2018年4月8日日曜日

「『草枕』の那美と辛亥革命」(安住恭子 白水社)編年体ノート14 (明治31年初夏の頃)

北の丸公園
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明治31年初夏の頃
漱石の小天再訪(日帰り)
荒正人『漱石研究年表』の記事より
「★(四月(日不詳)山川信次郎ら小天温泉に行く。漱石は鏡のヒステリーを心配したらしく同行しない。) 」
漱石の行動記録であるが、行かなかったことをかっこ付きで記している。妻鏡子のヒステリーは漱石の小天温泉行きのことで起こった。

「★五月から七月上旬までの間(不確かな推定)、狩野亨吉・山川信次郎・奥太一郎・木村邦彦と共に、朝早く小天温泉に行き、湯の浦の別荘で昼食をして、前田案山子の本宅を訪ねる。〔略〕前田家の長女〔次女〕卓子は河内(河内吉野村)まで見送る」
続いて、五高の生徒職員と共に「招魂祭」に参拝したこと、学生が訪ねてきたこと、正岡子規から手紙が来たことが書かれて、鏡子夫人の入水事件の話題になっている。

これより少し前、この頃(明治31年初め、前年末からの漱石の小天滞在のあと)前田卓は、山川の下宿を訪ねたり、狩野の下宿の世話をするなど熊本にたびたび行っている。
狩野亨吉の五高赴任は明治31年1月22日で、4日後の26日に教頭を命ぜられている。下宿を定めたのはその頃であろう。

また『年表』には「★一月十八日前田家から蜜柑と乾椎茸送られる」という記事もある。これらのことは、漱石と山川との小天行きのあと、卓と熊本五高の教授たちが頻繁に交流したことを示してる。

一方で、「夏目先任のお宅へは、奥様もありましたし、何となく気兼ねで一度もお伺いしたことがありませんでした」という卓の微妙な言葉。他方、漱石が、4月には妻のヒステリーで小天に行けなかったが、5月~7月上旬の間には山川・狩野らと出かけている。

筆者はいう.....
そこに漱石と卓の、行きたい、会いたい、という胸の内が読み取れないだろうか。決して表面には表わさなかったにしろ、そうした思いは敏感に伝わるものだ。この当時の 「落ち着くことを許されない漱石の気持ち」には、そんな卓への思いも入っていたのではないか。鏡子夫人の入水は、漱石の小天行きと重なるように思えてならない。

白仁三郎の証言など
『年表』の中の小天行きに関する注釈に、白仁三郎(熊本五高で寺田寅彦らと共に漱石に俳句の指導を受けた。後の坂元雪鳥)が、『草枕』発売直後の明治39年9月5日に漱石を訪れたとき、小天温泉の思い出話になり、漱石は、「僕は山川先生から紹介して頂いて行きました。僕は度々行ったよ」と話したという。
これは、漱石の小天行きが二回だけではないということを示していないか。荒正人も「これによると、数回訪ねたことになっている」と書いている。もしかして一人で訪れたことがあったのではないか、例えば早春の2月か3月の頃。

また、ロンドンからの明治34年2月9日付け狩野亨吉、大塚保治、菅虎雄、山川信次郎の連名宛の手紙に、「僕はもう熊本へ帰るのは御免蒙りたい」と書きながら、「僕は帰ったらだれかと日本式の旅行がしてみたい、小天行抔を思い出すよ」とある。熊本での仕事はしたくないが小天には行きたい、といっている。そこに、卓のおもかげも浮かばなかったとは言い切れない。

上村希美雄「『草枕』の歴史的背景」によれば、「那古井(なこい)」には、「ナミさん恋いし」という説(加藤豊子「『草枕』・那美さん考」、『太田善麿先生退官記念文集』所収)や、「な」を禁止の意にとって「勿恋い」つまり「恋するなかれ」という説(藤間美実『文学と革命と恋愛と哲学と』)もあるという。

そして鏡子夫人は入水。
その後、『年表』には二度と小天は登場しない。

明治31年6月末か7月初め
鏡子夫人の人水事件
荒正人『漱石研究年表』の明治31年の項に、
「★六月末か七月初め(日不詳) (推定)(後者は、小宮豊隆推定)、早朝、鏡は自宅近く、梅雨期でかなり水量の多い白川の井川淵に投身自殺を企てる。舟に乗って投網の漁に出ていたかざりや(ブリキ職)松本直一に救われる。元第五高等学校の同僚浅井栄熈の奔走で、醜聞の伝播を内輪に留める」とある。
鏡子夫人は、3月末に引っ越した熊本市井川淵町8番地の家の近くを流れる白川に身を投げた。未遂に終わった。
注釈として荒は、「新婚以来夫人の生活は本当の意味で落ち着いたものではなく、その夫人の本当には落ち着けない状態は落ち着くことを許されていない漱石の気持ちの反映と看るべき」という国文学者北山正迪の論考を引用している。神経症的な漱石の状態が、新婚早々のうら若い鏡子夫人を悩ませたということだろう。

松岡陽子マックレインは、夫人のひどいつわりを入水の原因としているが、漱石がつわりで苦しむ妻のために休校願いの届けを出したのは、10月12日で、事件の3~4ヶ月後である。翌年5月に長女筆子が誕生しているから、つわりはその頃と思える。

「落ち着くことを許されていない漱石の気持ち」というのは、基本的には、狩野亨吉宛の手紙などが示すように、松山や熊本に逃れて来たことへの忸怩たる思いがあり、本来自分がなすべき仕事を放棄しているという自責の念だろう。更に、本来の仕事である詩人としての発露が胸の奥にたたみ込まれていながら、教師という仕事に甘んじなければならないという葛藤がある。これらの思いが漱石の中でくすぶり続けていた。
それによって神経衰弱になり、癇癪持ちでもあった漱石は、『猫』を書くまで落ち着くことはなかった。

けれども、鏡子夫人は元来、そんな夫と堂々と渡り合う力を持っていた。漱石が強く神経を病んだ明治37年、別居を求める漱石に対し、いったんは実家に帰ったものの、効果がないと見ると、漱石のもとに戻っている。「私はこの時今度はどんなことがあっても決して動くまいという決心をして参りました」(『漱石の思い出』)という強さである。新婚当時から、この気むずかしい男になんとか渡り合ってきたのだ。したがって、鏡子夫人がヒステリーに陥ったのは、もう一つ別の要素が加わってのことと思う。

(つづく)


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