2015年3月15日日曜日

明治38年(1905)4月23日~5月 『直言』第12号「婦人号」発行(堺利彦「婦人問題概観」など) ロンドンでロシア社会民主労働党第3回大会 バルチック艦隊、カムラン湾沖から北行 漱石(38)「琴のそら音」と小山内薫の雑誌「七人」    

オオカンザクラ 2015-03-13 千鳥ヶ淵戦没者墓苑
*
明治38年(1905)
4月23日
・大阪婦人慈恵会、通勤婦人のため授産所に幼児収容所併設。
*
4月23日
・『直言』第12号「婦人号」発行(緑色のインクで印刷)
木下尚江「醒めよ婦人」(社説)、堺利彦「婦人問題概観」、石川三四郎「独逸軍人の結婚」(ビルゼー陸軍中尉の「小兵営」の紹介)、英文欄「婦人の状態」、世界之新聞欄「英国婦人選挙権獲得運動の小歴史」。
通常の8ページを10ページに増やし特集を組む。荒畑寒村「東北伝道行商日記」(第1回)。小田頼造の「九州日記」とが毎号並載。

「如何にして社会主義者となりし乎」
延岡為子、松岡文子、木下尚江の妹の菅谷伊和子、神川松子の4人が答える(神川松子はのちに赤旗事件で菅野すがらとともに検挙される)。

「婦人問題概観」(堺利彦)
女子が「奴隷」 のように男子に隷属している現状を指摘しつつ、「婦人解放」を実現するための手段について述べる。女子は経済上の独立を得なければ、男子の束縛から脱することができないが、社会主義を実現することによって衣食住の自由を得られれば、女子は男子に依存せずに解放される。
一方、女子が男子と同等な教育を受け、職業を持って収入を得ることは現状では困難だ、とも述べ(この点は堺の婦人論の限界、あるいは婦人の権利に対する消極的な態度として、批判されている)。

「社会主義婦人講演」の告知
講演会では、堺利彦は「べーベル氏の婦人論(一)」を担当。
自柳秀湖『歴史と人間(昭和11年)』はこの演説会についてで次のように述べる。
若い人達、殊に近頃の娘さん達に会って話して見ると、その大部分が、日本の婦人解放運動の起り、平塚明子さんの青鞜社であつたと信じて居るやうである。この不勉強振りには驚かされもするが、又失望もさせられる。
青鞜社の起る前、堺さんの手でべーベルの婦人論などもすでに一通り紹介されて居たし、これは余り知られずにしまったが、アメリカのハーマン翁の自由恋愛論なども堺さんの手で研究され、折々の集まりには話題にも上って居たものである。

「日本之新聞」欄の「女学生と社会主義」
文部省が各学校に対し女学生の間の社会主義思想伝播を厳重に取締る訓令を発した事実を摘発して、「・・・教育当局が・・・女学生の受くる書状を検閲し、彼等の眼に触るる新聞雑誌書籍の類を制限し、要するに種々外来の知識思想を制限するは・・・彼等をして紳士閥男子の玩弄に適すべき温柔、卑屈、無気力の婦人たらしめんとすればなり」と、痛烈に糾弾。

「平民社より」(堺利彦)
文部省の訓令を嘲笑し、「・・・我党の『婦人講演』、・・・『直言婦人号』などを見て、腰でも抜かさにや善いが」と冷やかす。
*
4月25日
・高平小五郎駐米公使に、満州の清国への還付、門戸開放の日本の方針が不変であることを米大統領に言明するよう訓令。
*
4月25日
・ロシア社会民主労働党第3回大会開催。~5月10日、ロンドン、ボリシェビキのみの大会。
クラーシンがレーニン(35)決議案に対する修正案としてトロツキーの臨時革命政府の考えを提出。レーニンはこれの同調に同調し決議案は修正される。
メンシェビキは、ジュネーブで党協議会開催。
*
4月25日
・フランスの社会主義諸派(PSD・PSF)、社会主義労働者インターナショナル・フランス支部結成。
*
4月26日
・午前8時、バルチック艦隊、カムラン湾沖から北行し、午後4時、北方仏領ヴァン・フォン湾入港。
*
4月29日
・武田薬品の武田長兵衛、誕生。
*
4月30日
・『直言』第13号発行
木下尚江「恋愛中心の社会問題」

「国民兵召集の勅令」
兵力が涸渇し、遂に国民兵召集の勅令が発せられるに至ったと報じる。
日く旅順の陥落、日く奉天の大勝、日くパルチック艦隊の全滅、日く何、日く何。新聞は連日、大活字を羅列して戦局の有利な発展を報じているが、実は将兵の死傷算なく予後傭兵を投入してなお足らず、戦力ほとんど底をついて頽齢(たいれい)老躯の国民兵を召集しなければならぬ窮境に陥っていた。
*
4月30日
・英・仏間で軍事協議開始。
*
4月30日
・アルバート・アインシュタイン、PhD論文「分子の大きさの新しい決定法について」完成。7月に受理。これは「わが友M.グロスマン博士」に献呈。
*
5月
・米の中国人移民制限に対し米貨ボイコット運動が広東・廈門・福州・上海・漢口・天津などの開港場で起こる(~9)
*
・韓国、憲法研究会結成。
*
・北洋常備軍第五・第六鎮、それぞれ編成、北洋六鎮成る
*
・戦死者3万柱以上が靖国神社に合祀される。
*
・桑木厳翼「イプセンの『ノラ』に就て」(「丁酉倫理会倫理講座講演集」第32)。ノラと良妻賢母主義を重ねる。良妻賢母主義のノラが「精神に自由を与え」られることにより自我を自覚。
*
・小山東助「朝鮮同化論」(「新人」5・6月号)。権力による同化でなく、善政主義による同化を前提とする韓国併合を主張。
*
・漱石(38)、「琴のそら音」(小山内薫の発行する雑誌「七人」)       

小山内薫は「七人」を発行するとともに、「帝国文学」の編纂委員と庶務委員とを兼ねていた。彼は、夏目漱石の原稿を「帝国文学」にもらって載せたが、「七人」にも載せたいと思った。
熊本の第五高等学校で夏目に学んだ縁で、夏目のところによく出入りしていた学生の野村伝四が、「二階の男」という小説を「七人」2月号に載せた。漱石はその「二階の男」を読み、野村に批評を書いた。そこで、小山内は漱石に「七人」に小説を書くように依頼し、漱石は5月の「七人」に「琴のそら音」という50枚ほどの小説を書いた。

この作品は、野村伝四をモデルの一人にしたもの。法学士で近く結婚することとなっている主人公のところへ、友人の文学士で幽霊を研究している男が訪ねて来て、ある出征軍人の妻が病死した時、その幽霊が戦地にいる夫の目に写った、という話をする。
主人公は、自分の結婚の相手の女が病気しているのをしきりに気づかっていたが、それは妃憂に終って、当の女性が訪ねて来る、という筋で、現代風の恋愛小説の一種であるが、よい出来ではなかった。

小山内は、「帝国文学」や「七人」に漱石の原稿をもらったが、あまり漱石に接近しなかった。
小山内は漱石の東大での前任ヘルンの引きとめに努力したためか、漱石の講義には関心を持たなかった。彼の友人の武林磐雄も、漱石の文学論の講義の難解さにあきれて、その講義を聞くのをやめた。
小山内は、文壇の作家たちと親しく交際している点では自分の方が漱石より玄人の文士であるように感じていた。彼は「琴のそら音」をもらったあと、漱石宅へ行ったが、玄関で挨拶しただけで帰った。
漱石もまた小山内があまり文壇を目標として動きすぎるように思われ、気に入らなかった。
この頃漱石は「猫」の一回について15円ぐらい「ホトトギス」から稿料をもらう外、たいていは原稿料なしでものを書いていた。

■雑誌「七人」発行の経緯
ラフカディオハーンの東大引き止め運動がたたってラテン語の試験で落第し、まだ文科大学英文科2年にいた小山内薫(数え24歳)は、明治37年11月、英文科・独文科7人を同人とする同人誌「七人」を出した。
小山内薫は、明治33年頃から内村鑑三の熱心な弟子となり、その「聖書之研究」の編輯を手伝ったり、伝道旅行に歩いたりした。
しかし、伝道旅行を共にした友人の妹と関係して苦しんだが、結局、その女性は許婚と結婚した。この事件は彼の精神を荒廃させ、彼は信仰を棄てた。

明治35年暮、詩人として崇拝していた島崎藤村が「明星」に発表した「藁草履」に感動し、小諸に藤村を訪ねた。
また、森鴎外にも近づき、メーテルリンクの「群盲」を訳して鴎外の雑誌「万年艸」に発表してもらい、その縁で俳優伊井蓉峰を知った。伊井は隅田川の中洲の真砂座を常打小屋としていたが、明治37年7月から小山内はドーデエの「サッフォー」やシェイクスピアの「ロメオとジュリエット」を翻案して提供し、演劇の世界でも一人前に働き、多少の収入を得た。

小山内はまた交際のあった蒲原有明に連れられて、麻布・龍土軒で開かれる独歩や花袋や柳田国男などの会合にも出かけ、次第に文壇人の間に知られるようになっていた。
彼は大学の仲間7人を集め、初めは「七星」という雑誌を出すことにしていたので、明治37年9月、その抱負を書いた手紙を小諸の藤村へ送った。

藤村は、その巻紙の手紙に朱墨で傍書きをして返事とし、そのまま小山内へ送り返した。

「申しわけもなき御無沙汰いたし候。『七星』も愈十一月のはじめを期してうぶ声をあぐる事と相成候につきては、今より『産衣の世話、襁褓の用意』も致さねば成らず(略)殊に初産のわけもなき気づかはしさ御察しよしなに願上候。〔藤村傍書 - 対話として朱書御高覧被下度候。さて小生よりも御同様御無沙汰いたし候。不相変御精励の御旨、何よりと存上候。・・・

「われらの雑誌は勿論独立的に所謂外助はなるべくこれを避くるつもりに候へども、ひきかへて内助は極めて必要に候。〔藤村傍書 - なるべく独立にしたきものに候。雑誌事業には、小生も多少の経験あり、今より御苦心のほど思ひやられ候。〕この程も蒲原君のかたい処を見込んで、資金の保管を頼みに参るつもりに候。〔藤村傍書 - この人ならばたしかに候。〕有明君も『七星』の会計係は余りゾッとし給はぬなるべけれど、悪縁と諦め給ふやう説きつけ申すべき所存に候。

「われらの雑誌の内容は、作にもあれ、翻訳にもあれ、詩にあれ、小説にあれ、なるべく人生に触れたるものを集め〔藤村傍書 - 風涛自ら岸に上るとやらにありたし。〕 ヒュウマン、ハアトにアッピールせざる自家の女々しき感慨などは、成るべくこれを排するつりに候。・・・

「われらは成るべく同志七人にて雑誌をつくりあげてゆく所存に候。〔藤村傍書 - この点尤も賛成なり。この気概なくば新しく雑誌を起すの必要なし。〕先日貴兄に願ふ処ありしも、決して無理にもとにはあらず。われらの手引となるべき御言葉のひとつも賜らばと存じ候のみに候。蒲原其他の諸兄へも同様に候。〔藤村傍書 - 少し思ふこともありて差ひかへ申候。初期のうちは殊に七人のみの雑誌を拝見いたし度候。〕 ・・・」

そして明治37年11月、小山内薫等は「七星」を「七人」に改めて雑誌を発行した。
表紙には若い画家で藤村の崇拝者であった有島壬生馬が七つの能面を描いた。この雑誌は、初めの頁に同人たち7人の名前を載せているだけで、外部の原稿の外、同人の筆になるものはみな無署名であった(同人外では蒲原有明の詩を載せたので、その分だけは署名してあった)。
*
・東京砲兵工廠群馬県岩鼻火薬製造所に、ダイナマイト製造所設置。11月から製造開始。ダイナマイトの国産化。
*
・英外相、日英攻守同盟提案。
*
・ドイツ領カメルーンで蜂起。
*
・国際労働者保護ベルリン会議、婦人の夜間労働について討議。
*
*

0 件のコメント: