2014年6月24日火曜日

堀田善衛『ゴヤ』(36)「アカデミイ会員=ゴヤ」(2) 「サラゴーサとあの絵のことを思い出すと血が煮える」

江戸城(皇居)東御苑 2014-06-19
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第二の騒動の始まり
「つづいて第二の騒動がおっぱじまる。
ゴヤは、とにもかくにも、主要な仕事である穹窿のフレスコを二月に完成してしまった。・・・
この穹窿の仕事を終えて、すぐさまに彼は四つの穹窿の隅の残った部分 - 穹隅と呼ぶようである - を描くべく準備をはじめた。主題は、すでに定められている。信仰、勇気、慈愛、それに忍耐、であった。」

責任逃れをしたい委員会はバイユーに責任を押し付けるが、バイユーはそれを拒否
「すぐに、またまた文句が出た。色彩が暗すぎる、天使や聖者、聖女たちが、あまりに被服で蔽われていなさすぎる。つまりは裸の部分が多すぎる、従って「不謹慎」である、というのである。
・・・
(委員会は、)新たな譴責と、怠慢の謗り、及び不注意の非難に(委員会自体を)さらすことを恐れ、問題を、当委員会及び聖堂参事会全員の信任をもつという理由に基き、フランシスコ・バイユー氏の監督下にゆだねるものである。・・・」

「・・・要は委員会としての責任のがれがしたいということであり、またまた責任をバイユーにおっつけたかっただけのことである。
バイユーは、美術官僚として、まことに賢明にもその要請を拒否した。要は、少々のぼせあがっているこの新アカデミイ会員に、師匠のバイユーから離れて”独立”などすると、どういうことになるかを思い知らせてやれば足りるのである。」

委員会は丸くおさまる(ゴヤの譲歩)のを期待するが・・・
「責任者のマティーアス・アリュエー氏は、

委員会としては、相互和解をこそ望むものであり、何らかの方法によって事をまとめ、譴責処分などに立ちいたることを望まず、ひたすら作品が技倆においてすぐれていて完璧なものであることを望むのみ。

とゴヤに告げるのであるが、・・・」

ゴヤの陳弁①:近来の批評は、何等権威ある規範によって規制されたものではない
「一七八一年の三月一七日、サラゴーサにおいて彼は委員会あての陳弁書を書く。」

「彼はまず、怒りを抑えて、エル・ピラールでの仕事をはじめるについて、最初はフランシスコ・バイユーとの間に、いかなる行き違いもなかったことに委員会側の注意を喚起しておいて、次第に熱をおびて行って悪意の出所がバイユー個人にある、ときめつけて行くのである。自分が描いたフレスコに対する、「近来の批評は、何等権威ある規範によって規制されたものではない、この規範のみがこの際の批評基準となるべきものである」と言い切ってしまう。」

ゴヤの陳弁②:おれはバイユーの「助手ではない」
「そうしてこのあとに、おれはバイユーの「助手ではない」とつづくのであるが、ここで「助手」というふうに訳した原語は、”mercenario dependiente”というものであり、これを直訳すれば、居候の雇われ兵、ということになる。」

ゴヤの陳弁③:小生はサン・フェルナンド・アカデミイの会員である。宮廷の仕事をもしているものである。
「はじめにバイユーから話があったことはたしかである。しかしバイユーの暗に含んだ統制を認めたことなどは一度もない。まして小生はサン・フェルナンド・アカデミイの会員である。宮廷の仕事をもしているものである。かかる資格をもつものが、他の芸術家に従属するなどということは、名誉を傷つけることになる。」

ゴヤの陳弁④:バイユーは悪意をもって対してきた
「(バイユーは、)下記署名者(ゴヤ)がすでに宮廷内において得た成功を恐れて、

悪意をもって対して来たものである。
事がかくまでのことに立ちいたったからには、「公平な」判断をする人、たとえば同じくアカデミイ会員であるマリアーノ・マエーリァ氏かアントニオ・ベラスケス氏を呼んで頂きたい、とまでいってしまう。
これでは、バイユーの権威を地にひきずり汚してしまうことになる。メングス亡きあと、いまやバイユーこそはスペイン美術界においての第一の権威なのである。建築工事委員会と、聖堂参事会に対して全責任を負っているのは、ゴヤではなく、バイユーの方なのである。」

争いは、ついに行くところまで行ってしまった。あと一歩で異端審問所である。
「聖堂参事会は「慈愛」の絵柄が「不謹慎」である、と決定していた。
決定は、ひっくりかえるわけがなかった。
もしこの決定がひっくりかえる、あるいは変更されるとすれば、その判断をするものは、・・・怖るべき機関であった。
すなわち、異端審問所が、それをする・・・。」

「争いは、ついに行くところまで行ってしまった。あと一歩を踏み出すとすれば、その一歩が踏むところは、異端審問所の玄関である。」

サルセード師の仲介
「この最終段階で仲介に出て来たのが、アウラ・デイ修道院の次長であるサルセード師であった。数年前に、ゴヤはこの修道院でよい仕事をしていたし、このサルセード師は、ゴヤの画才を最初に、まだ彼が少年の頃に認めた人であるということになっている、恩のある人でもあった。
八一年の四月三〇日、師は長い手紙をゴヤに送った。

貴殿におかれては、すべて寛仁の心をもって、またキリスト教徒としての寛容をもって、貴方の下絵をバイユーの意見に従うべく提出なされたく、もって謙譲の徳によって神を悦ばしめ、衆生教化の実をあげ、貴方の友人諸氏にも喜びを与えられたく存じ候。先方において、貴方の名誉に泥を塗り、もって復讐をとげんとの意あり申せば(その意ありと小生は思考せざれど)、その時は、世間が先方と貴方との精神の違いを知り、正義が行われ申すべく候。
貴殿の最大の崇拝者としての、小生の諌言以下の如し。貴殿は委員会の求めに従われて、下絵持参の上、兄上殿の家を訪問され、可能なる限りにおいての鄭重さをもって、

聖堂参事会によって求められたる下絵これに候。御満足の参りますまで御検討下されたく、御意見の程は文書で、神と貴殿の良心の告げらるるままに、後刻、小生にお知らせ下さるべく候、
と申さるべく、かくしての後、結果を待たるべく候。」

けったくそのわるい忠告ではあったが、従わざるをえない。そして、仕事は再開した。
「けったくそのわるい忠告ではあったが、従わざるをえない。四月六日、委員会へゴヤは手紙を送って、新たに下絵を、バイユーの意をうけて描くこと、それからいろいろと面倒をひきおこして申し訳ないことなどを申し述べている。そうして同月一七日、下絵はバイユーと委員会の検閲を通った。
仕事が再開された。」

ひと月たたずに決裂。今度は委員会がゴヤに絶縁状を叩きつける
「何が起ったのかははっきりしないのであるが、ひと月もたたぬうちにもうバイユーと決裂してしまった。・・・
ゴヤは、バイユーが自分の芸術家としての名誉を傷つけるものである、と怒った。もはやサラゴーサなどには一日といえどもいられない、直ちにマドリードへ戻る許可を出してもらいたい・・・。
委員会もまた怒った。これでは、工事着任者のマティーアス・アリュエーに無礼であるばかりではなく、委員会全体をもゴヤは侮辱をしている、ということになった。
委員会は、ゴヤに対して絶縁状を叩きつけた。しかも、その絶縁状の後半は、おそらくゴヤの血を煮えくりかえらせたものであったろう。・・・」

これでゴヤが怒らなかったとしたら、ゴヤの方がどうかしているというものである
「当該画家に報酬を支払うべきこと・・・・・今後如何なる名目、状況においても、当教会における壁画の仕事を許さざるものとす。但し、さればとて監督官において、彼の妻女に記念メダルを授与することを妨げるものにあらず。妻女は、委員会の考慮するところによれば、当教会においての老練なる制作をなしたるドン・フランシスコ・バイユーの妹なればなり。

これでゴヤが怒らなかったとしたら、ゴヤの方がどうかしているというものである。
しかも、ゴヤにとっての屈辱の極は、妻のホセーフアが、この記念の金メダルなるものを並みいる委員たちに叩きつけてゴヤといっしょに、埃をまきあげてサラゴーサを後にした - のではなかったことであった。」

サラゴーサとあの絵のことを思い出すと血が煮える
「六月もまだ明けぬうちに、ゴヤはマドリードに戻りついてサラゴーサの埃を身と心から叩き出している。」
「サラゴーサとあの絵のことを思い出すと血が煮える。

それは、無理からぬ次第であった。」
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