江戸城(皇居)東御苑 2014-10-28 サザンカ
*1784年(天明4年)
4月
・モーツアルト、クラヴィーア協奏曲楽章ハ長調(K.Anh.59(459a))作曲。
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4月1日
・モーツアルト、ブルク劇場でモーツァルト自身の最初の劇場演奏会(「ぼくの最初の劇場演奏会」)が開催され、新作のクラヴィーアと木管のための五重奏曲変ホ長調 (K.452)などが演奏される。
当初3月21日に行なわれるはずだったが、リヒテンシュタイン侯爵のところでオペラ上演があるため延期された。
「ぼくの劇場演奏会もたいへんな評判でした。 - ぼくは大協奏曲を二つ書き、それから五重奏曲を一つ作りましたが、これは異例の喝采を博しました。 - ぼく自身、この曲を今まで生涯に書いた最良の作品と思っています。 - 編成はオーボエ一、クラリネット一、ホルン一、ファゴット一、それにピアノフォルテです。 - あなたもこれが聴けたらと思います! - なんと素晴らしい演奏だったことでしょう!」
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4月10日
・モーツアルト、クラヴィーア協奏曲(第17番)ト長調(K.453)作曲。プロイヤー嬢のための予約演奏会用。自作目録第5番。
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4月12日
・モーツアルト、バルバラ・ディ・プロイヤーのための練習帳(K.453b)作曲。その中に、クラヴィーアのための小葬送行進曲ハ短調(K.453a)がある。
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4月15日
・ケルン選帝侯マクシミリアン・フリードリッヒ、没。マックス・フランツ(マリア・テレジアア末子、ヨーゼフ2世末弟)後継即位。
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4月21日
・モーツアルト、女流ヴァイオリニスト、レジーナ・ストリナザッキのためにクラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタ変ロ長調 (K.454)作曲。
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4月27日
・パリ、ピエール・ポーマルシェ戯曲「フィがロの結婚」、コメディー・フランセーズで上演。熱狂的人気
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4月29日
・モーツアルト、クラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタ変ロ長調(K.454)演奏(4月21日作曲。自作目録第6番)。ケルントナートゥーア劇場、ヨーゼフ2世臨席。マントヴァ出身女流ヴァイオリニスト、レジーナ・ストリナザッキ(1764~1823)と共演。
ヴァイオリンとピアノ「黄金の均衡」(吉田秀和)を保つ。
「今、当地には有名なマントヴァ生まれのストリナザッキが来ていますが、とても素晴らしいヴァイオリニストです。彼女はまことに豊かな様式感と感情を演奏で示してくれます。 - ぼくは今ソナタを一曲書いていますが、これをぼくたちは劇場での彼女の音楽会で一緒に弾きます」(4月24日付)。
モーツァルトは当日までに作品を全部仕上げるにいたらず、そのため、ヴァイオリンのパートだけを書き上げて、彼女に渡し、自分はメモ程度の音符を記入したパートによって、ぶっつけ本番で初演されたと伝えられている。
現在ストックホルムにある自筆譜を見ると、ヴァイオリン・パートはクラヴィーアのそれよりも薄いインクで記され、一方のクラヴィーア・パートはヴァイオリン・パートの小節区分からしばしばはみだしていて、あとから補って書かれたことを示しており、このエピソードが事実であることを物語っている。
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5月8日
・モーツアルト、トラットナー夫人のところで開催された音楽会で演奏。
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5月13日
・フランス、外国船の西インド諸島仏植民地との交易許可。
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5月18日
・イギリス、新議会発足。トーリー党、多数占める。
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5月27日
・モーツアルト、ウィーンの街角で、1ヶ月半前に作曲したピアノ協奏曲K.453第3楽章のテーマをさえずる小鳥を見つけ、買う。 むく鳥シュタールは3年間その陽気な主題を歌い続ける。
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6月
・苫米地甚九郎の一揆の捕縛者達、衰弱死する者あり。科を負った犬落瀬村では離村者もでて、百余軒が17軒に減少。
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・モーツアルト、オペラ作家ジュセッペ・サルティの前で彼のオペラ「とんびに油揚げ」のアリアを主題とした『ミンゴーネのアリア「子羊のごとく」によるクラヴィーアのための8つの変奏曲イ長調』(K.460=K6・454a)他を演奏。
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6月13日
・モーツアルト、プロイヤー邸で開催された演奏会でクラヴィーア協奏曲(第17番)ト長調を初演し、ほかにクラヴィーアと木管のための五重奏曲変ホ長調(K.452)などを演奏。
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6月23日
・天明の敦賀の打毀し(杉箸騒動)。
天明3年は大凶作で、小浜藩は冬に敦賀の津留を命じる。
米商人は一層買占め・売惜しみをし、秋から米価高騰、この年の4年閏正月には1俵銀42匁となる。
困窮した百姓・町人達は、立て札や落書によってそれを訴え、藩に対して商家打毀しをほのめかす。
4年正月28日北町奉行所門前の落書:
①町の下層民や在方の高持百姓には藩からの恩恵があるのに、家役負担のある在方の無高百姓にはないので、無高1人前に2俵の拝借米を願いしたい。
②これが実現できないならば、米を買い占めている問屋・米屋・酒屋へ押し寄せ、無理に借用する。これらのことを「敦賀郡中」の名で、「御本領」(小浜藩)・「飛騨守」(野坂領)・「越前守」(鞠山領)・「三之丞」(井川領)の役人宛に要求。
閏一月御影堂前町に立てられた札には、船野長左衛門・土手仁右衛門・大坂屋・丁字屋などを「火ニ而御見舞申そう」とか「米買込候者ヲ一々こぼち可申」などと書かれる。
これら落書・立札に驚いた商人の中には、町在の飢えた人々の為に遣うようにと、25両ずつを2月3日夜、町年寄道川三郎左衛門と代官の家に投げ込んだりする者や、加賀屋・丸屋半助・大乗寺などのように貧民に施行をする者が現れる。
また、米商人の内12人が仲間を作り、前年冬から「米銭ヲそれぞれ集メ施行」するが、人々はこの仲間を「ごもく中間」とか「鬼ニ衣ヲきセたようなもの」ということで「ころも中間」とか悪しざまに呼ぶ。
小浜藩は、敦賀郡内の百姓に米350俵の植え付け飯米を貸し付けるが効果なく、疫病流行もあり無高の百姓・下層町人は困窮してゆく。
6月21日朝、網屋伝兵衛宅の腰板と三宅俊助宅の門前に、町の米「買〆之者打壊」し予告の貼紙が発見、それには、東町2軒、庄町1軒、三日市町2軒、唐仁橋町1軒、西町2軒の計8軒を打毀すこと書かれている。
役所や商人は「定而おど(脅)しならん」とたかをくくるが、この頃、領内村々には「廿三日くれ(暮)六ツ時、敦賀川原口へ御出可被成、相揃御相談可申候」という「村々御年寄中様」に宛てた天狗廻状が廻っている。
23日夜4ツ(10時頃)過ぎ、粟野・中郷・松原方面から集まった百姓達は、塔場口より町に押し寄せ、まず御影堂前町桶屋長次郎、続いて東町吉田屋伊兵衛、西町油屋市太夫・生水文助、それより三日市町の仲天屋徳兵衛・質商土手仁左衛門、さらに唐仁橋町船野長左衛門を打毀し、夜が明けて、引き取る際に塔場町米屋久助を少し打毀す。この8軒以外にも、能登屋利兵衛・沢屋治右衛門・備前屋・伊藤・網屋伝兵衛宅へ踏み込み、酒飯を出させが、一揆勢は米・油・塩などをまき散らすことはあっても、決して強奪せず整然と組織的に行動。
藩の役人は、それまで傍観、一揆が一段落するや一揆参加百姓に足軽や近在の庄屋をつけて村まで送り返し、徒党禁止の触を廻し、今後一揆に参加しない旨血判起請文を取り立て、一揆頭取詮議に取りかかる。
天明5年2月14日、代官所元締藤村完治(翌日手代市太夫と交替)・小西武助・番人8人が、石灰改めと称し杉箸村に宿泊し、翌日夜、一揆頭取として同村の彦惣・彦左衛門親子を捕縛、16日、小浜に移送、厳しい詮議。
6月には同村の甚三郎も捕縛、小浜送り。詮議結果、一揆頭取とされた彦左衛門・甚三郎・勘四郎は、6月25日、敦賀町奉行小畑六左衛門により敦賀に戻され、翌26日、来迎寺野で彦左衛門・甚三郎は処刑、塔場口の土橋に3日間晒される。
逃亡していた勘四郎には7月11日に判決申し渡し。処分者は杉箸村の者が殆どで、多数の一揆参加者は処罰されず。
これは、この一揆が「郷中八拾八ケ村・申合凡三千人斗出候」規模であったにもかかわらず、百姓の不満解消のためや幕府への配慮などから、藩がこの一揆を杉箸騒動と名付けて局部的なものとする姿勢に通じる。
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