ハナミズキ 北の丸公園 2014-04-25
*明治37年(1904)
7月8日
・『国民新聞』(徳富蘇峰)社説「韓国経営の実行」。
・日露開戦以来すでに5ヵ月を経過し、日韓議定書調印後すでに4ヵ月を経過す、然りと雖もこの間における韓国経営は・・・実質的に殆んど一の見るべきものあるなく、日韓議定書の精神の如き未だ一として具体的に実現せられたるものなし。
・御料荒蕪地開墾の要求の如き・・・韓廷内には異論沸騰して容易に之を承諾するの気色なし。・・・その理由は・・・わが国の意志の未だ充分に徹底せざることは大なる原因の一ならずんば非ず。
・故に今日の急務はわが実力を以て韓廷に蒞(のぞ)み、以てわが意志を徹底せしめ、簡明直截にわがなさんと欲する所を行なふにあり。
・それ韓国に対するの途、豈他あらんや、ただ韓国が一にわが国の保護の下にあることを知らしめ・・・我れに対して被保護者の実を挙げしむるのみ。(「韓国経営の実行」)
この頃、元東京裁判所検事正・前大蔵省官房長長森藤吉郎の「御料荒蕪地開墾案」(日本政府は韓国政府に提出し拒絶される)。
小栗富次郎は塩専売権、二宮熊次郎は煙草専売権、神鞭知常は仁川埋立事業、対露硬同志会系は水田買収など、投機師・政治浪人が権益を狙う。
雨宮敬二郎・浜口吉右衛門ら100余は満韓起業同志会、長谷川芳太郎・大竹貫一らは日韓農事会社を設立。
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7月8日
・京都の岡崎公園開園。明治28年の内国勧業博の跡地。5万余坪。
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7月10日
・第4軍司令官野津大将、輸送船『讃岐丸』で宇品港を出発。
同日、大山元帥一行の乗船『安芸丸』も出港。
14日、大山元帥は大連に到着。
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7月10日
・週刊『平民新聞』第35号発行
英文欄「寛容論」
「陸軍輸送船常陸丸がロシア艦隊に撃沈された時、上村中将に対する多くの非難が聞かれた。敵艦隊の朝鮮海峡進出を探知しなかったのは、上村艦隊の失策と想像されたのである。この責任が上村中将に帰せらるべきか或は参謀本部に帰せらるべきか、吾人は公正な判断を下す位置にないが、しかし若干の新聞紙は恰も中将がこの失敗に対して非難せらるべき、唯一の人物ででもあるかのように民衆を教唆している。若干の無思慮な人間が中将の家族の住宅に投石したといわれ、中将の子供は学友の悪意ある態度のために退学のやむなきに至ったとさえ報道されたのである。
かくのごときは不寛容な行為の、もっとも恥ずべき一例である。吾人は不幸な家族に対して、粗暴な行為に出ずる少年、または無知な民衆を非難すまい。だが、吾人は若干の新聞紙が他人の失策に関して示した不寛容の精神を憎む。九州鉄道(の線路)に石が積まれた時、それはロシアのスパイの所業だと想像された。長崎の一商人はスパイの一味といわれて無残な迫害をうけたが、彼が主としてロシア人と取引していたという以外、彼に反する何事も立証されなかったのである。これら一切の不幸な事件は、新聞紙のとった不寛容の態度に帰せられるであろう。
しかし不寛容な行為の例証は、新聞紙だけに限られたわけでなく、政府もまたこの点では同罪である。吾人は実にしばしば、開戦以来政府が神経質となり疑い深くなったといったが、宗教家、社会主義者、および政府に従順ならざる者は疑わしい目で見られている。数週前、ギリシャ教会の一日本人宣教師はロシア兵の捕虜に宗教的慰安を与えるため、彼等が抑留されている(四国の)松山に、教会と信者の支弁した費用で派遣された。然るに政府の偏狭なる、ロシア人信徒の懺悔を政府官吏の立会の下で、僧侶の前に行なうべきことを固執した。これ豈、ギリシャおよびローマ教会のもっとも重要な宗儀たる懺悔を全然禁止するのと同じではないか。吾人は信ずる、もしわが国民と政府とにして世界最文明国の一たらんと希うならば、もっと寛大でなければならぬと。」
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7月11日
・連合艦隊司令長官東郷平八郎大将、陸軍の旅順攻撃を伊東軍令部長に依頼。
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7月11日
・北海道炭鉱鉄道輪西−室蘭間が開通。
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7月12日
・『国民新聞』(徳富蘇峰)社説「韓国経営の実力」
・吾人は韓国の領土保全のために両回(日清、日露)の戦争に従事したり、而して其一回は今なほ戦争中なり。
・吾人は韓人の好意に依頼して彼国の額土を保全する能はず。
・然らば即ち、韓国の領土を保全するにはただわが実力を以てするあるのみ。実力の二字をいま一層手緊(きび)しく言へば兵力のみ。
・故に吾人は韓国の要所に兵営を建築し、わが軍隊をして恒久に韓国に駐屯・・・せしめんことを望む。
・されど韓国の領土は単に韓人のためのみに保全するに非ず、又わが国のために保全する也。即ち韓人の欲するにせよ、欲せざるにせよ、韓国の領土は是非とも他国の侵略より保全せざるべからず。
・故に吾人は韓国経営の第一着手として、まず軍事的経営を勧告す。(「韓国経営と実力」)
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7月12日
・伊東軍令部長、参謀総長に面会
。陸海軍高級幕僚会議、陸軍による旅順攻撃決定。
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7月12日
・英独、英仏協商に似た5ヵ年条約調印。対立の解消を目指す。
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7月13日
・清国の天地会、懐遠を占領。
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7月13日
・婦人矯風会大会。神田青年会館。
東郷昌武、平岩宜保、島田三郎、木下尚江「男女幸福比較論」(壇上から「平民新聞」を聴衆に示す)。
菅野すが、大阪代表として参加。
18日、菅野、有楽町の平民社に堺利彦を訪問。以降、菅野は寄付金を出したり、大阪で読者会を組織したりする。
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7月14日
・満州軍総司令官大山巌、総参謀長児玉源太郎以下の幕僚を率い大連湾・青泥窪に上陸。
乃木第3軍司令官、武内野戦鉄道提理に命じ、旅順攻撃準備及び実施の計画を立てさせる。
海軍からバルチックク艦隊太平洋回航の情報によって、旅順の早期攻略を要請してきたことによる。
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7月14日
・英のヤングハズバンド大佐、ラサに進軍。
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7月14日
・この日付け「大阪朝日新聞」に、戦死した息子の功績と写真を掲載して欲しいと、広告料を添えて申し込んできた戦没者遺族がいたとの記事。
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7月15日
・この日夜、安部、木下、加藤、佐治の平民社相談役(小島は欠席)に堺、幸徳、西川、石川の社員が加わって相談会を開き、平民社の財政問題を協議。
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7月15日
・横浜電気鉄道神奈川~大江橋間開通。
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7月15日
・(露暦7/2)南独、保養地バーデンヴェイレル、アントン・チェーホフ(44)、結核により没。
24日(露暦7/11)モスクワで葬儀。
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7月16日
・平民社演説会。木下尚江・西川光二郎(28)。水戸・常盤座。聴衆800。
以降、両名で群馬・長野で講演会
20日、木下尚江、上州安中・碓井会堂で講演会。安中教会牧師柏木義円、開会の辞。聴衆90。
21日、上州原市町。聴衆100余。
23日、信州小諸町光岳寺で懇親会・講演会。聴衆250余。
24日、上田町明倫堂で講演会。代議士立川雲平、開会の辞。
26日、長野市千歳座、代議士立川雲平、開会の辞。聴衆600。
22日、西川光二郎、上州勅使河原で談話会、伊勢崎で佐波青年会、夜は伊勢崎青年会で演説。
23日、夜、横浜市羽衣町若柳亭。社会主義協会演説会。山口狐剣・斉藤兼次郎ら
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