ハンゲショウ 江戸城(皇居)東御苑 2014-06-25
*1781年(安永10/天明元)
11月
・大野城拝領百周年。土井利房が天和2年に大野を拝領してから。
3日、大野藩主土井利貞(41)、帰国。
15日、祝儀開催。
23日、大庄屋・町年寄・御用達・庄屋など町在御目見の者全員を登城させて酒を下賜、領内全ての家に酒代として1軒に銀1分6厘ずつ与え、年末には大赦。
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11月1日
・オーストリア、農奴制の廃止令が公布。領主に対する農奴の従属、緩和。
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11月8日
・フランス、ロベスピエール(23)、アルトワ州高等法院の弁護士になる。
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11月16日
・モーツアルト、マクシミリアン・フランツ大公に呼ばれ、ヴュルテンベルク公フリードリヒ・オイゲン夫妻の前で演奏。
23日、アウエルンハンマー邸で音楽会開催。
アウエルンハンマー嬢の為に作曲した「2台のクラヴィーアのためのソナタ ニ長調」(K.448(375a))をアウエルンハンマー嬢と共演。
この月、『ヴァイオリンの伴奏を伴うクラヴサンまたはピアノ・フォルテのための6曲のソナタ』(K.296、376(374d)、377(374e)、378(317d)、379(373a)、380(374f))をヴィーンのアルタリア社から出版。既に手許にあった旧作に、この年夏に作曲した新作を加え「作品Ⅱ」という番号を与えて出版。
大公とは前年ミュンヒェンで知りあった。
大公は、マリア・テレジアの一番下の皇子で、のちにケルン選帝侯ならびに大司教の補佐となり、さらに選帝侯となる。公女エリーザべ卜は当時14歳で、トスカナ大公フランツの長子でヨーゼフ2世の甥の13歳のフランツ大公と婚約した。
モーツァルトは12月5日付の手紙で、ひょっとすると自分がこの公女のクラヴィーアの先生になれるかもしれないと洩らしているが、皇帝ヨーゼフ2世の意向で駄目になった。
モーツアルトに頼もうとしたが、皇帝がサリエリにこの仕事を委ねた。歌をサリエリに習わせるなど残念なことだ、と12月15日付の手紙でモーツアルトは残念がる。
「当地はたしかにクラヴィーアの国です」(6月2日付手紙)とモーツアルトが語るように、ヴィーンはクラヴィーア楽器(当時のピアノフォルテ、ハンマーフリューゲル)がもてはやされていた。
それは職業音楽家たちの最大の武器であったとともに、また音楽を愛好する貴族階級ないし市民たち、とくにその子女たちがすすんで学び、愛弾していた楽器であった。かつてのリュートやハープシコードにとって代わった新しい流行楽器であった。
「作品Ⅱ」は、<ヨゼーファ・アウエルンハンマー嬢に捧ぐ>という献辞が付けられている。
このヨゼーファ・バルバラ・アウエルンハンマー(1758~1820)はモーツァルトのクラヴィーア教授における高弟の一人。
彼が「デブ」(3月28日付)と呼び、「妖怪」(6月27日付)と呼んだほど醜かったと伝えられるこの女性は、ヨハン・ミヒャエル・アウエルンハンマーなる人物の娘であったが、「素晴らしい演奏をする」(6月27日付)。
彼女は自らの容貌を自覚して、結婚など考えずに、自分に与えられた才能を活かして生きようと決意していて、いずれ将来、パリでクラヴィーア奏者として名をなそうと考えていた。モーツァルトはこうした彼女の計画の手助けを頼まれた。
アウエルンハンマー嬢に対する音楽指導は、これから細心なかたちで行なわれ、2人しての音楽活動も続けられていく。
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11月26日
・フランス艦隊、セントユースタティウスを奪取。
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12月
・イギリス、独立系議員によるアメリカでの停戦を求める動議、否決。
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12月15日
・モーツアルト、父レオポルトに対しコンスタンツェ・ヴェーバーとの結婚の意向、不服従宣言の手紙を書く。
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12月22日
・この日付けモーツァルトの手紙。日々の過ごし方を説明している。
「毎朝六時に床屋が来て、ぼくを起こします。 - 七時までにすっかり服を着ます。 - それから十時まで作曲です。十時にはフォン・トラットナー夫人のところで時間をとり、十一時にはルムべーケ伯爵夫人のところですが、二人ともぼくに十二回のレッスンで六ドゥカーテンくれます。 - それにぼくは毎日出張するのですが、 - この人たちが用事のある場合は別です。 - これはぼくにとってはいやなことです。伯爵夫人とはもうわたりをつけて、決して約束を反古にしないようにしました。彼女がいなくても、ぼくはお礼がもらえます。トラットナー夫人はこうしたことにはしまり屋すぎます。」
翌1782年2月13日の手紙も同様。
「朝六時にはもういつでも髪の手入れをします。 - 七時にはすっかり身なりを整えています。 - それから九時まで作曲し、九時から一時まではレッスンです。 - それから招待されていない時には食事をしますが、呼ばれている時には、二時か三時頃食事となります。今日も明日も、ツィヒー伯爵夫人のところでも、トゥーン伯爵夫人のところでもそうです。晩の五時ないし六時前にはなにも仕事ができません。 - しかもしょっちゅう音楽会でそれが邪魔されます。会がなければ九時まで作曲です。 - それからぼくは愛するコンスタンツェのところに行きます。(中略)十時半から十一時に帰宅します。(中略)急な音楽会とか、あっちこっちから呼ばれるかもしれないあやふやさのために、晩に作曲できないかもしれないので、ぼくは(とりわけ早く帰宅する時には)眠るまえになにか作曲しますが、そんなことでしょっちゅう一時までもやっていて、それからまた六時には起きるのです」
ド・ルムベーケ伯爵夫人、アウエルンハンマーと並んで、フォン・トラットナー夫人の名が現われている。
夫人は、マリーア・テレージア・フォン・トラットナー(1758~93)で、大学の数学教授だったヨーゼフ・アントーン・フォン・ナーゲルの娘で、1776年にヨハン・トーマス・フォン・トラットナーの再婚相手となった。書籍出版商として名を成したこの人物、ならびにその夫人ですぐれたクラヴィーア奏者だったマリーア・テレージアとは、モーツァルトは長い友誼関係を結び、1784年1月~9月はこのトラットナー邸〔トラットナーホーフ〕に住んでいる。また、夫妻はモーツァルトの子供たちの代父をしばしば務めることになる。
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12月24日
・モーツアルト、ウィーン王宮、ヨーゼフ2世、ロシア大公臨席で、イタリアの作曲家・クラヴィーア名手ムーツィオ・クレメンティ(1752-1832)と競演。
ムーツィオ・クレメンティは、ローマ生まれのイタリア人音楽家。少年の頃英国に移り、1773年にはロンドンに定住していたが、1780年ヨーロッパ演奏旅行を企て、パリではマリー・アントワネットの前で御前演奏を行なったあと、ストラスブール、ミュンヒェンを経てヴィーンに着いた。
後年、クレメンティが弟子のルートヴィヒ・ベルガー(1777~1839)に語ったところでは(『アルゲマイネ・ムジカーリッシェ・ツァイトゥング』第34巻)、彼がウィーンに到着して2、3日すると、ヨーゼフ2世に招かれ、ピアノフォルテを弾いてくれとのことであった。奏楽室に入るとその端麗な外貌から侍従と思われる人物がいた。話題が音楽のことになるやいなや、2人は自分たちが芸術仲間であって ー モーツァルトとクレメンティであることが分かり、最大限の親しみをこめて挨拶し合った。
「私はこの時まで誰もこれほどにも才知豊かで典雅な演奏をしたのを聴いたことがなかった。とりわけ私が驚いたのはアダージョであり、また皇帝が主題をお選びになった数々の変奏曲の即興であった。この主題を私たちはお互いに伴奏しあいながら変奏しなければならなかったのである。」
ところで、モーツァルトはこの出会いを翌1872年1月12日付の手紙で報告し、クレメンティを酷評している。
「クレメンティはみごとに弾きますが、右手の演奏に関していえばです。 - 彼の長所は3度のパッセージです。 - それ以外はいささかの感情も趣味〔様式感〕ももち合わせていません。要するに単なる機械屋です。」
さらに1月16日付の手紙でこれを詳しく敷衍する。
「ところで、クレメンティのことです。 - この人物は有能なチェンバロ奏者です。 - それで全部言いつくしたことになります。 - 彼は右手が非常に巧みです。彼の十八番のパッセージは3度です。 - それ以外には趣味も情緒もこれっぽちもない。 - 単なる機械屋です。皇帝は(ぼくたちが充分挨拶を交わしあったあとで)、まず彼から弾き始めるようにといったのです。『カトリック教会さん』と陛下はおっしゃいました。クレメンティはローマ生まれだからです。 - 彼は即興的に弾いたあと、ソナタを一曲弾きました。 - それから皇帝はぼくに始めてくれと言いました。 - ぼくは試し弾きをしてから変奏曲を弾きました。 - そのあと大公妃〔マリーア・フェドローヴナ〕がパイジェッロのソナタを下さいました(彼自筆のひどいものでした)が、ぼくはそのアレグロを、彼はアンダンテとロンドを弾きました。 - それから、ぼくたちはそこから主題を一つ取り出して、二台のピアノフォルテで演奏したのです。 - ここで奇妙だったのは、ぼくは自分用にトゥーン伯爵夫人のピアノフォルテを借りていて、(ぼくが一人で弾く時には)このピアノフォルテだけを弾いたのでした。 - これは皇帝がそうお望みだったからです - しかも、もう一つのピアノフォルテは調子が狂っていて、それに鍵が三つも下がったままなのです。 - かまわぬと皇帝はおっしゃいました。 - ぼくは一番よくとって、これは皇帝がぼくの音楽における技術と知識とをもうご存知でいらっしゃって、外国人だけ試そうとお望みだったのだと考えています。」
ヨーゼフ2世はこれにご満悦であったとモーツァルトは伝え聞き、また皇帝が自分に好意をもってくれ、内密の話をしてくれたと自慢し、また、自分の結婚話もでたと父親に報告している。
モーツアルトとクレメンティの奏法の違いについては、クレメンティ自身による自己批判がある。
クレメンティは、後年、弟子のルートヴィヒ・ベルガーに対して、自分がかつてはきらびやかなテクニックを好み、彼以前には一般に用いられていなかった重音奏法によるパッセージや即興奏法に熱中していたこと、後年になって初めて歌うような、高雅な演奏法を習得したと語っている。
こうした歌うような奏法は、クレメンティが当時の名高い歌手たちの歌を注意深く聴き、またこうした奏法が可能となったイギリス系統のフォルテピアノの出現を待って、ようやく彼が獲得したものであった。
とすれば、競演の時期のクレメンティはまだそうした楽器をもたず、またそうした新しい奏法に到達していなかったのであり、モーツァルトの批判は、ドイツの音楽家としては正鵠を得たものであった。
モーツアルト、クレメンティ、ヨーゼフ2世に関する同時代の証言。
ウィーンを中心に活躍していたカール・ディッタース・フォン・ディッタースドルフが1799年に世を去る前に、息子に口述筆記させて遺した生涯の記録(『ディッタースドルフ自叙伝』として伝えられる)の中に、彼とヨーゼフ2世との対話がある。
「〔皇帝〕君はモーツァルトの演奏を聴いたことがあるだろうか。
〔私〕すでに三度ほど聴いております。
〔皇帝〕君の気に入ったかね。
〔私〕どんな玄人にも気に入られるように、私も気に入りました。
〔皇帝〕クレメンティを聴いたことがあるかね。
〔私〕ございます。
〔皇帝〕グライビヒを筆頭にしてある連中は、モーツァルトよりも彼の方がすぐれているとしているが、これについては君の意見はどうだね。ざっくばらんなところを聞かせてくれたたまえ。
〔私〕クレメンティの演奏では、ただたんに技量がまさっているだけですが、モーツァルトの演奏には技量と趣があります。
〔皇帝〕まったく同じことを余も言ったことがある。われわれ二人は、まるで同じ書物から学んだようだな。
〔私〕本当にそのとおりでございます。それも経験というあの偉大な書物からでございます。」
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12月28日
・フランス、クルーゾ工場創設。
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12月31日
・北米、大陸会議、フィラデルフィアに北アメリカ銀行設立許可。米初の銀行。
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