヤウノ事ハカクコソ申サタスベキ身ニテ候ハバ、カズヲツクシテタヲサレ候ベキナリ』ト、サハヤカニ申サレタリケレバ、アダニ御支度相違ノ事ニテ、ムゴニ御案アリテ、別ニ宣旨ヲ下サレテ、コノ記録所ヘ文書ドモメスコトニハ、前大相国ノ領ヲバノゾク、ト云宣下アリテ、中々ツヤツヤト御沙汰ナカリケリ」(「愚菅抄」)。
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12月
・イギリス王ウィリアム、廃墟となったヨークに入城。
反乱再発させない為、北部地域を徹底的に略奪・破壊。
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12月17日
・左中弁正四位下藤原師基を若狭守に任じる。
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