2014年6月27日金曜日

明治37年(1904)8月21日~24日 第1回旅順口総攻撃第3日目 第1次日韓協約調印 第11師団桜井忠温中尉の突撃

千鳥ヶ淵緑道 2014-06-26
*
明治37年(1904)
8月21日
・第1回旅順口総攻撃第3日目。
午前9時過ぎ、乃木大将に第9・11師団より形勢不利の報告(第9師団予備兵力は1個大隊のみ、第11師団が占領した東鶏冠山北堡塁・第2堡塁も奪回される)。
司令部は予備の後備歩兵第4旅団(竹内少将)を第9師団の盤龍山に派遣決定。
10時、同旅団後備第9連隊(高城義孝中佐)が呉家房北方高地、第8連隊がその後方凹地に集結。ロシア側は盤龍山東西堡塁の被害が甚大。
午後1時50分、第9師団第6旅団第35連隊(折下勝造中佐)が盤龍山東堡塁攻撃開始。死傷者続出。
午後3時、第3大隊長佐藤兼毅少佐負傷。この頃、第9師団大島中将は乃木大将より「督戦命令」受ける。
午後4時、第9師団大島中将は師団最後の予備兵力・第19連隊第3大隊(山本三郎少佐)を第35連隊方面派遣決定。第19連隊第3大隊は、第1目標の呉家房西方地隙に到達までに1/3を消耗、更に進撃し山本少佐ら負傷、前進停止。
午後11時、第11師団第10旅団第12連隊(左翼、新山良知大佐)、東鶏冠山南堡塁を攻撃するが、退却。
この頃、第22連隊(中央)が遅れて東鶏冠山砲台を攻撃。

22日
午前2時、第9師団の夜襲開始。第35連隊と第19連隊第3大隊が盤龍山東堡塁に、増派の後備歩兵第9連隊が独立堡塁に向うが、第35連隊と第19連隊第3大隊は兵力消耗して退却。
後備歩兵第9連隊は後備歩兵第4旅団長竹内少将の突撃命令に従い、連隊長高城中佐・第1大隊長上山正友少佐・第2大隊長加藤継高少佐ら戦死し、辛うじて現状維持の状況。
午前4時、第11師団第22連隊第2大隊が突撃、失敗、残兵僅か60余となる。
夜襲全て失敗に終る。

午前8時、龍眼北方堡塁は補強されていること、但し、盤龍山東堡塁からのロシア側の応射が弱いことが確認できる。
午前10時30分、工兵が盤龍山東堡塁の3箇所を爆破。直ちに第7連隊残兵80余が突進、第35連隊長折下中佐・第1大隊長中西少佐・第2大隊長木庭堅磐少佐が続き、更に第19連隊第3大隊も続く。白兵戦の後、午前11時、盤龍山東堡塁を占領。

この堡塁を巡る争奪戦が始まる。
後備歩兵第8連隊が支援に向うが、連隊長三上大佐は負傷、第2大隊長夏目少佐が指揮をとり漸進。午前11時30分、ロシア側が盤龍山東堡塁に到着、日本側が防戦。午後0時30分、第8連隊が来着し日本軍は約200となるが、未だ防戦一方。第35連隊長折下勝造中佐・第1大隊長中西俊豪少佐・第2大隊長木庭堅磐少佐が戦死。
午後1時過ぎ、第8連隊第2大隊副官国富御楯麿中尉が1個小隊を率い東堡塁に接近するが、ほぼ全滅。ここで、第2大隊長夏目少佐ら30がさみだれ式に到着。
午後2時26分、第5中隊朽木弘少尉ら15が到着。
白兵戦継続。
午後2時30分、日本側に機関銃2挺来着し優勢となる。
午後4時、ロシア側も奮戦するが退却。
盤龍山東堡塁は陥落。

午後4時10分、第19連隊第6中隊、盤龍山西堡塁の東北角に侵入。
午後7時、日本側砲撃が盤龍山西堡塁に集中し、ロシア兵は退却。日本軍が盤龍山西堡塁を占領。盤龍山西堡塁は後備歩兵第4旅団長竹内正策少将が担当し約500が守備。東堡塁は第9師団第6旅団長一戸少将が担当し約750が守備。
*
8月22日
・第1次日韓協約調印
日本推薦の財務・外交顧問任用(財政顧問に目賀田種太郎、外交顧問に米人スチヴンス)。
外国との条約締結・特権譲与につき日本政府と事前協議。
駐韓林公使・韓国駐剳軍参謀長藤力三郎中佐、皇帝謁見、条約締結事前協議も承認させる。
第三項、「韓国政府ハ外国トノ条約締結其他重要ナル外交案件ニ関シテハ予メ日本政府卜協議スヘシ」。
*
8月22日
・鄧小平、誕生。四川省広安県協興郷。父は秘密結社「哥労会」協興郷大幹部。 *
*
8月22日
・横浜正金銀行、清国の青泥窪(ダルニー、後、大連)に出張所設置。
*
8月23日
・旅順口。
午前5時頃、ロシア第14連隊第1大隊が同時に盤龍山東西堡塁を攻撃。
午前5時30分過ぎ、西堡塁ではロシア兵を撃退。
午前8時、東堡塁でもロシア兵を撃退。ロシア側死傷者637中417。
のち、東西堡塁には新手の援軍が到着。
午後11時、第11師団第44連隊が東堡塁から進撃。サーチライトに捕捉され十字砲火のもとで前進停止。

■第11師団桜井忠温(ただよし)中尉の突撃
桜井忠温:
明治12年松山生れ、小唐人町に育つ。15歳で高等小学校を卒業し松山中学に入学。
3年生のとき、夏目金之助(漱石)に英語を習い、その下宿へもときどき遊びに行った。
忠温は仲間で蛍雪会というのを作り、回覧雑誌を発行し、下級生の片上伸(かたがみのぶる)が新体詩を、忠温は小説と評論を書いた。彼は数学が出来なくて中学校で1年落第したが、文章は上手であった。
彼は兄・彦一郎のすすめで日本画の教師につき画家になるつもりでいたが、父・信之はそれを嫌い、中学校を卒業すると陸軍士官学校を受験させた。士官学校卒業時は500人中の20番という好成績であった。少尉に任官すると、松山の歩兵第22聯隊の聯隊旗手となり、この年(明治37年)5月21日、25歳で出征。

兄・桜井彦一郎は明治学院を卒業してアメリカに数年間留学し、帰朝後は明治女学校に教えていた。明治33年津田梅子が女子英学塾を創立すると、協力者としてその学校に移り、校務全般を世話した。彼は、鴎村という号で西洋の少年小説の翻訳や翻案をして何冊も出版した。
彼は、細かい字義よりは日本文として的確な訳をすることを生徒に学ばせた。津田梅子のきびしい正統的な語学授業と補い合って、桜井鴎村の文学的な授業は女子英学塾の名物であり、生徒たちに人気があった。

善通寺に師団司令部を持つ第11師団は、前に乃木希典が師団長をしていたため、乃木独特の精神教育が徹底していると言われた。
第11師団ははじめ奥保鞏(おくやすかた)の第2軍の予備隊として5月24日に遼東半島の塩太澳に上陸。
この頃、その半島の咽喉部に当る南山要塞を占領したばかりで、その戦争のあと、乃木希典を司令官として第3軍が組織され、この第11師団のほか第9師団と第1師団がそれに属して旅順港の攻撃に当ることになった。

第3軍は6月初めから、左翼に第11師団、中央に第9師団、右翼に第1師団をおいて、遼東半島尖端にある旅順に向って進んだ。
桜井忠温の属する第11師団は、歪頭山、剣山、太白山、干大山などを占領して、旅順港を半円形に取り巻く永久要塞地帯に近づいた。
8月7日、要塞地帯のすぐ手前で、左方の海岸に近い大孤山を占領。
この間、桜井の同僚や先輩の将校の多くが戦死し、また傷ついて後送されたが、聯隊旗手として聯隊長の側近にいる彼は比較的安全な立場にあった。
8月初旬、彼は中尉に昇進し、その聯隊の第12中隊に属する小隊長に転じた。

そして8月19日、旅順の永久要塞の総攻撃がはじまった。
10年前、乃木の第1師団は清国兵の守るこの要塞を1日にして陥落させたが、ロシアはその後10年間この半島を租借し、周辺の丘陵地帯を極めて堅固な近代要塞に作りかえていた。その実情は日本側に分っていなかった。
総攻撃が始まると、ロシア軍の砲撃は猛烈で、19日には第11師団師団司令部に砲弾が命中し、師団長は無事であったが、その両側にいた参謀2人が即死した。

このときの総攻撃は、2日の砲撃戦の後に歩兵の突撃か行われた。11師団は正面にある東鶏冠山を目標にして、21日、22日と夜襲したが失敗。中央の第9師団が敵前方に突出している盤龍山の一堡塁を占領したのみで、その他の要塞群は抜くことができなかった。"

8月23日夜、桜井忠温の属する聯隊が攻撃に加わった。彼はこの戦闘で重傷を負った。彼の記述したこの戦闘の様子。

「愈々前進となった時には、成るべく軽装し、麺麭(パン)の如きも二三日の命を支持し得るだけに止めて、余は後に残して置くことにした。予の身支度とては腰に国旗をブラ下げ、首に手拭を巻き、足袋裸足で、携帯品とては軍刀と水筒と三枚の麺麭だけ、これが死出の檜舞台に現はるべき扮装であった。

「想へば今も肌に粟を生ずる此の地隙! 予等は累々たる死屍を踏み越え乗り越え、抜足差足、鼻口を蔽うて前進したが、戦友を脚下に踏み蹂ることは如何にも辛い。一人の負傷者が片隅に小さくなって唸(うめ)いてゐたから、予は彼れに傷所を尋ねた。すると脚部の骨折で、既に三日の聞、一粒の食一滴の水も口にすることが出来ず、それに担架は来ぬので、戦闘以来今迄此処に只だ斯うしてゐる許りで、死ぬるのを待って居ると云った。予は彼れを慰めて、之れを食つて待つてゐよ、今にも衛生隊が前進して来るからとて、彼の三枚の麺麭を与へたれば、彼れは予を仰ぎつゝ手を合し、涙ながらに予の姓名を聞かしてくれなどといった。此の惨状に予も一方ならず悲しみを催し、唯だ『早く元気になれよ!』と云ひ残して、更に前進して、いよいよ盤龍山の鉄条網へかヽつた。砲台は既に第九師団が、血を濺(そそ)ぎ肉を屠って占領し得たる処で、是れぞ我が突撃縦隊が拠つて以て、東鶏冠山北堡塁、並に望台に向つて大攻撃を実施すべき重要なる拠点であった。(略)」

9師団が占領していた盤龍山砲台を拠点として、桜井の属する聯隊は東鶏冠山堡塁へ進撃した。闇の中を地隙を縫って進んでゆくうち、中隊長が戦死し、彼は中隊の指揮をとることとなった。斜面の頂上に近いあたりで、同郷人の友人・吉田中尉が坐っているのに遇った。

「予は予の身辺に黒く集合せるものは、悉く、我が聯隊の生兵なりと許り思つてゐたのに何ぞ図らん、此の密集せるカーキ色の兵士は、実に中尉の部下にして、而も悉く死傷せるものであった。鳴呼、何等の惨ぞ! その死骸は二重三重と重なり、四重五重と積み、或者は手を敵の銃台に掛けて斃れ、或者は既に乗越えて、敵の砲架を握れるまゝに死したるあり、さも苦しさうな呻き声の深き地の底より起るが如く聞えるのは、畳み重なった下に在る負傷者が発したのである。勇壮なる此の突撃隊が、味方の死屍を乗り越え踏み越え、近く敵塁に肉迫して、魚鱗掛りに突き入ると、忽ち敵の機関銃で、攻め寄る者毎に一々撃殺された為、死屍は数層の傾(なだれ)を打つて、敵塁直下に斯くは悲惨なる死骸を積んだのである。」

その地隙から這い出して、いよいよ突撃する時が来た。
「予は聯隊長に『それでは……。』と別れを告げて立ち上る途端に、グザと死骸の頭を踏み付けた。扨(さ)ても我等の目指す処は、東鶏冠山砲台であった。又た望台であった。先づ敵の第一散兵壕に於いて、爆薬戦が開かれた。我が兵の擲(な)げ込む爆薬は見事に爆発して散兵壕は忽ち火事場の如く、板が飛ぶ、土嚢が吹き出す、頭が飛ぶ、足が捩切(ちぎ)れる。火焔は黒煙と共に煽り上つて、赤き火光は予等の顔を輝らして物凄く、戦線は一時に騒がしくなつた。斯くする内、敵は叶はじとや思ひけん、此の地点を棄てゝ何処へか逃げ去つた。(略)
予は二宮少尉を呼んで、小隊は悉く纏まつているかと尋ねたれば、然りと答へた。予は又た伊藤曹長に連絡を絶つ勿れと命じ、予は散兵線の中央にあることを示した。されど暗夜の事とて、如何なる地形なるか、孰(いづ)れの方面より進むべきか、更に弁別出来ず、暗き空にヌッと聳えたるは、望台と北堡塁となり、天嶮は前に横たはり、身は釜中に在るに等し。かくても尚は一隊は袖を連ねて前進せんとしたり
『第十二中隊前へ!』 予は歩を右方に取って進んだ。丸で夢中、実に当時の情況は殆ど何事をも明かに記憶せずと云ふの外ない。」

彼の周辺に黒々と密集していた多数の兵は次第に減って、数人しかいなくなった。桜井忠温とその部下は、知らぬ間に東鶏冠山の堡塁の側面を通り過ぎ、旧清国時代の囲壁を越えて、その内側にある望台という最も高い丘の近くまで進んでいた。彼は突然、棍棒で殴られたように感じて、四つ這いになった。負傷したのである。右腕の手首のところが砕けて、ぶらりと垂れ下っていた。彼は用意の三角巾で巻き、日の丸の旗でその手首を頸から吊した。その頃敵の機関銃の響きは激しくなり、一度退いたロシア軍は黒い木柵のように堡塁の側面から肉薄して来た。日本兵は旧清国囲壁のところまで退き、そこで抵抗して混戦がはじまった。桜井は左手で軍刀を振りまわしていたが、軍刀は折れ、左手にも貫通銃創を受け、右脚も砕かれて、倒れた。

そのうちに夜が明けた。彼の周囲にいるのは倒れた日本の死傷兵ばかりであった。二三間前方の壕の中ではロシア兵が右往左往して、日本の負傷兵を射撃していた。その中の一人が桜井の生きているのに気づき、剣を持って近づき、突き殺そうとした。すると日本の負傷兵が五六名それに飛びかかって戦い、ともに敵に撃たれて死んだ。そのうち、死んだふりをして倒れていた日本の兵が、桜井に近づき、その折れた右脚に銃剣を副木とし、敵の射撃の隙を見ては、彼をかついで少しずつ後過しはじめた。日が暮れてから桜井は、瀕死の状態で辛うじて日本軍の陣地に担ぎ込まれた。

8月19日に始まった旅順要塞の堡塁群への総攻撃は失敗に終った。
地上の突撃によってこの近代要塞を落すことはできないと分ったので、乃木はロシア側の堡塁に向って塹壕を掘り進ませるとともに、南面に海を持つ旅順港を取り巻く要塞の内、比較的整備されていない中央部(北側)を攻撃場所として選んだ。この北側の丘陵群の中で最も高いのは、高さ203mの山であり、その頂上からは旅順港を見下すことができた。そしてその山は要塞工事が未完成であった。旅順が陥落しなくても、この山さえ占領して、そこに観測所を置けば港内のロシア軍艦を撃ち沈めることができる。
その203高地への攻撃が始まったのは9月20日であった。
*
8月23日
・原抱一庵(39)、没。
明治36年2月頃、リットンの「ユージン・アラム」を翻案した小説「聖人乎盗賊乎」を「東京朝日新聞」に連載し、10年近い不遇と貧窮と放恣の連続の生活の中に希望を見出した。
この作品は、多くの人々に愛読され、旧知の黒岩涙香、徳富蘇峰、矢野龍渓、森鴎外等、第一流の評論家や文壇の大家たちの序文に飾られて単行本となり、売れ行きもよかった。その上この作品は福井茂兵衛一派によって、本郷座で脚色上演された。「朝日新聞」は原を客員として迎え入れた。原は、長い間夢想していた流行作家らしい地位を得た。

この年(明治37年)夏、原は、本郷警察の筋向うの井戸に、昼間身投げした。すぐ人に気づかれて、警察へ担ぎ込まれた。「朝日新聞」に関係のある者だということが分り、「朝日」に引き渡された。「朝日」はすぐ原を解職したが、社費で原を巣鴨の病院に入れ、8月23日に没するまでその世話をした。
原の投身事件は新聞に出なかったので、旧知の内田魯庵も、原の友人の画家の安藤仲太郎も、原の没を知らずにいた。

内田魯庵はこの年37歳。明治31年3月、最初の小説「くれの廿八日」を「新著月刊」に発表して以来、評論と小説との両方にわたって仕事をしていた。明治24年9月、丸善に図書顧問として入社し、社の機関雑誌「学鐙」に毎月随筆や、書物についての感想を書いた。この年からそれまでの不知庵の外に魯庵という筆名を使い、主要な作品はこの筆名で書くようになった。しかしその外に、彼は「学鐙」に書く文章には、善六、善吉、柏木衛門、駿河呼然、砂邱子、無名庵、郊外生、その他様々の筆名を使った。丸善から定収を得る外に、小説や評論を書いて原稿料を得たので、その長い著作生活の中ではじめて安定した生活を営むことができるようになった。

原抱一庵が、本郷で井戸に投身自殺を企てた明治37年夏、彼は7月13円から9月5日まで、家族と女中を連れて沼津に避暑生活を送っていて、原の消息は全く知らなかった。
*
8月24日
・旅順口。
午前2時、後続隊が到着し第44連隊1800は狭い鞍部に集ることになる。
午前2時40分、第3陣の第7連隊集成隊が盤龍山東堡塁を出撃、砲弾のもとに前進不能となる。
午前4時、後備歩兵第9連隊集成隊が盤龍山西堡塁から南進(盤龍山第1・2砲台、虎頭山が目標)。虎頭山頂は一旦ロシア兵を追払うが逆襲により全滅。盤龍山第1・2砲台に向う兵たちは身動きとれない状況に陥る。
結局、第44連隊・第7連隊集成隊は後退。望台攻撃作戦は頓挫。
午後1時25分、第11師団長山中少将は攻撃中止を決意、命令を出し、第3軍司令部・第9師団に連絡。

午後4時、乃木大将、攻撃中止を命令。
日本死傷15,860/50,765。ロシア死傷1,500/33,700。
*
8月24日
・ロシア、バルチック艦隊の太平洋派遣決定。
*
*

0 件のコメント: